一片一片、花びらが落ちるように、時が降り積もってるな~、という毎日です。
(実際は、プランクトンが降り積もるように、、、だよなー。かっこつけすぎ。)
家族からはあきれられてる。大丈夫だよ。それほど仕事に入れ込んでるわけじゃない。病気にならない程度に手抜いてるから平気さ。
でも、新しく配属された後輩がそろそろやばくなってるから。そっちの方が心配。つぶれんなよ~。愚痴はいくらでも聞いてやる。頼むから乗り切ってくれ~。。。
てな日常の中で、非日常を求めるわけで。(とりわけ、明日がXdayだったりする、こんな時には。)
しょーこりもなく、「四日間の奇蹟」
客入りはどうなってるのかな。あの映画。思い出すほど味わい深い。
原作も時々思い出す。読んだ時の驚きと嬉しさ。「こいつ、理解できる。」という喜び。恋愛なんて眼中になくて、自分の能力にしかアイデンティティを持たず、運命を呪い、良識にすがり、ちっぽけな「個」の範疇でもがいている男。ベートーヴェンにあんなにのめり込んで。客観的に観たら恥ずかしいくらいの切羽詰まりようで、やっと世の中と折り合いをつけている、哀しいぐらい正直な人間。
自分がいっぱいいっぱいなのに、人を傷つけたくなくて全力を尽くすから、かえって存在自体が希薄になってしまう人間。
Silent majorityという言葉が思い浮かぶ。発言しない多くの存在者達。そんな静かなもの達の息づかいを、間近に感じたように思う。そんな造形だったのだ、敬輔は。(「天才」という彼の特徴にも関わらず、彼の醸し出すイメージは、あくまで「良識的な普通の男」だ。)
そして、その静かな中に一貫して木霊する、彼の叫び。「俺の俺たる存在の証を返してくれ!」失われたものへの、限りない執着。それは、生々しい人の姿として、彼の静かな表層と対照的に、炎のように小説の全編から立ち上っていた。
そんなアンビバレンスが、小説の際だった部分だったように思う。
映画の敬輔は、小説版よりもさらに悲劇的に見える。
なぜなら、映画版の敬輔は、諦念の中で自分の感情すら封印し、ひたすら、善意の人になろうとしているから。彼は、「指と共に死んだ自分」を意識し、どんな願も自分に許そうとしない。千織のために生きて動いてはいるけれど、自分のために何の望みも持てない。彼が「自分」を意識するのは、動かない薬指に気づく時だけだ。そんな風に見える。
自分を殺し、絶望の中で過ごす敬輔にとって、いないはずの「自分」を「好き」と言われ、求められ続けた4日間は、(応じる余裕はなかったにしても)至福の時だったのではないか。
真理子にとって、ほとばしる自我を終わらせるために必要だった四日間は、敬輔にとって、枯れた泉を掘り起こすように自分を取り戻すきっかけになる四日間だったのかもしれない。
そして、対照的な2人が交錯した四日間を創り出したのは、ある意味「自分」を持たない存在である千織だ。
そんな千織も、真理子の憑依により影響を受けたせいか、多少なりとも「自我」らしきものを最後に手にする。
なんてデリケートでもろくもしぶとい「自我」よ。
もしかしたら、この作品は「自分、って何?」という恐ろしくも深遠な問いに答えようとしているのかもしれない。なんてことを、つらつらと思いつく。
支離滅裂だな。やっぱ、おいら疲れてる。仕事に戻ります。。。
(実際は、プランクトンが降り積もるように、、、だよなー。かっこつけすぎ。)
家族からはあきれられてる。大丈夫だよ。それほど仕事に入れ込んでるわけじゃない。病気にならない程度に手抜いてるから平気さ。
でも、新しく配属された後輩がそろそろやばくなってるから。そっちの方が心配。つぶれんなよ~。愚痴はいくらでも聞いてやる。頼むから乗り切ってくれ~。。。
てな日常の中で、非日常を求めるわけで。(とりわけ、明日がXdayだったりする、こんな時には。)
しょーこりもなく、「四日間の奇蹟」
客入りはどうなってるのかな。あの映画。思い出すほど味わい深い。
原作も時々思い出す。読んだ時の驚きと嬉しさ。「こいつ、理解できる。」という喜び。恋愛なんて眼中になくて、自分の能力にしかアイデンティティを持たず、運命を呪い、良識にすがり、ちっぽけな「個」の範疇でもがいている男。ベートーヴェンにあんなにのめり込んで。客観的に観たら恥ずかしいくらいの切羽詰まりようで、やっと世の中と折り合いをつけている、哀しいぐらい正直な人間。
自分がいっぱいいっぱいなのに、人を傷つけたくなくて全力を尽くすから、かえって存在自体が希薄になってしまう人間。
Silent majorityという言葉が思い浮かぶ。発言しない多くの存在者達。そんな静かなもの達の息づかいを、間近に感じたように思う。そんな造形だったのだ、敬輔は。(「天才」という彼の特徴にも関わらず、彼の醸し出すイメージは、あくまで「良識的な普通の男」だ。)
そして、その静かな中に一貫して木霊する、彼の叫び。「俺の俺たる存在の証を返してくれ!」失われたものへの、限りない執着。それは、生々しい人の姿として、彼の静かな表層と対照的に、炎のように小説の全編から立ち上っていた。
そんなアンビバレンスが、小説の際だった部分だったように思う。
映画の敬輔は、小説版よりもさらに悲劇的に見える。
なぜなら、映画版の敬輔は、諦念の中で自分の感情すら封印し、ひたすら、善意の人になろうとしているから。彼は、「指と共に死んだ自分」を意識し、どんな願も自分に許そうとしない。千織のために生きて動いてはいるけれど、自分のために何の望みも持てない。彼が「自分」を意識するのは、動かない薬指に気づく時だけだ。そんな風に見える。
自分を殺し、絶望の中で過ごす敬輔にとって、いないはずの「自分」を「好き」と言われ、求められ続けた4日間は、(応じる余裕はなかったにしても)至福の時だったのではないか。
真理子にとって、ほとばしる自我を終わらせるために必要だった四日間は、敬輔にとって、枯れた泉を掘り起こすように自分を取り戻すきっかけになる四日間だったのかもしれない。
そして、対照的な2人が交錯した四日間を創り出したのは、ある意味「自分」を持たない存在である千織だ。
そんな千織も、真理子の憑依により影響を受けたせいか、多少なりとも「自我」らしきものを最後に手にする。
なんてデリケートでもろくもしぶとい「自我」よ。
もしかしたら、この作品は「自分、って何?」という恐ろしくも深遠な問いに答えようとしているのかもしれない。なんてことを、つらつらと思いつく。
支離滅裂だな。やっぱ、おいら疲れてる。仕事に戻ります。。。