「小さいおうち」を観た。
今までの山田洋次監督作品の中で一番共感する作品だと感じる今日この頃。
ストーリーはいいし、原作と違うところも、とても理解できる解釈なので、観ていて満たされる、というか、安心して作品世界に没頭できるのだ。
唯一ひっかかるのは、平成場面の妻夫木聡演じる青年の、無神経にも見える行動のいくつかと、青年の彼女の感情表現への違和感ぐらいだ。これは、監督が現代の若者にこのような印象を持っている、ということだから、別に、それをもってこの作品の評価が変わるというものではない。
今思い出したけど、彼らに共感できない居心地の悪さは、「ノルウェーの森」を読んだ後の居心地の悪さに似ているんだ。つまり、肌に合わないのは相性が悪いから仕方がない。理解不能だからといって、批判する筋合いはない、ということ。(あの作品で一番好きなのは、装丁だというのは事実だ)
「小さいおうち」を観賞した人のなかには、松たか子演じる時子さんが恋に落ちる対象は、二枚目のキリリとした青年であってほしかった、という感想を持たれた方もいるようだ。女性の多くは、ご自分が時子さんになったような気分でこの映画をご覧になり、ご自分の旦那と天秤にかけて上回るお相手を、時子さんの目の前に立たせたいと思うのかな。
でも、それって旦那とそれ以外の男に優劣つけているようじゃないか、恋ってそんなに打算的なものなのか?と思ってしまう。
時子さんが愛らしいのは、彼女が優劣つけていないからだ、とおいらは思う。彼女は亭主のことも尊重していて、決して軽蔑してないがしろにしている訳ではない。全力で亭主を大事にして、息子を大事にしている(少なくとも彼女の主観のなかでは)
その一方で、亭主と決してわかりあえない世界があることを悲しみ(それは亭主も同じように悲しく思っているのだが)、自分の心を理解してくれる人を求めていただけだったのだ。
人生そんなに都合よくはいかないから、ソウルメイトと出会える人は滅多にいないが、彼女は、見つけてしまった。いや、思い定めてしまったのだろうか。
板倉正治はそんな存在だ。
イケメンによろめいた奥様、とは一線を画する、とおいらは感じている。
(続きます)
今までの山田洋次監督作品の中で一番共感する作品だと感じる今日この頃。
ストーリーはいいし、原作と違うところも、とても理解できる解釈なので、観ていて満たされる、というか、安心して作品世界に没頭できるのだ。
唯一ひっかかるのは、平成場面の妻夫木聡演じる青年の、無神経にも見える行動のいくつかと、青年の彼女の感情表現への違和感ぐらいだ。これは、監督が現代の若者にこのような印象を持っている、ということだから、別に、それをもってこの作品の評価が変わるというものではない。
今思い出したけど、彼らに共感できない居心地の悪さは、「ノルウェーの森」を読んだ後の居心地の悪さに似ているんだ。つまり、肌に合わないのは相性が悪いから仕方がない。理解不能だからといって、批判する筋合いはない、ということ。(あの作品で一番好きなのは、装丁だというのは事実だ)
「小さいおうち」を観賞した人のなかには、松たか子演じる時子さんが恋に落ちる対象は、二枚目のキリリとした青年であってほしかった、という感想を持たれた方もいるようだ。女性の多くは、ご自分が時子さんになったような気分でこの映画をご覧になり、ご自分の旦那と天秤にかけて上回るお相手を、時子さんの目の前に立たせたいと思うのかな。
でも、それって旦那とそれ以外の男に優劣つけているようじゃないか、恋ってそんなに打算的なものなのか?と思ってしまう。
時子さんが愛らしいのは、彼女が優劣つけていないからだ、とおいらは思う。彼女は亭主のことも尊重していて、決して軽蔑してないがしろにしている訳ではない。全力で亭主を大事にして、息子を大事にしている(少なくとも彼女の主観のなかでは)
その一方で、亭主と決してわかりあえない世界があることを悲しみ(それは亭主も同じように悲しく思っているのだが)、自分の心を理解してくれる人を求めていただけだったのだ。
人生そんなに都合よくはいかないから、ソウルメイトと出会える人は滅多にいないが、彼女は、見つけてしまった。いや、思い定めてしまったのだろうか。
板倉正治はそんな存在だ。
イケメンによろめいた奥様、とは一線を画する、とおいらは感じている。
(続きます)