観ました。初日上映。そして、翌日も観た。2回。三回目も行きたいが、それはまだ。(2回観たことに悔いは無いが、その後仕事のスケジュールがえらいことになった・・・)
初日は家族で観て、見終わってから、山ほど話をした。
おいらの母親は、たきちゃんよりも年下だが、女中奉公の経験がある。山形から上京するたきちゃんが雪の中を歩いて行く姿が自分の経験と重なって、ものすごく共感したらしい。
また、板倉さんの下宿の場面で老夫婦がお灸を据えていたのを観て、子どもの頃を思い出したらしく、近所のおばさんに頼まれてお灸をすえてあげたときに、子供だから加減がわからなくて、熱くしてしまって悪かった、とか、妙に細かいことを懺悔っぽく話していたのが印象的だった。親にとっては、強烈に記憶を刺激される映画だったようだ。
そう、秘密は誰にでもある。他人ならいくらでも、そんなこと気にしなくていいよ、と言いたくなるようなことでも。永久に、その人のくさびとなり、えぐるような痛みと苦しさを、与えることだってあるんだ。
自分がすえたお灸の熱さを想像して、懺悔したくなる気持ち。
それは、渡さなかった手紙の重みと同じように、永遠にぬぐえない、優しさ故の悔恨なのだろうと、思う。
映画「小さいおうち」
とてもよい映画だった。何というか、とても好きな映画だ。雰囲気といい、人物の描かれ方といい、とても上品で、とても艶っぽくて、とても優しかった。そして、とても悲しかった。
その中で、考えた。
愛の様々な形について。
そして、罪というものの定義と、その重さについて。
書き始めるとえらく長くなりそうなので、何回かに分けて考えていきたいと思う。
今日のところは、書き殴りに近いが、とりあえず叫びたいことだけ記したいと思う。
(1)愛にはいろんな形がある、タキちゃんをれずとか短絡的にくくるんじゃねぇ!!!ってことを、山田監督も言いたかったんじゃないかなぁ・・・(おいらも同感だけど、個人的曲解?)この映画には、いろんな愛の形が描かれていて、それについてコメントしたくてうずうずしている。自他の境界さえ朧となるような愛の形とか、無意識の上のこの上ない愛情とか、、、この映画では、多様な人間の、多様な「愛し方」が描かれていると思うんだ。それは、肉欲とはまた別のもので・・・ああ、うまく言えないな。睦子さんの台詞は、観客へのひっかけだと思うんだよね。タキちゃんの気持ちは、決して「あれ」で定義されたわけではないと思うんだ。
(2)パンフレット読んで、吉岡氏のコメントに「収録中は、時子さんだけを見つめていた」とあったのに衝撃。タキちゃんへの気持ちってどんなだったんだろうなぁ。。。(恭一じいちゃんの意見に賛成派のおいら・・・)
(3)孫の妻夫木聡は、原作よりも情愛溢れる感じが好感度高かった。彼の最後のつぶやきは、思わず倒れ込みそうになるぐらいの脱力感だったが、あの「そぐわなさ」が、2度目見た時は、一種快感になっていた(笑)。そーだよ。おばあちゃんの気持ちは、おばあちゃんにしか、結局は知り得ないことなんだよ。偉そうに「わかった」とか言わない健史、謙虚だな。
(4)寝室の「絵」・・・おいら、映画を二度目に観たとき、初めて気づいた。初見の冒頭は、完全にわかってなかったです・・・あんなにクローズアップしてくれてるのに・・・山田監督、申し訳ない・・・それにしても、冒頭の葬式場面、おいらのばあちゃん(100歳)の葬式のときと見事に似ていて、すごく既視感を感じた。(それにしても、第一発見者って・・・健史、辛かったな。)
(5)エンドクレジットの最後に画面一杯に映し出される、板倉正治の「絵」。パンフレット読むと、制作過程はほのぼのしていたようだ。
おいら、最初見た時は「シャガール!?」と複雑だったが、板倉氏の雰囲気って、確かにシャガールの模写とか好きそうな気がする。ただし、あの絵を描いたのは、戦前だと思うんだ。あの絵は、彼が時子奥様に恋していた真っ最中に描いた絵。そんな、幸せな雰囲気を持った絵だ。(シャガールの絵を、戦前の日本で観る機会があったかどうかはおいらにはわからない。芸大なら可能か?もしなかったとすれば、板倉氏は「日本のシャガール」だ!)
(6)女性陣の色っぽさ、艶っぽさ(特に時子さん!)が素晴らしくて、板倉君の下宿で、あんな音が筒抜けな環境でどうやって何をいたしたんだろうとか(下品ですんません)、想像するだけで、中年としては、少々心臓が変な風に打ちそうな感じでした。タキちゃんも同じように想像したのかと思うと、余計にどきどきする。ものすごいエロティックでした。(平静を装って書いてますが、むしろ、鼻血もの・・・)
(7)時子さんが、なぜ、ぼくとつとした板倉青年に惚れたのか。それは永遠の謎ですが、原作の、少しすかした(?)感じの板倉くんより、映画の板倉君の方が、いたいけ(幼気)な感じが出ていて、観ていて納得できました。恭一少年に印象が似てるんだよね。お母さんとしては、息子に似ている、って本能的に警戒しないし、惹かれるっしょ。(この辺やばいかもしれないが、これも「愛」の一つの形だと思う)
そして、仮に二枚目と時子奥様が不倫していたって、観客は、共感も同情もしないのである^-^;寅さんが支持されるのと同じである。マドンナが惚れるのが「寅さん」だから、嬉しいのである。頑張れ、板倉!なのだ。
(8)板倉青年のイメージが「木訥」「幼気」というところにあるなら、役割的に、板倉=高倉健ではない。なので、山田監督は、吉岡氏がヒロイックな雰囲気を醸し出しそうだったのを、すかさずぶちこわしたのではなかろうか(笑)。健さんの場合は、二枚目で、当然のようにヒロインに惚れられて、でも、その思いを受け止められないストイックな事情があって、「すごくお似合いなのに、健さん、これでも我慢できるのか?!」ってところが、ハラハラどきどきで良いのである(と思う)。板倉青年は、時子さんに迫られたら我慢できない(苦笑)。身も心も奪われっぱなしなのである。それは、高倉健ではない(笑)。
(9)映画と原作は、鍵となる場面と、最後の結末が、少し異なる。その違いにも、それぞれの味わいがあって嬉しい。これについても、もっと色々考えてみたいな。
(10)映画館によって、映像の明るさが違うことに衝撃。最初観た映画館では、嵐の場面、釘や板の木目まではっきり見えたけれど、別の映画館では、全体的に暗くて、よくわからなかった。暗いのも味わいはあるけどさ・・・細かいところまではっきり見えた方がよかったな。
一言にするつもりが、延々叫んでしまった・・・陳謝。
「小さいおうち」いいっすよ。未見の方は、ぜひご家族で。おすすめです。
初日は家族で観て、見終わってから、山ほど話をした。
おいらの母親は、たきちゃんよりも年下だが、女中奉公の経験がある。山形から上京するたきちゃんが雪の中を歩いて行く姿が自分の経験と重なって、ものすごく共感したらしい。
また、板倉さんの下宿の場面で老夫婦がお灸を据えていたのを観て、子どもの頃を思い出したらしく、近所のおばさんに頼まれてお灸をすえてあげたときに、子供だから加減がわからなくて、熱くしてしまって悪かった、とか、妙に細かいことを懺悔っぽく話していたのが印象的だった。親にとっては、強烈に記憶を刺激される映画だったようだ。
そう、秘密は誰にでもある。他人ならいくらでも、そんなこと気にしなくていいよ、と言いたくなるようなことでも。永久に、その人のくさびとなり、えぐるような痛みと苦しさを、与えることだってあるんだ。
自分がすえたお灸の熱さを想像して、懺悔したくなる気持ち。
それは、渡さなかった手紙の重みと同じように、永遠にぬぐえない、優しさ故の悔恨なのだろうと、思う。
映画「小さいおうち」
とてもよい映画だった。何というか、とても好きな映画だ。雰囲気といい、人物の描かれ方といい、とても上品で、とても艶っぽくて、とても優しかった。そして、とても悲しかった。
その中で、考えた。
愛の様々な形について。
そして、罪というものの定義と、その重さについて。
書き始めるとえらく長くなりそうなので、何回かに分けて考えていきたいと思う。
今日のところは、書き殴りに近いが、とりあえず叫びたいことだけ記したいと思う。
(1)愛にはいろんな形がある、タキちゃんをれずとか短絡的にくくるんじゃねぇ!!!ってことを、山田監督も言いたかったんじゃないかなぁ・・・(おいらも同感だけど、個人的曲解?)この映画には、いろんな愛の形が描かれていて、それについてコメントしたくてうずうずしている。自他の境界さえ朧となるような愛の形とか、無意識の上のこの上ない愛情とか、、、この映画では、多様な人間の、多様な「愛し方」が描かれていると思うんだ。それは、肉欲とはまた別のもので・・・ああ、うまく言えないな。睦子さんの台詞は、観客へのひっかけだと思うんだよね。タキちゃんの気持ちは、決して「あれ」で定義されたわけではないと思うんだ。
(2)パンフレット読んで、吉岡氏のコメントに「収録中は、時子さんだけを見つめていた」とあったのに衝撃。タキちゃんへの気持ちってどんなだったんだろうなぁ。。。(恭一じいちゃんの意見に賛成派のおいら・・・)
(3)孫の妻夫木聡は、原作よりも情愛溢れる感じが好感度高かった。彼の最後のつぶやきは、思わず倒れ込みそうになるぐらいの脱力感だったが、あの「そぐわなさ」が、2度目見た時は、一種快感になっていた(笑)。そーだよ。おばあちゃんの気持ちは、おばあちゃんにしか、結局は知り得ないことなんだよ。偉そうに「わかった」とか言わない健史、謙虚だな。
(4)寝室の「絵」・・・おいら、映画を二度目に観たとき、初めて気づいた。初見の冒頭は、完全にわかってなかったです・・・あんなにクローズアップしてくれてるのに・・・山田監督、申し訳ない・・・それにしても、冒頭の葬式場面、おいらのばあちゃん(100歳)の葬式のときと見事に似ていて、すごく既視感を感じた。(それにしても、第一発見者って・・・健史、辛かったな。)
(5)エンドクレジットの最後に画面一杯に映し出される、板倉正治の「絵」。パンフレット読むと、制作過程はほのぼのしていたようだ。
おいら、最初見た時は「シャガール!?」と複雑だったが、板倉氏の雰囲気って、確かにシャガールの模写とか好きそうな気がする。ただし、あの絵を描いたのは、戦前だと思うんだ。あの絵は、彼が時子奥様に恋していた真っ最中に描いた絵。そんな、幸せな雰囲気を持った絵だ。(シャガールの絵を、戦前の日本で観る機会があったかどうかはおいらにはわからない。芸大なら可能か?もしなかったとすれば、板倉氏は「日本のシャガール」だ!)
(6)女性陣の色っぽさ、艶っぽさ(特に時子さん!)が素晴らしくて、板倉君の下宿で、あんな音が筒抜けな環境でどうやって何をいたしたんだろうとか(下品ですんません)、想像するだけで、中年としては、少々心臓が変な風に打ちそうな感じでした。タキちゃんも同じように想像したのかと思うと、余計にどきどきする。ものすごいエロティックでした。(平静を装って書いてますが、むしろ、鼻血もの・・・)
(7)時子さんが、なぜ、ぼくとつとした板倉青年に惚れたのか。それは永遠の謎ですが、原作の、少しすかした(?)感じの板倉くんより、映画の板倉君の方が、いたいけ(幼気)な感じが出ていて、観ていて納得できました。恭一少年に印象が似てるんだよね。お母さんとしては、息子に似ている、って本能的に警戒しないし、惹かれるっしょ。(この辺やばいかもしれないが、これも「愛」の一つの形だと思う)
そして、仮に二枚目と時子奥様が不倫していたって、観客は、共感も同情もしないのである^-^;寅さんが支持されるのと同じである。マドンナが惚れるのが「寅さん」だから、嬉しいのである。頑張れ、板倉!なのだ。
(8)板倉青年のイメージが「木訥」「幼気」というところにあるなら、役割的に、板倉=高倉健ではない。なので、山田監督は、吉岡氏がヒロイックな雰囲気を醸し出しそうだったのを、すかさずぶちこわしたのではなかろうか(笑)。健さんの場合は、二枚目で、当然のようにヒロインに惚れられて、でも、その思いを受け止められないストイックな事情があって、「すごくお似合いなのに、健さん、これでも我慢できるのか?!」ってところが、ハラハラどきどきで良いのである(と思う)。板倉青年は、時子さんに迫られたら我慢できない(苦笑)。身も心も奪われっぱなしなのである。それは、高倉健ではない(笑)。
(9)映画と原作は、鍵となる場面と、最後の結末が、少し異なる。その違いにも、それぞれの味わいがあって嬉しい。これについても、もっと色々考えてみたいな。
(10)映画館によって、映像の明るさが違うことに衝撃。最初観た映画館では、嵐の場面、釘や板の木目まではっきり見えたけれど、別の映画館では、全体的に暗くて、よくわからなかった。暗いのも味わいはあるけどさ・・・細かいところまではっきり見えた方がよかったな。
一言にするつもりが、延々叫んでしまった・・・陳謝。
「小さいおうち」いいっすよ。未見の方は、ぜひご家族で。おすすめです。