先週火曜日から今週木曜日までの10日間、念願の聖トーマス教会での「クリスマス・オラトリオ」のコンサートと、ドイツ各地のクリスマス・マーケットを楽しんできました。
最後に訪れたドレスデンがその典型ですが、第二次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた歴史的建造物を、根気よく市民の協力で再興したその計画性と執念に近い情熱は、日本には見られないドイツの特長でした。
訪れた各地は、日本のようにあちこちにゴミが散乱するような光景はなく、クリスマスを飾るオーナメントが家々に綺麗にかけられておりました。
このドイツが、何故にナチスのファシズムの台頭を許し、ユダヤ人の殲滅行動という史上稀にみる惨劇の舞台となったのか、筆者はかねがね疑問に思っておりました。当然ながら、この疑問は、彼の地の表面を撫でるような今回の訪問で解ける訳もありませんが、旅の途中に読んだ、内田樹著「私家版・ユダヤ文化論」により、かなりの部分が氷解した感じです。この本の読後感については、機会があれば別のブログで紹介したいと思います。
さて、今回の旅行の目的だった各地でのバッハの足跡の確認ですが、やはりライプチッヒの聖トーマス教会でのバッハのそれが白眉でした。この教会のカントルとして、毎週のミサに使われるカンタータの作曲のみならず、聖歌隊の指導、オルガニストとしての役割、そしてラテン語の指導まで超多忙な毎日を送っていたバッハ。このバッハが、何故それほど高い芸術を身につけたのかという質問に対して、次にように答えたという逸話が印象的でした。
「私は一生懸命勉強した。誰でも私が勉強したほど勉強すれば、私ぐらいになるだろう」
この答えだけでは、どれほど勉強したのかは良く分かりませんが、以下のような努力に思いを馳せれば、いかほどの努力だったのか想像できます。
1.夜、鍵のかかった戸棚の隙間から手をつっこんで、お兄さんの楽譜を取りだして、月の光で楽譜を写した。
2.ハンブルグなどへ片道60キロを歩いてオルガン演奏を聴きに行った。
3.ブクステフーデというオルガン奏者の演奏を聴くため、4週間の休暇をもらって、リューベックという町まで片道40キロを歩いて行った。そして、ブクステフーデの演奏に魅了されてしまい、家に帰ることをすっかり忘れ、何と4ヶ月間もリューベックに滞在してしまった。
何やら、二宮金次郎の物語のような刻苦勉励の様子ですが、この若い頃からの勉強のため、晩年は視力を失ったほどです。「フーガの技法」が最後の作品ですが、体力も衰弱して完成できず、BACHという音調で筆を置いております。66歳でした。
あのバッハの音楽性を支えていたのは、このような努力の積み重ねと音楽への情熱に対する「天の配剤」だったのです。
前置きが長くなりました。いくつか印象に残った写真を掲載します。
これは、ニュルンベルグの有名なクリスマス・マーケットの中の1つの市(屋台の1つ)です。
子供達も、先生らしき人に引率され、クリスマス・マーケットに来ておりました。皆、かわいい帽子を被っております。
ドレスデンの郊外にあるプルスニッツという小さな田舎町の「聖ニコライ教会」の中に、このようなクリスマスのオーナメントがおかれておりました。各地のクリスマス・マーケットには、必ずキリストが誕生した時の厩での様子を再現したオーナメントがあります。
これはエアフルトという中世の面影を残す町のカトリック大聖堂が、クリスマス・マーケットを訪れた人々に見せるライトアップされた姿です。
こちらは夜の聖トーマス教会。この後、教会に入り「クリスマス・オラトリオ」を聴きました。祭壇の反対側のオルガンが配置されているスペースにオーケストラと声楽隊が入り、聴衆は後ろあるいは横から音楽を聴くことになります。これが最近世界中の寄付により再建されたドレスデンのフラウエン教会では、祭壇の前に演奏者が陣取っており、ちょうどオペラを聴くような雰囲気で楽しめます。やはり聖トーマス教会は古いデザインの建築でした。
最後は、聖トーマス教会のステンドグラスを飾るバッハ。
ヨーロッパを歩くと、中心街にはマルクト広場があり、そこは市庁舎などの歴史的建造物が囲んでおりますが、年に1度のクリスマス・マーケットの会場でもあった訳です。通常、12月初旬からマーケットは始まり、クリスマスまで続きます。毎日朝の10時から夜の8時まで。週末ともなると、日本でいうと上野のアメ横の歳末の大賑わいとそっくりの、押すな押すなのマーケット風景が繰り広げられます。これは想像以上でした。欧米人にとってクリスマスがいかに大きなイベントであることか、現地に行くまでは筆者には想像もつきませんでした。
最後に訪れたドレスデンがその典型ですが、第二次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた歴史的建造物を、根気よく市民の協力で再興したその計画性と執念に近い情熱は、日本には見られないドイツの特長でした。
訪れた各地は、日本のようにあちこちにゴミが散乱するような光景はなく、クリスマスを飾るオーナメントが家々に綺麗にかけられておりました。
このドイツが、何故にナチスのファシズムの台頭を許し、ユダヤ人の殲滅行動という史上稀にみる惨劇の舞台となったのか、筆者はかねがね疑問に思っておりました。当然ながら、この疑問は、彼の地の表面を撫でるような今回の訪問で解ける訳もありませんが、旅の途中に読んだ、内田樹著「私家版・ユダヤ文化論」により、かなりの部分が氷解した感じです。この本の読後感については、機会があれば別のブログで紹介したいと思います。
さて、今回の旅行の目的だった各地でのバッハの足跡の確認ですが、やはりライプチッヒの聖トーマス教会でのバッハのそれが白眉でした。この教会のカントルとして、毎週のミサに使われるカンタータの作曲のみならず、聖歌隊の指導、オルガニストとしての役割、そしてラテン語の指導まで超多忙な毎日を送っていたバッハ。このバッハが、何故それほど高い芸術を身につけたのかという質問に対して、次にように答えたという逸話が印象的でした。
「私は一生懸命勉強した。誰でも私が勉強したほど勉強すれば、私ぐらいになるだろう」
この答えだけでは、どれほど勉強したのかは良く分かりませんが、以下のような努力に思いを馳せれば、いかほどの努力だったのか想像できます。
1.夜、鍵のかかった戸棚の隙間から手をつっこんで、お兄さんの楽譜を取りだして、月の光で楽譜を写した。
2.ハンブルグなどへ片道60キロを歩いてオルガン演奏を聴きに行った。
3.ブクステフーデというオルガン奏者の演奏を聴くため、4週間の休暇をもらって、リューベックという町まで片道40キロを歩いて行った。そして、ブクステフーデの演奏に魅了されてしまい、家に帰ることをすっかり忘れ、何と4ヶ月間もリューベックに滞在してしまった。
何やら、二宮金次郎の物語のような刻苦勉励の様子ですが、この若い頃からの勉強のため、晩年は視力を失ったほどです。「フーガの技法」が最後の作品ですが、体力も衰弱して完成できず、BACHという音調で筆を置いております。66歳でした。
あのバッハの音楽性を支えていたのは、このような努力の積み重ねと音楽への情熱に対する「天の配剤」だったのです。
前置きが長くなりました。いくつか印象に残った写真を掲載します。
これは、ニュルンベルグの有名なクリスマス・マーケットの中の1つの市(屋台の1つ)です。
子供達も、先生らしき人に引率され、クリスマス・マーケットに来ておりました。皆、かわいい帽子を被っております。
ドレスデンの郊外にあるプルスニッツという小さな田舎町の「聖ニコライ教会」の中に、このようなクリスマスのオーナメントがおかれておりました。各地のクリスマス・マーケットには、必ずキリストが誕生した時の厩での様子を再現したオーナメントがあります。
これはエアフルトという中世の面影を残す町のカトリック大聖堂が、クリスマス・マーケットを訪れた人々に見せるライトアップされた姿です。
こちらは夜の聖トーマス教会。この後、教会に入り「クリスマス・オラトリオ」を聴きました。祭壇の反対側のオルガンが配置されているスペースにオーケストラと声楽隊が入り、聴衆は後ろあるいは横から音楽を聴くことになります。これが最近世界中の寄付により再建されたドレスデンのフラウエン教会では、祭壇の前に演奏者が陣取っており、ちょうどオペラを聴くような雰囲気で楽しめます。やはり聖トーマス教会は古いデザインの建築でした。
最後は、聖トーマス教会のステンドグラスを飾るバッハ。
ヨーロッパを歩くと、中心街にはマルクト広場があり、そこは市庁舎などの歴史的建造物が囲んでおりますが、年に1度のクリスマス・マーケットの会場でもあった訳です。通常、12月初旬からマーケットは始まり、クリスマスまで続きます。毎日朝の10時から夜の8時まで。週末ともなると、日本でいうと上野のアメ横の歳末の大賑わいとそっくりの、押すな押すなのマーケット風景が繰り広げられます。これは想像以上でした。欧米人にとってクリスマスがいかに大きなイベントであることか、現地に行くまでは筆者には想像もつきませんでした。