錦織圭選手のプレイは気持ちがいい。ちらっと浅田真央選手のなにかを思い出すことがある。
鍛えられた身体 研ぎ澄まされた精神 ムダなものがない まぎれもない天才 それを開花させたたゆみない努力
テニスが好きで フィギュアが好きで ふたりとも血の滲むような努力をつづけたのだろう。
テニスの選手には共感するひとが多い。熱い松岡修三 クルム伊達 杉山愛の笑顔 ....
ひとつのボールを追い続けること 打っては返し 打っては返し いのちのやりとりをすることがテニス選手を磨いてゆくのだろうか。
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おなじスポーツではあるが テニスとフィギュアスケートは全く違う。
採点においてテニスには曖昧なものがない。体力 気力 技術 運 総合力で勝っている強いものが勝つ。
コートは衆人監視のコロセアム テニスは格闘技にちかい。
一方 フィギュアスケートには 表現という採点項目があり これはたぶんに恣意的で確固とした基準がない。
これが不正に付け入られる所以なのだ。
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けれども そうした 外部からのものではなく 選手の内部から発する 動機のようなものも 演技を左右する。
個人的な考えだが それは 表現である。
演技やパフォーマンスについて とくとくと 自己表現 という言い方をする方がたまにいるけれど
自己表現 自己....という ことばがついただけで その表現は 限定されたものになる。
ときに自己撞着のぬるぬるした気持ちのわるいものになる。そのひと 演技者であれ 役者であれ 自己表現する
自分と密着することは 自分がすきなのである。演技する 自分が目標になっている。そこで完結してしまう。
そういう 演技者あるいは役者のよくいえば個性 わるくいえば癖 を好み 熱狂するひともいるが
そのひとたちも たぶん 自分によく似たところ 或いは 自分に欠けたところが好きなのであろう。
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かつて スポーツも芸能も 神に捧げられたものであった。オリーブの冠は名誉であった。
神にささげることを 許される それこそが 名誉であり 喜びであった。しかるに 次第に 神のお相伴を
していた人間が ”神” になった。スポーツも芸能も新しい神 観客に媚 おもねるものになりさがった。
なぜなら 金が 動くからである。 金は芸術もスポーツも堕落せしめた。
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さりながら そうでないひともいる。
自分の身体 技術 努力を 捧げつくそうとするひとがいる ちいさくいえば テニスの神 フィギュアスケートの神
であるかもしれないが 自分を磨きぬくことによって 捧げつくすことによって自分の肉体に神を降臨せしむるひとたちがいる。
そうしたひとびとの 演技を見るとき 観客は この世ならぬものを眼前に見ている そして魂を
揺り動かされるのだ。
不可能が可能になる一瞬 鍛え抜かれた身体と精神が ひかりとなって燃えるような一瞬がある。
わたしたちは かつて そのようなことがあたりまえの世界にいたのかもしれない。
ゆえに 魂が そのふるさとを 希い その再現をつかのま 見せてくれるひとたちに惹かれ 崇めずにはおれないのかもしれない。