先日、伊方原発のお粗末で実現性の乏しい避難計画に比べ、遥かにマシなものを打ち出したにも関わらず、
住民の方々の強固な反対を受け、当時、国を挙げて推進されていた原発の中のひとつが、稼働することなく廃炉となった、アメリカの原発について書きました。
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「こんな避難計画では命を守れない」からと、廃炉になったアメリカの原発と、真逆の日本の原発事情
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/19713f99fb363c2d9574c5dd37a2ba2a
その原発は、うちからもそう遠くないロングアイランドという長細い島に建てられました。
そのロングアイランドに、反対運動が起こっていた頃からずっと住んでいる友人志津子さんが、当時のことを、違う視点から書いてくれた文章を紹介します。
ちなみに志津子さんは今、アメリカの大勢の議員に、高江の現状を写真と文章にしてまとめ、それをファックスで送り続けるという、大変な作業を続けてくれています。
彼女の、戦争や軍という存在に抗う気持ちの強さには、いつも頭が下がる思いがします。
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今日は、私が住むロングアイランドの中程にある、ちょっといい農場をご紹介。
ここは、瀟洒な家が並ぶ住宅地のど真ん中にある、10エーカーの土地ですが、ヨーロッパから移民してきた家族が、この地で、代々観葉植物栽培を家業としてきました。
オーナー夫婦は、旦那さんが土壌の研究者でもあり、パートナーは子供向けに、語りかけならぬ「歌いかけ」をする歌手・絵本作家でもあります。
沖縄の2倍ほどの面積がある、このロングアイランド島の沿岸の町ショーハムに、原発建設が進行していた時、
二人は、市民による反対運動の中で出会いました。
当時、国を挙げて推進されていた原発は、ここロングアイランドでも、数箇所に設置が計画されていたそうですが、
最初の予定地は、資産家が疎らに住む森の中のような町であったり、商業空港の側であったり、住民が多い海岸の町であったりしたため、反対に合い、計画の段階で頓挫。
ロングアイランド島の北部沿岸地区には、有名なセレブや、ウォール街で財を成したビジネスマン等の超富裕層が、
それこそ信じ難い豪華な家を建てて、海岸に住む権利を独占しているようなところがあり、
そんな場所での見苦しい原発建設は、ハナから無理なことだったのではないか、と思っています。
ショーハムは、鬱蒼とした森林地区で、周囲に住居もなかったため、大きな反対運動もなく、
また、郡にある高名な科学研究所が、お墨付きを与えたこともあって、電力会社が着々と建設を進めていたものの、
その後、スリーマイル島やチェルノブイリでの原発事故を見た島の内外の住民が、猛烈な反対運動を起こします。
そして、私が今住むサフォーク郡の各町の議会も、事故の際に避難誘導が出来ないからと、サインすることを拒むことになります。
当時15,000人を超す住民の反対集会があり、600人の参加者が、施設のフェンスを乗り越えて逮捕された、と聞いています。
私は当時、隣の郡に、日本から幼い子供3人を連れて移り住んでいましたが、凄いことになっていると、驚いて見ていただけでした。
今の話だったら、一緒にフェンスを越えたかったと思います。
ちなみにこの島は、私が越して来て30年余、一度だけ小さい地震があって大騒ぎになったという、「不動の地」です。
また、当時の名物民主党知事(パパ)クオモ氏が、
「ロングアイランド島住民の、避難計画が十分ではない」と、積極的に介入して、稼働を認めませんでした。
一旦、連邦政府が、テスト運転の許可を出したものの、電力会社は周りからの支持を得られず、遂にギブアップ。
NY州は、この原発を、電力会社ごと買い取り、巨額の資金を投資した原発は、一度も使われることなく廃炉に。
その後、州はこれを、負債ごと次の電力会社に売却しています。
そのため、私たちロングアイランドの住民は、今でもその負債を上乗せした電気料金を、払わされているのだそうです。
ついでに、その後、ロングアイランドの電力は、原発に無縁であるかというとそうではなく、
州北部の原発から電気を買い付けているので、原発と縁を切ったとは言えないのが残念なところです。
私が後に、イラク戦争反対で出逢ったアメリカ人の友人たちの殆どが、この原発反対運動に参加しており、この夫婦のことを知っていました。
(この夫婦の紹介のはずが、前置きが長くなりました。)
このように、原発反対運動で意気投合した夫婦は、この土地で家族向けの野菜栽培もしていましたが、
4年前に、CSA (Community Supported Agriculture=地域支援型農業、常に有機です) を始め、有機野菜を、コミュニティの人たちのために栽培し始めました。
CSAでは、その地域の人たちが、有機農家を支援するためにメンバーになり、1年分の会費を事前に払います。
農家は、この資金を元手に、種を買ったり、道具や農機具を買ったりします。
メンバーは、虫食いでも、形が悪くても、文句は言いません。
災害に見舞われて不作になっても、返金を求めません。
そうやって、地元の有機農家の生活を守ることに、快く同意する他、CSAによっては、会員に、ボランティアを義務付けるところもあります。
このCSAには、何かしらの活動に関わっている人たちが、折々手伝いに来ていて、嬉しい出会いも沢山ありました。
150人程のメンバーが野菜を受取りに来る、週2回の収穫仕分け作業と、
余剰野菜を生活困窮者に渡せるよう、フードバンクに配達するボランティアを、3年間してきましたが、
土地の所有者であるお婆ちゃんが、願いも虚しく、90を過ぎたところでポックリと亡くなりました。
そこで、お決まりの遺産問題が発生し、夫婦はこの農場を、売却せねばならないことになりました。
お金持ちが住む宅地地区です。
不動産屋に売れば、何十億というお金が入ったことでしょう。
でも夫婦は、この農場を、丸ごと生かすために買ってくれる、NPOや団体に掛け合います。
心に問題を持つ帰還兵の団体もその一つで、私は個人的にそれを願っていましたが、
最終的に、自閉症を抱える人達の支援団体が、買うことになりました。
ここで、その人たちは、野菜栽培を通して自然に触れ、働くことを経験し、夫婦は栽培指導を行っていきます。
今日は、その団体から、自閉症の人たちが来て、一緒にケールを10本ずつ数えて束ね、その後で、友人が食糧支援団体に届けました。
CSA時代には、普段地元の大学で環境学を教えながら、今も反原発運動にも関わっている先生が、
実に沢山の学生達を、この農場に、ボランティアとして送り込んでいましたが、今日も来ていました。
こういう学生とは、話が弾みます。
日本の政治は、今、とても恐ろしいことになっており、そこに、アメリカがガッチリと絡んでいる話をします。
彼は、卒業後、青年の船に乗り、ネパールで農業指導したいと考えています。
「インディアンポイント原発反対運動をしている日本人の友達も、ハンター先生のFBFなのよ」と、話をしている時に、
ピンポーン、その友人から、高江支援についてのテキストメッセージが、入って来ました。
汚染されない空気と、水と、土地、化学肥料を使わない野菜、置いていかれそうな人を置いていかない決意、
正義と命を守る運動は、どっこい繋がっていると、教えてくれる農園です。
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志津子さんもわたしも、マンハッタンの彼方此方で行っている、レイチェルと歩美ちゃんの呼びかけで始まった『Blue Vigil』のメンバーです。
沖縄につながろう、沖縄を支えよう、沖縄の現状を伝えようと、毎月一回、写真やメッセージを掲げ、街行く人たちに呼びかけています。
辺野古や高江の、暮らしの中に大きな権力との闘いを食い込まされ、長い長い月日をかけることを余儀なくされた住民のみなさん。
戦争のむごたらしさを身を以って経験し、その痛みや悲しみが癒える間もなく、戦勝国アメリカの支配を残酷な形で押し付けられている沖縄の叫びを、
わたしはこれまで、どれだけの長さの時間を、どれだけの数の言葉を、どれだけの量の痛みを、知らないふりをしてきてしまったのか。
そのことを考えるたび、申し訳がないという気持ちがどどっと押し寄せてきます。
せめてこれからでも、伝えていなかければならない、その役を引き受けよう。
そんな気持ちで沖縄の記事を書いています。
「沖縄高江はまるで戦争です。メディアはこの戦争を黙殺しています。この異常事態を伝えて!」三上智恵監督
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63?fm=entry_awp
やんばるの森が、4000種以上の野生動物が、1000種類の魚と400種類のサンゴが泣いている
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/33b8ba50d1ba21d1112b5fc5c0adc017
その高江で頑張っておられる、「ヘリパッドいらない住民の会」の伊佐育子さんから、こんなメッセージが届きました。
どうして届いたかというと、これまた友人の歩美ちゃんの呼びかけで、高江の住民の会宛に、カンパとメッセージを届けたからなのでした。
ありがとうございます。
住民の会の伊佐育子です。
先日は、メッセージとカンパを頂き、ありがとうございました。
今やっと、工事作業員もお盆休みで、私たちも家でお盆をすることができました。
お礼の返信が遅くなりすみません。
人が人を殺すことはできない。
この基地が、それを可能にしてしまう。
人が人でなくなるのが戦争だ。
と、沖縄のおじーやおばーが、戦場を見たからこそ、言い続けています。
昨年2月に2か所、完成したヘリパッドで、米軍へ提供もされていないのに、県道から堂々と、米軍車両が入り、24時間体制で4日間、ここで野戦演習がありました。
私たちも、仲間とテントを張り 昼間の動きと抗議のため、昼間だけゲートに居ました。
ゲート前の兵隊は、交代で、24時間昼夜を厭わず、私たちを監視していました。
堂々と道の傍で立ち見張る兵隊、ゲート前の車の中で休む兵隊、この子は、ブロンドの髪の女性でした。
車の中で、楽しそうにスマホをしていました。
その姿は、私の娘と同じですが、彼女は軍服を着ています。
それより赤いワンピースがとても似合う、幼さが残るかわいい女性です。
2~3日もすると、メンバーの顔もわかるようになります。
朝、テントに、パンとコーヒーを持っていきましたが、この日、人が少なく余ってしまい、
そうだお隣さんに持って行こうと、たまたま居た留学生に通訳を頼み、持って行きました。
「朝ごはんのパンとコーヒーです。朝はもう食べましたか?よかったらどうぞ」
そこには、キャプテンらしい方もいて、「NO」と言って従ってましたが、
米兵にとって、私が持って行くものが安全なはずはない、と疑われてもしかたありません。
毒饅頭かもしれないのですよね。
私は、
「あなたたちは、私たちを敵だと思って、24時間銃を持ち監視しているが、
私たちはあなた方が、ここから戦場に行かないためにここにいるのです。
私たちは敵じゃない」
と通訳してもらい、パンとコーヒーをそこに置いて、テントに帰りました。
しばらくして、ゲートをあける動きがあったので、他の隊長に見つかったらこの子たちが怒られると思い、皿を下げに行きました。
すると、パンは、一切れも残っていませんでした。
次の日も、今度は、おもちをテントのストーブで焼き、醤油と海苔を巻き またまた通訳付きでお隣ヘ。
餅の説明をすると、一人はすぐに食べてくれましたが、あとは恥ずかしそうだったので、また皿を置いてテントにもどりました。
しばらくして皿を戻しに行くと 餅もきれいに食べてありました。
そして反対に、そこに居た男性兵士が、「これ」と言って、彼が食べている携帯用の食料をくれました。
テントにいる人も、「これももらったよ」と、私のいない間に、食べ物の交換が行われていました。
次の日は、朝から慌ただしそうで、いつもの監視もなく、ゲートが開けられ、30台もの米軍車両が出て行きました。
彼女は、車両から、かわいい笑みでカメラに応えながら、ゲートを出て行きました。
無事に家に戻れますように、と願います。
同時に、いくらここで気持ちが通じたところで、隊長が、「あいつらを殺せ」と命令すれば、私を殺すでしょう。
殺すか殺されるかの選択です。
いくらここで私たちが頑張っても、何も変えられない、と思う瞬間です。
アメリカで感じた、壁の高さと無力さを、思うのです。
今、自国が、憲法も法もない暴挙で、高江の工事を進めています。
ここは、日本でも沖縄でもない、一体どこなのか?!と叫んでいます。
沖縄で起こることは、最初で最後にしてほしい。
あってはならないと。
非暴力で訴え、社会を変える。人を変える。
ここに暮らすから、みなさんとともに、だからあきらめずにできます。
「ベテランズ・フォー・ピース」の総会で、「高江のヘリパッド新設の中止を求める緊急決議」もされ、とても勇気付けられています。
ありがとうございました。
長くなりすみません。
これからも どうぞよろしくお願いいたします。
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そして最後に、参議院選挙の投開票が終わって間もない、翌日の早朝5時頃から始まった、高江の弾圧と排斥の様子を、間近に見ておられた鴨下上人が、
その一連の出来事と、それについての感想を書いてくださったので、紹介させていただきます。
南無妙法蓮華経
皆様、報道等で、既に大半の事はご存知の事と思いますが、現地に居た者として、一連の出来事と、それについての感想を、お伝えしたいと思います。
今からちょうど2週間前の夜、参院選の結果が発表されていくなか、
沖縄は、十万六千四百票の大差で、オール沖縄が自民党の島尻あいこ現職大臣を降し、辺野古も高江も今後の見通しは良いだろう、と安堵していました。
(これで、沖縄県選出の全国会議員に、自民党は居なくなりました)
翌日、11日早朝5時頃に、資材を積んだ車両の隊列が、高江のジャングル訓練トレーニングセンター(以下、北部訓練場)に入って行くのを、たまたま村民が目撃しました。
後から分かったことですが、日本政府は用意周到に、この日の為に準備していたようです。
それからはまさに急展開で、様々な事が、この二週間に起こりました。
日本政府はもちろんの事、沖縄防衛局、外務省、米国海兵隊、沖縄県警等が、
翁長県政と県民の見えない所で、様々な画策をし、法律、条例等を無視し、説明もしないままに、着々と工事着工に向かっていきました。
例えば、 違法な鉄柵を設置する、抗議行動を排斥する、などなど。
囲っているフェンスでさえ、本来の米軍機地の境界線を越えて、県道の中まで設置している事が発覚しました。
県の許可を得ず、県警が、独断で県道を封鎖、検問。
検問では、トランクを調べようとする等の、明らかな越権行為が見られました。
住民の人達が車を駐車していた県道に、いきなり駐車禁止の標識を、これまた県の公安委員会の許可を得ず、名護署の署長の指示で設置。
テントも、車も、法律上、警察や、ましては防衛局が、撤去できる法的理由はありませんでした。
挙げ句の果てには、警察車両の前に座り込んでいた市民を、沖縄県警が撥ねた後、怪我を負った男性を、道の脇に無理矢理移動させ、車はそのまま逃走する。
などと、ちょっとにわかには信じられない事が、連続して起こりました。
少し変わった事例をあげれば、下っ端の防衛局員、各県機動隊員達も、明らかに動揺していました。
何も知らされないまま沖縄に送られ、市民弾圧の命令を受けてそこに立つものの、
「何故、私たちが体を張ってでも、工事を阻止するか」と、沖縄のおじいおばあが、沖縄の歴史を必死になって、涙を流して伝える、
かと思えば、歌を唄い踊りだす。
また、新聞でも報道されましたが、うるま市の女性暴行殺人事件を受け、他府県から集められた防衛局職員60名が、警備の理由で沖縄に派遣されていたのに、
高江の警備、即ち、米兵事件の防犯から一転、基地建設の要員に変わり、酷い管理下のもとで仕事をさせられていることも分かり、
炎天下の中、24時間体制で直立不動の姿勢を続けるのは、想像以上にきついですし、不満の声があがっていました。
警察官と会話してみて、彼らの行動原理は、まさに全体主義の上意下達だ、と感じました。
私が、座り込みのリーダーの決定した事を行っていないからと、なんと県警の男性が、
「リーダーが言っていることに従いなさい」と言い、
私が、
「私たちは、個人の意思で動いているから」と返答すると、
彼は、
「あなたは自分勝手な人だ」と言って、立ち去っていきました。
何を言いたいかといえば、国家権力は、殊に今の安倍政権は、中央集権を強め、
「我々に出来ない事などない」という姿勢のもとに、沖縄への圧政を強めているという事です。
最高権力を持つ政府が、法的なプロセスを踏まずに、物事をどんどん進めていけば、これに抗うのは実に困難であります。
政府が暴走する時に止められないのは、それを黙認する多くの国民が居るから、ではないでしょうか?
私は、この一連の出来事を、『沖縄処分』と呼びたいです。
500名以上ともいわれる機動隊を、全国各地(千葉、東京、神奈川、愛知、大阪)から集め、わずか160名の高江区を、制圧・圧殺しました。
このまま日本政府の暴挙を放って置けば、いつか必ず、いや、近いうちに、本土でも、法律を無視し、国権を行使してくる日が来るに違いない、と感じてます。
それほどまでの危機感を、この二週間の、日本政府のやり方を体験し、感じています。
7月22日はある意味、沖縄が殺された日です。
制圧された日です。
何故かと言うと、沖縄県政には何一つ通達せず、沖縄防衛局等には根回しし、周到に準備し、高江のオスプレイパッド工事の着工を強行したからです。
最後に、 先月辺りから、既に完成してしまったN4のオスプレイパッドには、オスプレイの離発着訓練の頻度が激増し、夜中まで行っています。
発着場から一番近い民家の安次嶺家は、夜、子供たちが、騒音によって眠ることができなくなったため、
今現在、隣の村に避難することを、余儀なくされています。
この事を、お母さんが、泣きながら訴えていました。
"北部訓練場の過半の返還は、基地負担の軽減"というのが、日米政府の一貫した主張ですが、
実は、新しく造る予定のオスプレイパッドは、その場所が、海兵隊の指示によって、決まっていたのでした。
元来の北部訓練場は、海無しの、森林部分だけでしたが、新たに造るG地区は、宇嘉川の河口付近に建設され、また、そこから海の領域も、米軍に追加提供されました。
しかも、高江区を囲うようにして。
SACO合意の基地負担軽減の仮面を裏返せば、基地機能の強化。
これはまさに、辺野古と同じです。
SACO合意の本質は、実は、移設、機能強化、ということでした。
ここまで欺かれ、弾圧される県民の中には、遂に心が折れてしまっている人たちもいるのです。
私自身も、多少なりとも仏教を学ばせていただいたことが、心が折れない柱となっていると思いますが、
沖縄の人達の心境を思うと、本当に悔しいですし、やりきれない想いも致します。
"妙とは蘇生の義なり"
御師匠様、御祖師様、御釈迦様の金言を心の支えにして、撃鼓唱題し、沖縄県民の心の支えに少しでもなれるよう、又、仏法の御縁が少しでも結縁できるよう、微力ながら勤めて参ります。
沖縄に来たことが無い方は、是非一度、お越しください。
またお越しください。
大したことは出来ませんが、少しはご案内出来ることと思います。
合掌 鴨下祐一拝
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沖縄県民の心の支えに、わたしも少しでもなれるよう、できることをし続けていこうと思います。
住民の方々の強固な反対を受け、当時、国を挙げて推進されていた原発の中のひとつが、稼働することなく廃炉となった、アメリカの原発について書きました。
↓↓↓
「こんな避難計画では命を守れない」からと、廃炉になったアメリカの原発と、真逆の日本の原発事情
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/19713f99fb363c2d9574c5dd37a2ba2a
その原発は、うちからもそう遠くないロングアイランドという長細い島に建てられました。
そのロングアイランドに、反対運動が起こっていた頃からずっと住んでいる友人志津子さんが、当時のことを、違う視点から書いてくれた文章を紹介します。
ちなみに志津子さんは今、アメリカの大勢の議員に、高江の現状を写真と文章にしてまとめ、それをファックスで送り続けるという、大変な作業を続けてくれています。
彼女の、戦争や軍という存在に抗う気持ちの強さには、いつも頭が下がる思いがします。
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今日は、私が住むロングアイランドの中程にある、ちょっといい農場をご紹介。
ここは、瀟洒な家が並ぶ住宅地のど真ん中にある、10エーカーの土地ですが、ヨーロッパから移民してきた家族が、この地で、代々観葉植物栽培を家業としてきました。
オーナー夫婦は、旦那さんが土壌の研究者でもあり、パートナーは子供向けに、語りかけならぬ「歌いかけ」をする歌手・絵本作家でもあります。
沖縄の2倍ほどの面積がある、このロングアイランド島の沿岸の町ショーハムに、原発建設が進行していた時、
二人は、市民による反対運動の中で出会いました。
当時、国を挙げて推進されていた原発は、ここロングアイランドでも、数箇所に設置が計画されていたそうですが、
最初の予定地は、資産家が疎らに住む森の中のような町であったり、商業空港の側であったり、住民が多い海岸の町であったりしたため、反対に合い、計画の段階で頓挫。
ロングアイランド島の北部沿岸地区には、有名なセレブや、ウォール街で財を成したビジネスマン等の超富裕層が、
それこそ信じ難い豪華な家を建てて、海岸に住む権利を独占しているようなところがあり、
そんな場所での見苦しい原発建設は、ハナから無理なことだったのではないか、と思っています。
ショーハムは、鬱蒼とした森林地区で、周囲に住居もなかったため、大きな反対運動もなく、
また、郡にある高名な科学研究所が、お墨付きを与えたこともあって、電力会社が着々と建設を進めていたものの、
その後、スリーマイル島やチェルノブイリでの原発事故を見た島の内外の住民が、猛烈な反対運動を起こします。
そして、私が今住むサフォーク郡の各町の議会も、事故の際に避難誘導が出来ないからと、サインすることを拒むことになります。
当時15,000人を超す住民の反対集会があり、600人の参加者が、施設のフェンスを乗り越えて逮捕された、と聞いています。
私は当時、隣の郡に、日本から幼い子供3人を連れて移り住んでいましたが、凄いことになっていると、驚いて見ていただけでした。
今の話だったら、一緒にフェンスを越えたかったと思います。
ちなみにこの島は、私が越して来て30年余、一度だけ小さい地震があって大騒ぎになったという、「不動の地」です。
また、当時の名物民主党知事(パパ)クオモ氏が、
「ロングアイランド島住民の、避難計画が十分ではない」と、積極的に介入して、稼働を認めませんでした。
一旦、連邦政府が、テスト運転の許可を出したものの、電力会社は周りからの支持を得られず、遂にギブアップ。
NY州は、この原発を、電力会社ごと買い取り、巨額の資金を投資した原発は、一度も使われることなく廃炉に。
その後、州はこれを、負債ごと次の電力会社に売却しています。
そのため、私たちロングアイランドの住民は、今でもその負債を上乗せした電気料金を、払わされているのだそうです。
ついでに、その後、ロングアイランドの電力は、原発に無縁であるかというとそうではなく、
州北部の原発から電気を買い付けているので、原発と縁を切ったとは言えないのが残念なところです。
私が後に、イラク戦争反対で出逢ったアメリカ人の友人たちの殆どが、この原発反対運動に参加しており、この夫婦のことを知っていました。
(この夫婦の紹介のはずが、前置きが長くなりました。)
このように、原発反対運動で意気投合した夫婦は、この土地で家族向けの野菜栽培もしていましたが、
4年前に、CSA (Community Supported Agriculture=地域支援型農業、常に有機です) を始め、有機野菜を、コミュニティの人たちのために栽培し始めました。
CSAでは、その地域の人たちが、有機農家を支援するためにメンバーになり、1年分の会費を事前に払います。
農家は、この資金を元手に、種を買ったり、道具や農機具を買ったりします。
メンバーは、虫食いでも、形が悪くても、文句は言いません。
災害に見舞われて不作になっても、返金を求めません。
そうやって、地元の有機農家の生活を守ることに、快く同意する他、CSAによっては、会員に、ボランティアを義務付けるところもあります。
このCSAには、何かしらの活動に関わっている人たちが、折々手伝いに来ていて、嬉しい出会いも沢山ありました。
150人程のメンバーが野菜を受取りに来る、週2回の収穫仕分け作業と、
余剰野菜を生活困窮者に渡せるよう、フードバンクに配達するボランティアを、3年間してきましたが、
土地の所有者であるお婆ちゃんが、願いも虚しく、90を過ぎたところでポックリと亡くなりました。
そこで、お決まりの遺産問題が発生し、夫婦はこの農場を、売却せねばならないことになりました。
お金持ちが住む宅地地区です。
不動産屋に売れば、何十億というお金が入ったことでしょう。
でも夫婦は、この農場を、丸ごと生かすために買ってくれる、NPOや団体に掛け合います。
心に問題を持つ帰還兵の団体もその一つで、私は個人的にそれを願っていましたが、
最終的に、自閉症を抱える人達の支援団体が、買うことになりました。
ここで、その人たちは、野菜栽培を通して自然に触れ、働くことを経験し、夫婦は栽培指導を行っていきます。
今日は、その団体から、自閉症の人たちが来て、一緒にケールを10本ずつ数えて束ね、その後で、友人が食糧支援団体に届けました。
CSA時代には、普段地元の大学で環境学を教えながら、今も反原発運動にも関わっている先生が、
実に沢山の学生達を、この農場に、ボランティアとして送り込んでいましたが、今日も来ていました。
こういう学生とは、話が弾みます。
日本の政治は、今、とても恐ろしいことになっており、そこに、アメリカがガッチリと絡んでいる話をします。
彼は、卒業後、青年の船に乗り、ネパールで農業指導したいと考えています。
「インディアンポイント原発反対運動をしている日本人の友達も、ハンター先生のFBFなのよ」と、話をしている時に、
ピンポーン、その友人から、高江支援についてのテキストメッセージが、入って来ました。
汚染されない空気と、水と、土地、化学肥料を使わない野菜、置いていかれそうな人を置いていかない決意、
正義と命を守る運動は、どっこい繋がっていると、教えてくれる農園です。
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志津子さんもわたしも、マンハッタンの彼方此方で行っている、レイチェルと歩美ちゃんの呼びかけで始まった『Blue Vigil』のメンバーです。
沖縄につながろう、沖縄を支えよう、沖縄の現状を伝えようと、毎月一回、写真やメッセージを掲げ、街行く人たちに呼びかけています。
辺野古や高江の、暮らしの中に大きな権力との闘いを食い込まされ、長い長い月日をかけることを余儀なくされた住民のみなさん。
戦争のむごたらしさを身を以って経験し、その痛みや悲しみが癒える間もなく、戦勝国アメリカの支配を残酷な形で押し付けられている沖縄の叫びを、
わたしはこれまで、どれだけの長さの時間を、どれだけの数の言葉を、どれだけの量の痛みを、知らないふりをしてきてしまったのか。
そのことを考えるたび、申し訳がないという気持ちがどどっと押し寄せてきます。
せめてこれからでも、伝えていなかければならない、その役を引き受けよう。
そんな気持ちで沖縄の記事を書いています。
「沖縄高江はまるで戦争です。メディアはこの戦争を黙殺しています。この異常事態を伝えて!」三上智恵監督
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63?fm=entry_awp
やんばるの森が、4000種以上の野生動物が、1000種類の魚と400種類のサンゴが泣いている
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/33b8ba50d1ba21d1112b5fc5c0adc017
その高江で頑張っておられる、「ヘリパッドいらない住民の会」の伊佐育子さんから、こんなメッセージが届きました。
どうして届いたかというと、これまた友人の歩美ちゃんの呼びかけで、高江の住民の会宛に、カンパとメッセージを届けたからなのでした。
ありがとうございます。
住民の会の伊佐育子です。
先日は、メッセージとカンパを頂き、ありがとうございました。
今やっと、工事作業員もお盆休みで、私たちも家でお盆をすることができました。
お礼の返信が遅くなりすみません。
人が人を殺すことはできない。
この基地が、それを可能にしてしまう。
人が人でなくなるのが戦争だ。
と、沖縄のおじーやおばーが、戦場を見たからこそ、言い続けています。
昨年2月に2か所、完成したヘリパッドで、米軍へ提供もされていないのに、県道から堂々と、米軍車両が入り、24時間体制で4日間、ここで野戦演習がありました。
私たちも、仲間とテントを張り 昼間の動きと抗議のため、昼間だけゲートに居ました。
ゲート前の兵隊は、交代で、24時間昼夜を厭わず、私たちを監視していました。
堂々と道の傍で立ち見張る兵隊、ゲート前の車の中で休む兵隊、この子は、ブロンドの髪の女性でした。
車の中で、楽しそうにスマホをしていました。
その姿は、私の娘と同じですが、彼女は軍服を着ています。
それより赤いワンピースがとても似合う、幼さが残るかわいい女性です。
2~3日もすると、メンバーの顔もわかるようになります。
朝、テントに、パンとコーヒーを持っていきましたが、この日、人が少なく余ってしまい、
そうだお隣さんに持って行こうと、たまたま居た留学生に通訳を頼み、持って行きました。
「朝ごはんのパンとコーヒーです。朝はもう食べましたか?よかったらどうぞ」
そこには、キャプテンらしい方もいて、「NO」と言って従ってましたが、
米兵にとって、私が持って行くものが安全なはずはない、と疑われてもしかたありません。
毒饅頭かもしれないのですよね。
私は、
「あなたたちは、私たちを敵だと思って、24時間銃を持ち監視しているが、
私たちはあなた方が、ここから戦場に行かないためにここにいるのです。
私たちは敵じゃない」
と通訳してもらい、パンとコーヒーをそこに置いて、テントに帰りました。
しばらくして、ゲートをあける動きがあったので、他の隊長に見つかったらこの子たちが怒られると思い、皿を下げに行きました。
すると、パンは、一切れも残っていませんでした。
次の日も、今度は、おもちをテントのストーブで焼き、醤油と海苔を巻き またまた通訳付きでお隣ヘ。
餅の説明をすると、一人はすぐに食べてくれましたが、あとは恥ずかしそうだったので、また皿を置いてテントにもどりました。
しばらくして皿を戻しに行くと 餅もきれいに食べてありました。
そして反対に、そこに居た男性兵士が、「これ」と言って、彼が食べている携帯用の食料をくれました。
テントにいる人も、「これももらったよ」と、私のいない間に、食べ物の交換が行われていました。
次の日は、朝から慌ただしそうで、いつもの監視もなく、ゲートが開けられ、30台もの米軍車両が出て行きました。
彼女は、車両から、かわいい笑みでカメラに応えながら、ゲートを出て行きました。
無事に家に戻れますように、と願います。
同時に、いくらここで気持ちが通じたところで、隊長が、「あいつらを殺せ」と命令すれば、私を殺すでしょう。
殺すか殺されるかの選択です。
いくらここで私たちが頑張っても、何も変えられない、と思う瞬間です。
アメリカで感じた、壁の高さと無力さを、思うのです。
今、自国が、憲法も法もない暴挙で、高江の工事を進めています。
ここは、日本でも沖縄でもない、一体どこなのか?!と叫んでいます。
沖縄で起こることは、最初で最後にしてほしい。
あってはならないと。
非暴力で訴え、社会を変える。人を変える。
ここに暮らすから、みなさんとともに、だからあきらめずにできます。
「ベテランズ・フォー・ピース」の総会で、「高江のヘリパッド新設の中止を求める緊急決議」もされ、とても勇気付けられています。
ありがとうございました。
長くなりすみません。
これからも どうぞよろしくお願いいたします。
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そして最後に、参議院選挙の投開票が終わって間もない、翌日の早朝5時頃から始まった、高江の弾圧と排斥の様子を、間近に見ておられた鴨下上人が、
その一連の出来事と、それについての感想を書いてくださったので、紹介させていただきます。
南無妙法蓮華経
皆様、報道等で、既に大半の事はご存知の事と思いますが、現地に居た者として、一連の出来事と、それについての感想を、お伝えしたいと思います。
今からちょうど2週間前の夜、参院選の結果が発表されていくなか、
沖縄は、十万六千四百票の大差で、オール沖縄が自民党の島尻あいこ現職大臣を降し、辺野古も高江も今後の見通しは良いだろう、と安堵していました。
(これで、沖縄県選出の全国会議員に、自民党は居なくなりました)
翌日、11日早朝5時頃に、資材を積んだ車両の隊列が、高江のジャングル訓練トレーニングセンター(以下、北部訓練場)に入って行くのを、たまたま村民が目撃しました。
後から分かったことですが、日本政府は用意周到に、この日の為に準備していたようです。
それからはまさに急展開で、様々な事が、この二週間に起こりました。
日本政府はもちろんの事、沖縄防衛局、外務省、米国海兵隊、沖縄県警等が、
翁長県政と県民の見えない所で、様々な画策をし、法律、条例等を無視し、説明もしないままに、着々と工事着工に向かっていきました。
例えば、 違法な鉄柵を設置する、抗議行動を排斥する、などなど。
囲っているフェンスでさえ、本来の米軍機地の境界線を越えて、県道の中まで設置している事が発覚しました。
県の許可を得ず、県警が、独断で県道を封鎖、検問。
検問では、トランクを調べようとする等の、明らかな越権行為が見られました。
住民の人達が車を駐車していた県道に、いきなり駐車禁止の標識を、これまた県の公安委員会の許可を得ず、名護署の署長の指示で設置。
テントも、車も、法律上、警察や、ましては防衛局が、撤去できる法的理由はありませんでした。
挙げ句の果てには、警察車両の前に座り込んでいた市民を、沖縄県警が撥ねた後、怪我を負った男性を、道の脇に無理矢理移動させ、車はそのまま逃走する。
などと、ちょっとにわかには信じられない事が、連続して起こりました。
少し変わった事例をあげれば、下っ端の防衛局員、各県機動隊員達も、明らかに動揺していました。
何も知らされないまま沖縄に送られ、市民弾圧の命令を受けてそこに立つものの、
「何故、私たちが体を張ってでも、工事を阻止するか」と、沖縄のおじいおばあが、沖縄の歴史を必死になって、涙を流して伝える、
かと思えば、歌を唄い踊りだす。
また、新聞でも報道されましたが、うるま市の女性暴行殺人事件を受け、他府県から集められた防衛局職員60名が、警備の理由で沖縄に派遣されていたのに、
高江の警備、即ち、米兵事件の防犯から一転、基地建設の要員に変わり、酷い管理下のもとで仕事をさせられていることも分かり、
炎天下の中、24時間体制で直立不動の姿勢を続けるのは、想像以上にきついですし、不満の声があがっていました。
警察官と会話してみて、彼らの行動原理は、まさに全体主義の上意下達だ、と感じました。
私が、座り込みのリーダーの決定した事を行っていないからと、なんと県警の男性が、
「リーダーが言っていることに従いなさい」と言い、
私が、
「私たちは、個人の意思で動いているから」と返答すると、
彼は、
「あなたは自分勝手な人だ」と言って、立ち去っていきました。
何を言いたいかといえば、国家権力は、殊に今の安倍政権は、中央集権を強め、
「我々に出来ない事などない」という姿勢のもとに、沖縄への圧政を強めているという事です。
最高権力を持つ政府が、法的なプロセスを踏まずに、物事をどんどん進めていけば、これに抗うのは実に困難であります。
政府が暴走する時に止められないのは、それを黙認する多くの国民が居るから、ではないでしょうか?
私は、この一連の出来事を、『沖縄処分』と呼びたいです。
500名以上ともいわれる機動隊を、全国各地(千葉、東京、神奈川、愛知、大阪)から集め、わずか160名の高江区を、制圧・圧殺しました。
このまま日本政府の暴挙を放って置けば、いつか必ず、いや、近いうちに、本土でも、法律を無視し、国権を行使してくる日が来るに違いない、と感じてます。
それほどまでの危機感を、この二週間の、日本政府のやり方を体験し、感じています。
7月22日はある意味、沖縄が殺された日です。
制圧された日です。
何故かと言うと、沖縄県政には何一つ通達せず、沖縄防衛局等には根回しし、周到に準備し、高江のオスプレイパッド工事の着工を強行したからです。
最後に、 先月辺りから、既に完成してしまったN4のオスプレイパッドには、オスプレイの離発着訓練の頻度が激増し、夜中まで行っています。
発着場から一番近い民家の安次嶺家は、夜、子供たちが、騒音によって眠ることができなくなったため、
今現在、隣の村に避難することを、余儀なくされています。
この事を、お母さんが、泣きながら訴えていました。
"北部訓練場の過半の返還は、基地負担の軽減"というのが、日米政府の一貫した主張ですが、
実は、新しく造る予定のオスプレイパッドは、その場所が、海兵隊の指示によって、決まっていたのでした。
元来の北部訓練場は、海無しの、森林部分だけでしたが、新たに造るG地区は、宇嘉川の河口付近に建設され、また、そこから海の領域も、米軍に追加提供されました。
しかも、高江区を囲うようにして。
SACO合意の基地負担軽減の仮面を裏返せば、基地機能の強化。
これはまさに、辺野古と同じです。
SACO合意の本質は、実は、移設、機能強化、ということでした。
ここまで欺かれ、弾圧される県民の中には、遂に心が折れてしまっている人たちもいるのです。
私自身も、多少なりとも仏教を学ばせていただいたことが、心が折れない柱となっていると思いますが、
沖縄の人達の心境を思うと、本当に悔しいですし、やりきれない想いも致します。
"妙とは蘇生の義なり"
御師匠様、御祖師様、御釈迦様の金言を心の支えにして、撃鼓唱題し、沖縄県民の心の支えに少しでもなれるよう、又、仏法の御縁が少しでも結縁できるよう、微力ながら勤めて参ります。
沖縄に来たことが無い方は、是非一度、お越しください。
またお越しください。
大したことは出来ませんが、少しはご案内出来ることと思います。
合掌 鴨下祐一拝
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沖縄県民の心の支えに、わたしも少しでもなれるよう、できることをし続けていこうと思います。