戦争は恐ろしい、残酷だ、人を殺してはならない、武器を人に向けてはならないと、それはもちろん思うけど、
本当に恐ろしいのは、戦争が起こる前の、世の中のここそこでひっそりと起こる、同胞同士の監視であり、密告であり、意味不明の拘束であり、拷問によるむごたらしい傷害や殺人です。
そんなこと、今の時代に起こるわけがない、などとのんきに構えている人は多分、事が起こってしまった時もやはり、ぼんやりと眺めているだけかもしれません。
今のこの、インターネットが発達し、情報がいくらでも手に入る時代にあっても、そして自国の市民や街の上に、一切の被害が出るはずがない国においても、
それはそれは見事に、それまで少しはまともな検証をし、調査をし、わかったことをそのまま伝えてくれていた報道機関までもが一斉に、
戦争は致し方がない、テロとは戦わなければならない、それはあなた方国民のためなのだと、口を揃えて言い出して、
だまされるな、戦争など何の解決にもならない、増悪の連鎖を生むだけだと、全国で大きなデモが起こっても、街角で声を張り上げても、
結局のところ、大きな波は、戦争するしかないじゃないかという、暗い声で満ち溢れるようになりました。
戦争のカラクリは、戦争さえ起こしておいたら儲けが入ってくる武器関連会社や研究所、そしてゼネコン、製薬会社、保険会社etc.の大いなる企みによって、
まずどこかに大きな憎しみが起こるような出来事を用意し、それによって国が湧くように仕向け、敵はテロリストであり、殺さねばならない、などという話を作り上げ、
あとは兵士に命令をして、どんどん送り込むだけ。
もちろん、劣化ウランなどのゴミを捨てる大きなチャンスでもあるし、新型の武器の殺傷効果や破壊力が見られる楽しみもあります。
そして、危うく期限切れで廃棄しなければならなかった高額の古い武器だって、無駄なくガンガン使えます。
一石でいったい何鳥を落とせるのか…。
こんなうまい話を、もちろん彼らは手放すわけがありません。
戦争はだから終わりません。
世界中の人たちが、武器を作るな、研究するな、武器を捨てろ、もう戦争なんてこりごりだと、一斉に、とんでもない数の声を張り上げないと、
戦争を後押ししている企業に、消費者でこそできる非買運動を繰り広げ、そんなことをし続けているのは賢明ではないと思い知らさないと、
子を傷つけられ、殺されて、声をいっぱいに泣かねばならない母親が、ひとりまたひとりと増えていくことになってしまいます。
一度犯した過ちを、また繰り返すような愚かなことを、わたしたち大人はしてはいけない。
心の底からそう思います
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あーまたこの二月の月かきた(ああ、またこの二月の月が来た)
ほんとうにこの二月とゆ月かいやな月(本当に、この二月という月が嫌な月)
こいをいパいになきたい(声をいっぱいに泣きたい)
どこいいてもなかれない(どこに(へ)行っても泣かれない)
あーてもラチオてしこすたしかる(ああ、でもラジオで少し助かる)
あーなみだかてる(ああ、涙が出る)
めかねかくもる(メガネが曇る)
これは、友人の明日香ちゃんが、フェイスブックで紹介してくれた、小林多喜二の母、小林セキさんが書いた手紙です。
以下、その時、明日香ちゃんが書き添えてくれた言葉を紹介します。
今日(2月19日)は多喜二の亡くなった日。
去年も載せたけれど、今年も載せます。
多喜二の母セキさんの書いた詩。
獄中の多喜二に手紙を書きたくてセキさんは読み書きの練習をしていた。
(中略)
いつの時代も子を思う母の気持ちは同じ。
あの時代に逆行させてはならない。
明日香ちゃんは前進座の女優さん。
その前進座では、いまむらいづみさんが、この小林セキさんを書いた三浦綾子氏著の『母』を、ひとり語りで演じられていました。
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http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041437172/hiromuaaa-22/ref=nosim
多喜二は死んだ。
指はぶらんとするほど折られても、足はぶすぶす千枚通しで刺されても、
多喜二は、守らねばならない秘密は守ったんだと。
そう言って、党の人たち、みんなほめてくれたの。
でも、ほめられんでもいい。生きていてほしかった。
(略)
「多喜二、苦しかったべなあ」
「多喜二、せめて死ぬ時だけでも、手を握っていてやりたかった」
「多喜二、わだしはお前を生んで、悪いことしたんだべか」
とか、
「多喜二、お前、死んでどこさ行っているんだ」
とか、独り言言ってるの。
多喜二が死んでから、わだしはいつのまにか、(神も仏もあるもんか)という気持ちになっていた。
ほんとに神さまがいるもんなら、多喜二みたいな親思いの、きょうだい思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごい死に方をするべか。
たとえ警察で、誰かが多喜二を殴ろうとしても、首ば締めようとしても、錐(きり)で足を刺そうとしても、
神さまがいるならば、その手ば動かんようにして、がっちりとめてくれたんでないべか。
それを見殺しにするような神さまだば、いないよりまだ悪い。
わだしは腹の底からそう思ったもんね。
わだしが、東京の街ばあちこち歩いたのは、多喜二がこの東京のどこば逃げまわったかなって、そう思ってな。
そう思うと、その辺のごみごみした小路だの、柳の木の下だのに、多喜二の姿が見えるような気がしてな。
母親なんて、馬鹿なもんだ。
どの道行っても、
(多喜二はこの道通ったべか)
(ここを走って逃げたべか)
(あの塀の陰さかくれて、刑事ばやり過ごしたべか)
なんて、思っても詮ないことを思うのね。
まるで、多喜二が生きていた時、わだしも一緒に歩いたみたいな気になることもあった。
多喜二の手が、ひょいとわだしの肩におかれて、
「じゃ、行って来るからな」
って、にこっと笑う多喜二にしがみついたら、ちゃんと体があるの。
わだしは気がふれたように、
「多喜二!お前生きているんだな!生きているんだな!夢でないんだなっ」
って、その体に、本当にこの手でさわった夢もみた。
(略)
三十年近く経ったこの頃でも、多喜二が玄関から入って来る夢だの、わだしの隣りでご飯食べてる夢だの、
「タミちゃんところへ行ってくる」なんて、照れたように笑って出て行く姿だの、
月に何回かは見る。
(略)
「多喜二は天国にいるべか」
って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。
チマさんから聞いてますが、多喜二さんは、ずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。
『小さき者』というのは、貧しい人ということでね。
名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。
多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
うれしかったなあ。
多喜二に会える、多喜二に会える。
うれしかったなあ。
引用元:
http://yukochappy.seesaa.net/article/109568615.html
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この写真が撮られた時の様子を、詳細に書いてくださった方がおられます。
「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙
小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。
命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。
より、転載させていただきます。
多喜二ー最期の像
佐藤 三郎
一枚の写真。
一葉の写真がある。
正視に堪えない異様な写真だ。
一人の男が、ぐったりとした魂がぬけたような表情で、横たわっている。
その向こうには、男女一5~17人ほどか、並んで座っている。
前列右端のショートカットの女性は、うつむいて、なにかをしっかり握っている。
その左隣には、腕組みをした男達が、紺絣の着物姿で、横たわっている男に目線を注いでいる。
その顔のくぼんだ目が、ガイコツの目の部分のように、真っ黒な影になっている。
そのうしろの席の人々は、カメラ目線であったり、オドオドとした表情を浮かべている。
一場のスナップ写真ではない。
これは、撮影することを通告され、被撮影者と撮影者の共通の意思によって成立している写真なのだ。
ただ一人、横たわっている男ー小林多喜二をのぞいて。
この写真は、昭和8年(1933)2月22日午前1時に、撮影されたとされている。
撮影者は、貴司山治、あるいは『時事新報』のカメラマン前川であった。
参列者は原泉、田辺耕一郎、上野壮夫、立野信之、山田清三郎、鹿地亘、千田是也、壺井栄、岩松淳、岡本唐貴、小坂多喜子…。
多喜二の友人の女優、作家、画家たちであった。
写真によって、多喜二の死の真相を伝えようとしての撮影だった。
彼等は、多喜二の死の意味を、作家一人の死としてだけ受け止めていたのではなかった。
それは、なにより彼等たちが望んだ、自由と民主主義の戦いを意味した。
『朝日新聞』(当時の『東京朝日新聞』)は、21日の夕刊で、
「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕はる」の二段見出しでその死を、
『「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して、一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は、
2月20日正午頃、党員一名と共に、赤坂福吉町の藝妓屋街で街頭連絡中を、築地署小林特高課員に追跡され、
約20分にわたって街から街へ白晝逃げ回ったが、遂に溜め池の電車通りで格闘の上取押さえられ、そのまま築地署に連行された、
最初は、小林多喜二といふことを頑強に否認してゐたが、同署水谷特高主任が取り調べの結果自白、
更に取り調べ続行中、午後5時頃、突如さう白となり苦悶し始めたので、同署裏にある築地病院の前田博士を招じ、手當てを加えた上、
午後7時頃、同病院に収容したが、既に心臓まひで絶命してゐた』
と伝えた。
多喜二の帰宅直後、夫の上野壮夫と小林家にかけつけ、通夜に参加した小坂多喜子は、この夜のことを書いている(「私と小林多喜二」『文芸復興』昭和48年4月号)。
「肌寒さが感じられるある日、どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
私と上野壮夫は、息せききって、暗い道を、それが夜であったのか、明け方であったのか、とにかく真っ暗な道を走っていた。
私たちが息せききって、心臓が止まる思いで走っている時、幌をかけた不気味な大きな自動車が、私たちを追い越していった」
「あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちは、その車のあとを必死に追いかけていく。
車は、両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。
その露地の左の側の家は、当時郊外と呼ばれてた、そのあたりによく見かける平屋建ての、玄関を入れて三間ぐらいの家で、
奥に面した一間に、小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた。」
さきの写真には、多喜二の左のコメカミに、十円玉大の黒いものが写っていた。
もう一枚の写真はさらに、多喜二を死にいたらしめた傷跡を、明瞭に記録している。
この写真は、『時事新報』の笹本寅がつれてきた前川カメラマンが、裸にした多喜二を撮影したものだ。
右腕の手首には、破線のように断続する傷の跡が見える。
左腕の第二関節部分が、異様に黒くなっていることが分かる。
それ以上に目をひくのは、太股の全体が、真っ黒くなっていることだ。
プロレタリア作家同盟委員長の江口渙は、『たたかいの作家同盟記』の「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」で、
医師の安田徳太郎が検死した結果を、書き留めている。
安田博士の指揮のもとに、いよいよ遺体の検診が始まる。
(中略)
左のこめかみには、こんにちの十円硬貨ほどの大きさの打撲傷を中心に、56カ所も傷がある。
それがどれも赤黒く、皮下出血をにじませている。
おそらくは、バットかなにかで殴られた跡であろうか。
首には、ひとまきぐるりと、細引きの跡がある。
よほどの力でしめたらしく、くっきりと深い溝になっている。
そこにも皮下出血が、赤黒く細い線を引いている。
だが、こんなものは、体の他の部分にくらべると、たいしたものではなかった。
帯を解き、着物を広げて、ズボン下をぬがせたとき、小林多喜二にとってどの傷よりいちばんものすごい、『死の原因』を発見したわれわれは、
思わずわっと声を出して、いっせいに顔をそむけた。
「みなさん、これです。これです。岩田義道君のとおなじです」
安田博士はたちまち、沈痛きわまる声でいう。
前の年に、警視庁で、鈴木警部に虐殺された、党中央委員岩田義道の遺体を検診した安田博士は、
そのときの、残忍きわまる拷問の傷跡を、思い出したからである。
小林多喜二の遺体も、なんというすごい有様であろうか。
毛糸の腹巻きの、なかば隠されている下腹部から両足の膝がしらにかけて、
下っ腹といわず、ももといわず、尻といわず、どこもかしこも、
まるで墨とベニガラとをいっしょにまぜてぬりつぶしたような、なんともかともいえないほどのものすごい色で、一面染まっている。
そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえて、ももの皮がぱっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。
そのふとさは、普通の人間の2倍ぐらいもある。
さらに、赤黒い内出血は、陰茎からこう丸にまで流れこんだとみえて、この二つのものが、びっくりするほど異常に大きくふくれあがっている。
電灯の光でよく見ると、これはまた何と言うことだろう。
赤黒くはれあがったももの上には、左右両方とも、釘か錐かを打ちこんだらしい穴の跡が、15、6カ所もあって、
そこだけは皮がやぶれて、下から肉がじかにむきだしになっている。
その円い肉の頭が、これまたアテナ・インキそにままの青黒さで、ほかの赤黒い皮膚の表面から、きわ立って浮きだしている。
ももからさらに脛を調べる。
両方のむこう脛にも、四角な棒か何かでやられたのか、削りとられたような傷跡がいくつもある。
それよりはるかに、痛烈な痛みをわれわれの胸に刻みつけたのは、右の人さし指の骨折である。
人さし指を反対の方向へまげると、指の背中が自由に手の甲にくっつくのだ。
人さし指を逆ににぎって、力いっぱいへし折ったのだ。
このことだけでも、そのときの拷問が、どんなものすごいものだったかがわかるではないか。
と報告している。
そしてさらに、多喜二の死因が警察が発表の通り、「心臓まひ」であったかどうかを検証するため、病院に解剖を依頼したが、
小林多喜二の遺体だということを告げると、慈恵医大大病院も、どの病院も断った。
すでに、警察が手を回していたのだった。
引用元:
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/669e9970e90e6d399fb57fdd8d50a4a7
本当に恐ろしいのは、戦争が起こる前の、世の中のここそこでひっそりと起こる、同胞同士の監視であり、密告であり、意味不明の拘束であり、拷問によるむごたらしい傷害や殺人です。
そんなこと、今の時代に起こるわけがない、などとのんきに構えている人は多分、事が起こってしまった時もやはり、ぼんやりと眺めているだけかもしれません。
今のこの、インターネットが発達し、情報がいくらでも手に入る時代にあっても、そして自国の市民や街の上に、一切の被害が出るはずがない国においても、
それはそれは見事に、それまで少しはまともな検証をし、調査をし、わかったことをそのまま伝えてくれていた報道機関までもが一斉に、
戦争は致し方がない、テロとは戦わなければならない、それはあなた方国民のためなのだと、口を揃えて言い出して、
だまされるな、戦争など何の解決にもならない、増悪の連鎖を生むだけだと、全国で大きなデモが起こっても、街角で声を張り上げても、
結局のところ、大きな波は、戦争するしかないじゃないかという、暗い声で満ち溢れるようになりました。
戦争のカラクリは、戦争さえ起こしておいたら儲けが入ってくる武器関連会社や研究所、そしてゼネコン、製薬会社、保険会社etc.の大いなる企みによって、
まずどこかに大きな憎しみが起こるような出来事を用意し、それによって国が湧くように仕向け、敵はテロリストであり、殺さねばならない、などという話を作り上げ、
あとは兵士に命令をして、どんどん送り込むだけ。
もちろん、劣化ウランなどのゴミを捨てる大きなチャンスでもあるし、新型の武器の殺傷効果や破壊力が見られる楽しみもあります。
そして、危うく期限切れで廃棄しなければならなかった高額の古い武器だって、無駄なくガンガン使えます。
一石でいったい何鳥を落とせるのか…。
こんなうまい話を、もちろん彼らは手放すわけがありません。
戦争はだから終わりません。
世界中の人たちが、武器を作るな、研究するな、武器を捨てろ、もう戦争なんてこりごりだと、一斉に、とんでもない数の声を張り上げないと、
戦争を後押ししている企業に、消費者でこそできる非買運動を繰り広げ、そんなことをし続けているのは賢明ではないと思い知らさないと、
子を傷つけられ、殺されて、声をいっぱいに泣かねばならない母親が、ひとりまたひとりと増えていくことになってしまいます。
一度犯した過ちを、また繰り返すような愚かなことを、わたしたち大人はしてはいけない。
心の底からそう思います
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あーまたこの二月の月かきた(ああ、またこの二月の月が来た)
ほんとうにこの二月とゆ月かいやな月(本当に、この二月という月が嫌な月)
こいをいパいになきたい(声をいっぱいに泣きたい)
どこいいてもなかれない(どこに(へ)行っても泣かれない)
あーてもラチオてしこすたしかる(ああ、でもラジオで少し助かる)
あーなみだかてる(ああ、涙が出る)
めかねかくもる(メガネが曇る)
これは、友人の明日香ちゃんが、フェイスブックで紹介してくれた、小林多喜二の母、小林セキさんが書いた手紙です。
以下、その時、明日香ちゃんが書き添えてくれた言葉を紹介します。
今日(2月19日)は多喜二の亡くなった日。
去年も載せたけれど、今年も載せます。
多喜二の母セキさんの書いた詩。
獄中の多喜二に手紙を書きたくてセキさんは読み書きの練習をしていた。
(中略)
いつの時代も子を思う母の気持ちは同じ。
あの時代に逆行させてはならない。
明日香ちゃんは前進座の女優さん。
その前進座では、いまむらいづみさんが、この小林セキさんを書いた三浦綾子氏著の『母』を、ひとり語りで演じられていました。
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多喜二は死んだ。
指はぶらんとするほど折られても、足はぶすぶす千枚通しで刺されても、
多喜二は、守らねばならない秘密は守ったんだと。
そう言って、党の人たち、みんなほめてくれたの。
でも、ほめられんでもいい。生きていてほしかった。
(略)
「多喜二、苦しかったべなあ」
「多喜二、せめて死ぬ時だけでも、手を握っていてやりたかった」
「多喜二、わだしはお前を生んで、悪いことしたんだべか」
とか、
「多喜二、お前、死んでどこさ行っているんだ」
とか、独り言言ってるの。
多喜二が死んでから、わだしはいつのまにか、(神も仏もあるもんか)という気持ちになっていた。
ほんとに神さまがいるもんなら、多喜二みたいな親思いの、きょうだい思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごい死に方をするべか。
たとえ警察で、誰かが多喜二を殴ろうとしても、首ば締めようとしても、錐(きり)で足を刺そうとしても、
神さまがいるならば、その手ば動かんようにして、がっちりとめてくれたんでないべか。
それを見殺しにするような神さまだば、いないよりまだ悪い。
わだしは腹の底からそう思ったもんね。
わだしが、東京の街ばあちこち歩いたのは、多喜二がこの東京のどこば逃げまわったかなって、そう思ってな。
そう思うと、その辺のごみごみした小路だの、柳の木の下だのに、多喜二の姿が見えるような気がしてな。
母親なんて、馬鹿なもんだ。
どの道行っても、
(多喜二はこの道通ったべか)
(ここを走って逃げたべか)
(あの塀の陰さかくれて、刑事ばやり過ごしたべか)
なんて、思っても詮ないことを思うのね。
まるで、多喜二が生きていた時、わだしも一緒に歩いたみたいな気になることもあった。
多喜二の手が、ひょいとわだしの肩におかれて、
「じゃ、行って来るからな」
って、にこっと笑う多喜二にしがみついたら、ちゃんと体があるの。
わだしは気がふれたように、
「多喜二!お前生きているんだな!生きているんだな!夢でないんだなっ」
って、その体に、本当にこの手でさわった夢もみた。
(略)
三十年近く経ったこの頃でも、多喜二が玄関から入って来る夢だの、わだしの隣りでご飯食べてる夢だの、
「タミちゃんところへ行ってくる」なんて、照れたように笑って出て行く姿だの、
月に何回かは見る。
(略)
「多喜二は天国にいるべか」
って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。
チマさんから聞いてますが、多喜二さんは、ずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。
『小さき者』というのは、貧しい人ということでね。
名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。
多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
うれしかったなあ。
多喜二に会える、多喜二に会える。
うれしかったなあ。
引用元:
http://yukochappy.seesaa.net/article/109568615.html
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この写真が撮られた時の様子を、詳細に書いてくださった方がおられます。
「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙
小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。
命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。
より、転載させていただきます。
多喜二ー最期の像
佐藤 三郎
一枚の写真。
一葉の写真がある。
正視に堪えない異様な写真だ。
一人の男が、ぐったりとした魂がぬけたような表情で、横たわっている。
その向こうには、男女一5~17人ほどか、並んで座っている。
前列右端のショートカットの女性は、うつむいて、なにかをしっかり握っている。
その左隣には、腕組みをした男達が、紺絣の着物姿で、横たわっている男に目線を注いでいる。
その顔のくぼんだ目が、ガイコツの目の部分のように、真っ黒な影になっている。
そのうしろの席の人々は、カメラ目線であったり、オドオドとした表情を浮かべている。
一場のスナップ写真ではない。
これは、撮影することを通告され、被撮影者と撮影者の共通の意思によって成立している写真なのだ。
ただ一人、横たわっている男ー小林多喜二をのぞいて。
この写真は、昭和8年(1933)2月22日午前1時に、撮影されたとされている。
撮影者は、貴司山治、あるいは『時事新報』のカメラマン前川であった。
参列者は原泉、田辺耕一郎、上野壮夫、立野信之、山田清三郎、鹿地亘、千田是也、壺井栄、岩松淳、岡本唐貴、小坂多喜子…。
多喜二の友人の女優、作家、画家たちであった。
写真によって、多喜二の死の真相を伝えようとしての撮影だった。
彼等は、多喜二の死の意味を、作家一人の死としてだけ受け止めていたのではなかった。
それは、なにより彼等たちが望んだ、自由と民主主義の戦いを意味した。
『朝日新聞』(当時の『東京朝日新聞』)は、21日の夕刊で、
「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕はる」の二段見出しでその死を、
『「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して、一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は、
2月20日正午頃、党員一名と共に、赤坂福吉町の藝妓屋街で街頭連絡中を、築地署小林特高課員に追跡され、
約20分にわたって街から街へ白晝逃げ回ったが、遂に溜め池の電車通りで格闘の上取押さえられ、そのまま築地署に連行された、
最初は、小林多喜二といふことを頑強に否認してゐたが、同署水谷特高主任が取り調べの結果自白、
更に取り調べ続行中、午後5時頃、突如さう白となり苦悶し始めたので、同署裏にある築地病院の前田博士を招じ、手當てを加えた上、
午後7時頃、同病院に収容したが、既に心臓まひで絶命してゐた』
と伝えた。
多喜二の帰宅直後、夫の上野壮夫と小林家にかけつけ、通夜に参加した小坂多喜子は、この夜のことを書いている(「私と小林多喜二」『文芸復興』昭和48年4月号)。
「肌寒さが感じられるある日、どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
私と上野壮夫は、息せききって、暗い道を、それが夜であったのか、明け方であったのか、とにかく真っ暗な道を走っていた。
私たちが息せききって、心臓が止まる思いで走っている時、幌をかけた不気味な大きな自動車が、私たちを追い越していった」
「あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちは、その車のあとを必死に追いかけていく。
車は、両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。
その露地の左の側の家は、当時郊外と呼ばれてた、そのあたりによく見かける平屋建ての、玄関を入れて三間ぐらいの家で、
奥に面した一間に、小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた。」
さきの写真には、多喜二の左のコメカミに、十円玉大の黒いものが写っていた。
もう一枚の写真はさらに、多喜二を死にいたらしめた傷跡を、明瞭に記録している。
この写真は、『時事新報』の笹本寅がつれてきた前川カメラマンが、裸にした多喜二を撮影したものだ。
右腕の手首には、破線のように断続する傷の跡が見える。
左腕の第二関節部分が、異様に黒くなっていることが分かる。
それ以上に目をひくのは、太股の全体が、真っ黒くなっていることだ。
プロレタリア作家同盟委員長の江口渙は、『たたかいの作家同盟記』の「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」で、
医師の安田徳太郎が検死した結果を、書き留めている。
安田博士の指揮のもとに、いよいよ遺体の検診が始まる。
(中略)
左のこめかみには、こんにちの十円硬貨ほどの大きさの打撲傷を中心に、56カ所も傷がある。
それがどれも赤黒く、皮下出血をにじませている。
おそらくは、バットかなにかで殴られた跡であろうか。
首には、ひとまきぐるりと、細引きの跡がある。
よほどの力でしめたらしく、くっきりと深い溝になっている。
そこにも皮下出血が、赤黒く細い線を引いている。
だが、こんなものは、体の他の部分にくらべると、たいしたものではなかった。
帯を解き、着物を広げて、ズボン下をぬがせたとき、小林多喜二にとってどの傷よりいちばんものすごい、『死の原因』を発見したわれわれは、
思わずわっと声を出して、いっせいに顔をそむけた。
「みなさん、これです。これです。岩田義道君のとおなじです」
安田博士はたちまち、沈痛きわまる声でいう。
前の年に、警視庁で、鈴木警部に虐殺された、党中央委員岩田義道の遺体を検診した安田博士は、
そのときの、残忍きわまる拷問の傷跡を、思い出したからである。
小林多喜二の遺体も、なんというすごい有様であろうか。
毛糸の腹巻きの、なかば隠されている下腹部から両足の膝がしらにかけて、
下っ腹といわず、ももといわず、尻といわず、どこもかしこも、
まるで墨とベニガラとをいっしょにまぜてぬりつぶしたような、なんともかともいえないほどのものすごい色で、一面染まっている。
そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえて、ももの皮がぱっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。
そのふとさは、普通の人間の2倍ぐらいもある。
さらに、赤黒い内出血は、陰茎からこう丸にまで流れこんだとみえて、この二つのものが、びっくりするほど異常に大きくふくれあがっている。
電灯の光でよく見ると、これはまた何と言うことだろう。
赤黒くはれあがったももの上には、左右両方とも、釘か錐かを打ちこんだらしい穴の跡が、15、6カ所もあって、
そこだけは皮がやぶれて、下から肉がじかにむきだしになっている。
その円い肉の頭が、これまたアテナ・インキそにままの青黒さで、ほかの赤黒い皮膚の表面から、きわ立って浮きだしている。
ももからさらに脛を調べる。
両方のむこう脛にも、四角な棒か何かでやられたのか、削りとられたような傷跡がいくつもある。
それよりはるかに、痛烈な痛みをわれわれの胸に刻みつけたのは、右の人さし指の骨折である。
人さし指を反対の方向へまげると、指の背中が自由に手の甲にくっつくのだ。
人さし指を逆ににぎって、力いっぱいへし折ったのだ。
このことだけでも、そのときの拷問が、どんなものすごいものだったかがわかるではないか。
と報告している。
そしてさらに、多喜二の死因が警察が発表の通り、「心臓まひ」であったかどうかを検証するため、病院に解剖を依頼したが、
小林多喜二の遺体だということを告げると、慈恵医大大病院も、どの病院も断った。
すでに、警察が手を回していたのだった。
引用元:
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/669e9970e90e6d399fb57fdd8d50a4a7