ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

立憲主義ってなに?それは「国家権力が、私たちの権利や自由を侵害しないよう憲法で縛るシステム」です!

2017年10月04日 | 日本とわたし
10月3日有楽町前にて、立憲民主党・枝野代表が行なった演説より
































『立憲民主党』

この『立憲』という言葉を誤解して、デマを振りまいている人が少なからずいます。
立憲について、とてもわかりやすく説明してくださっている記事と、ぼうごなつこさんのまんがイラストを紹介させていただきます。

『まんがイラスト ぼうごなつこのページ』より
http://bogonatsuko.blog45.fc2.com


立憲主義とは(復習)
http://bogonatsuko.blog45.fc2.com/blog-entry-1487.html




小学生でもわかる憲法入門
http://bogonatsuko.blog45.fc2.com/blog-entry-1285.html



↓2年半前の記事ですが、こういう無知で無恥な権力者を縛り、無謀なことをさせないために憲法があるのですね。

首相、立憲主義を否定 解釈改憲「最高責任者は私」
【東京新聞】2014年2月13日
http://megalodon.jp/2014-0213-1258-47/www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014021302000135.html

安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更をめぐり、
「(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」と述べた。

憲法解釈に関する政府見解は、整合性が求められ、歴代内閣は、内閣法制局の議論の積み重ねを尊重してきた。
首相の発言は、それを覆して、自ら解釈改憲を進める考えを示したものだ。
首相主導で解釈改憲に踏み切れば、国民の自由や権利を守るため、政府を縛る憲法の立憲主義の否定になる。 
 
首相は、集団的自衛権の行使容認に向けて検討を進めている、政府の有識者会議について、
「(内閣法制局の議論の)積み上げのままで行くなら、そもそも会議を作る必要はない」と指摘した。

ー後略ー
 

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民主主義と立憲主義のはなし
【仙台市泉区のあやめ法律事務所】
http://www.ayame-law.jp/article/14288064.html

(文字の強調、色付けは、ブログ主であるわたしがしました)

ダイジェスト版「立憲主義って何?」
「立憲主義」って何でしょう?

ひと言でいえば、権力の行使を憲法で縛る、コントロールすることです。

権力行使の主体は、国家です。
つまり、立憲主義とは、国家権力を憲法で縛るシステムのことです。
日本国憲法は、「立憲主義」をとっています

では、なぜ「立憲主義」がとられているのでしょう。

それは、一人ひとりが個人として、人として尊重されるという「個人の尊重」をまもるためです。
個人の基本的人権が保障され、個人の権利自由が侵害されないために、です。

侵害するって、いったい誰が侵害するというのでしょう。
これは、国家、権力なのです。

ここはピンとこないかも知れませんね。
国家は、いろいろと国民のために、何かをしてくれるものではないの?
国、行政には、もっといろいろと「やってほしい」。

そのとおり、普段は、国、行政は、いろいろとやってくれるありがたい存在です。
でも、強い力、国民を強制できる力をもつ、時に怖い存在です。

税金を取られたくなくても、国が決めた税金は、強制的に取られてしまいますし、犯罪を犯したとされれば、刑務所に強制的に入れられますし、時に命までとられます。

権力には、強い力があるから、好き勝手に行使されてしまうとたまったものではないですよね。
憲法は、国民の権利自由を保障するために、国家に対して、「国民の○○の自由を侵害してはならない」という書き方を基本にしています


「立憲主義」は、なぜ必要なのでしょう?
 
国家、権力によって、国家のためだとして、個人の基本的人権が侵害された歴史がありました。
権力によって、一人ひとりのことよりも国家、団体、公が重視されて、個人の権利自由が侵害されてきた過去がありました。
特に、戦争というのは、究極的に、個人よりも国家を優先させ、個人を、一人ひとりの人ではなく、国家のための「道具」としてみなしがちです。

ここで、民主主義国家、国民から選挙で、選ばれた人たちなら、権力の行使も適正に行われて、暴走することはないのでは?と思われるかも知れません。

いやいや、民主主義国家であっても、憲法の縛りがなければ、間違った方向に行くこともありうるのです。
逆に、国民から選ばれたんだと、謙虚さを忘れて、自分がやることは正しいのだと強気になってしまうかも知れない分、かえってやっかいです。

権力を持つものは、自らが誤りであることに気がつきづらいものです。
正しいと思っている。自信があります。
正しいと思っているので、反対する人たちの声に耳を傾けることなく、「妨害する人たち」として排除したくなるでしょう。
多数者から選ばれた人たちからなるために、少数者の人のことがわからないこともあるのです。
そして、権力を行使するのは神様ではなく人なのですから、間違ってしまうこともあります。

間違っても、大切な基本的人権の保障を侵害しないように、国家が守るべき約束を定めて、約束を破れば、国民がコントロールできるようにしているのが「憲法」です。

つまり、国家に権力を与えた国民が、権力行使を適正に行われるようにするため、国家をコントロールためのものが「憲法」なのです。
国家は、憲法に違反するような権力行使、すなわち、個人の基本的人権を侵害することはできないという縛りをうけています

逆にいえば、国民は、「憲法」を持っているのだから、国家が権力を濫用している場合、濫用しそうな場合に、しっかり国家を「憲法」をもとに、コントロールできるし、しなければならない、ということになるのですね。
「立憲主義」というのは、個人を尊重するために、一人ひとりを人として大切にするための、よくできたシステムだなあと思います。

ー中略ー

第3 憲法は、国家を縛る、コントロールする-立憲主義のはなし1-

前回まで「民主主義のはなし」をお伝えしてきました。
一人の人や特定の団体が権力を握って、物事を決めるのではなくて、みんなでよく話し合って決めた方がいいということだったね。

何のためにいいのか、それは、個人の幸せにとっていいという意味だ。

ところで、権力って何だろう?
権力って何のためにあるのだろう?

これは、ルールやきまり、法律が何のためにあるのかとつながっている。

ルールやきまり、法律は、何のためにあったのかな?
例えば、前に話した刑法で、人の物を盗んだら懲役10年以下の刑に処するという規定は、何のためにあったのでしょうか?

一人一人の安全を守り、安心してくらせるようにということだったね。
個人の幸せにつながることだね。

ルールやきまり、法律を、強制的に守らせる力、それが「権力」ということになる。
人の物を盗まないように、盗んだ人を裁判にかけて、法律に規定した処罰をあたえる。

盗んだ本人が、「そんなの嫌だ!刑務所なんか行きたくない!」と叫んでも、権力は、無理矢理逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れたりする。

他にも、自分は、税金を払いたくないと思っていても、法律上税金を払う義務がある場合には、法律の定めに従って、権力は、税金を強制的にとっていく。

そういった強制的にする力があるからこそ、一人ひとりの安全を守ったり、必要な道路や学校や病院をつくったりすることができるわけです。

もし、強制力がなければ、法律には「人の物を盗むのはいけない」と書いていても、盗んだ人を処罰することはできなくて、やはり盗むことが多い世界になるでしょう。

頑張って働いてお金をためて、欲しい物をようやく買ったのに、それが盗まれるなんて嫌だよね。
がっくりするよね。
人は弱いものだから、じゃあ別の人の物を盗ってやろうか、自分も盗られたんだしと、そんな風に思うかもしれない。

もし、税金が強制的にとれなかったら、多くの人は、できれば自分の税金はあまり払いたくないと思うだろうから、
必要な税収が確保できず、学校や病院、道路といった公共の施設をつくる費用や、警察官や消防士、役所で働く人々(公務員)の給料も払えなくなって、
学校や病院、必要な道路もつくれず、安全が確保できなかったり、大変不便な生活を強いられることになるだろう。

だから、国家に対して、権力が与えられている。
国家は権力を持っている。
時に、強制的に国民に何かをさせたり、禁止したりする力があるんだ。
国家が、国民を強制的に従わせる力を、「公権力」という。

とても強い、そして特別な力が、国家にはあるんだね。

社会の秩序を確保すること、他の人を害することや迷惑になることをやめさせること、
国が国民に対して、必要なサービスを実施するために必要なお金を確保するために、税金をとること、
それは必要で、とても大切なことなんだ。

でも、公権力の使い方が間違っていたり、度が過ぎていたらどうだろう。

権力を実際につかうのは、神様ではなくて、ロボットでもなくて、個々の生身の人間だ。
総理大臣も、国会議員も、警察官も、消防士さんも、裁判官も、税務署の職員さんも人間だね。

時に間違ったり、度が過ぎたりしてしまうことってあるかもしれない。
人間なのだから、どうしても間違うことはある。
完璧な人間なんていないし、そしてその人自身、社会生活を送り、感情を持つ人だから、どうしても間違ってしまうことはある。

強力な力を持つ人が、間違っていたり、度が過ぎていたら、どんなことになるだろう。

強い力だから、間違ったりすると、とても怖いことになる。

警察が、きちんと犯罪を犯した人を捕まえてくれるから、国民は安心して暮らせる。

でも、警察官が間違って逮捕して、検察官も間違って起訴して(裁判にかけて)、裁判官も間違って有罪判決をかけば、その人は、本当は何も悪いことはしていないのに、強制的に刑務所に入れられることもあるんだ。
怖いことですが、実際に、これまでそんなことが、あったんだよ(これをえん罪といいます)。

そして権力には、その強大な力に加え、独特な性質があると思う。

まず、権力をもつ人は、自分のやっていることをあれこれ批判されるのは、苦手だ。
自分のやっていることは「正義のため」で、間違いはないと思いがちになる。

できれば、批判されたくない。
国民には、自分のやっていることに素直に従順に従って欲しい、と考える傾向にある
そして、ときには、批判する人を排除したくなってしまう

「国の政治を批判してはならない、批判した者は処罰する」

こんな法律ってどう思う?
おかしいよね。

きっと、冷静なときには、多くの人がおかしいと思うだろう。
でも、実際、過去には、これと同じような法律があったんだ。
ナチスドイツ・ヒトラーもそうだし、かつて戦争につきすすんだ日本でも、そんな時代があったんだ。
今現在でも、世界には同じような法律があり、国民が、国の政治を自由に批判することができない国もある。

権力が暴走してしまって、独裁政治になっている国では、言論の自由が否定されます。

そして権力は、大きくなろう、強くなろうという性質がある。
国民を支配・コントールする力をもっとつけよう、という傾向がある
織田信長もチンギス・ハンも、領土を拡大しようとした。
強くなろうとした。
国内では権力者に都合のいい法律をつくって、国民を統制しようとしがちだ。

また権力は、一定の思想や道徳と結びつき、それを国民に強制する傾向がある
そして、異質の考えや少数派の思想を、排除しがちになる。
権力にとって、異質の考え方の人がいると統治しにくくなるから、みんな同じ考え方の方が望ましいんだ。

それから、人が権力の場に長くとどまっていると、権力者自身の権力保持や拡大に向かって、国民個人の権利自由をないがしろになりがちだ。
そして、国あっての個人なんだ、安全が守られるには個人は我慢しなければならないとかといって、
国(権力を持つ者)や公を強調し、個人は犠牲になることをいいがちになる


そして、権力は、間違ったとしても、間違いを認めません。認めたがりません
何か間違ったとき行き過ぎたときに、それを認め、反省して、自分の力で修正するということは、なかなか難しいことなんだ。
別の第三者からのチェックは、どうしても必要だ。

キミ達が学校でならった権力分立、三権分立は、
権力を立法権、行政権、司法権と分散させて、相互に抑制と均衡、チェックアンドバランスを図ることで、権力が暴走して、個人の権利自由を侵害しないようにした仕組みなんだ。

歴史を眺めてみて、そして弁護士になってからの先生の刑事弁護等の体験からすると、権力にはどうしてもそのような傾向、性質が本来的にあるような気がする。

国家(=権力)は、一人ひとりの国民にとって、大切なもの、必要なものだけど、
歴史から導かれる本来的な性質から、時に暴走し、間違いを起こし、そしてそうなってしまうと強大な力があるがために、取り返しのつかない痛みを国民にもたらすことになる。

そしてかつて、国家(=権力)は暴走していまい、権力にとって気に入らない人を排除し、ひいては戦争につきすすみ、多くの人が大切な命、自由、財産を失うことになった

人々は、二度とこんな悲しい目にあいたくないと思った。

二度とこんなことにならないようにしたいと思った。

そんなことにならないように、憲法を定め、国家(=権力)に縛り(しばり)をかけています。
権力が、暴走して、国民の権利自由を踏みにじることがないよう、権力を分解し、国民がコントールできる仕組みをつくった

憲法は、「国家(=権力)を縛るもの」

おそらくキミにとっては、初めて聞く言葉だと思う。

あれ?憲法って、法律で一番えらくて、国民が守るべきこと、道徳みたいな、何か大雑把なことが書かれているんじゃないの?

そう思っていなかったかな?
いやいや、実は私自身、大学で憲法を学ぶ前は、そう思っていたんだ。
それまで、日本国憲法の三原則は何?の穴埋め問題や、三権分立がどうのこうのとはか知っていましたが・・・。

でも、憲法は、国民を縛ったり、ある行動を要求したりするのではなく、国家(=権力)を縛るものということが、実は憲法を理解する上での大切なポイントなんだよ!

時に間違え、行き過ぎてしまう国家(=権力)におまかせにするのではなく、放っておくのではなく、権力に縛りをかけること、国民がコントロールできるようにしておくことが、憲法の本質なんだ。

私は、憲法は、国民の権利自由を確保するために、国家(=権力)を縛る、制限する、コントールするものだということをはじめて知って、「え?そうなの?」と驚きました。

憲法って、国に国民の大切な自由や権利を守るよう、国家に向けられたもの。国家に守らせようとするものなのか!と。

そして、この憲法の意味を知って、日本国憲法を眺めてみると、
憲法というのは、権力の怖さ、個人の尊厳を踏みにじってしまった過去の失敗に、ほとほと懲りまくり、深く学び、それを理性でくい止めようとする世界や日本の人々の「苦心」や「決意」が見えてきて、感動した。

この憲法で国家を縛るという考え方を、「立憲主義」(りっけんしゅぎ)という

ちょっと堅苦しそうなとっつきにくそうな言葉だけど、民主主義と並んでとても大切な考え方なんだ。
では立憲主義は、前に話した民主主義と、どのような関係にたつのだろうか?

憲法の条文で、立憲主義の考え方は、どのように反映されているだろうか?


第4 民主主義と立憲主義-多数決できめていいこと、いけないこと

文字数制限があるため、この部分は割愛させていただきました。
具体的で簡潔な説明が書かれていますので、ぜひ本文をお読みください!
http://www.ayame-law.jp/article/14288064.html


第5 民主主義と立憲主義2-表現の自由がない世界

前回、クラス会を題材にして、多数決で決めていけないこともあるんだよ、という話をした。

では、スケールを大きくして、国の場合、国会の場合はどうだろう。
国会では、法律は国会議員の多数決によって決められているが、多数決で決めるのなら、どんな法律であっても定めてもいいのだろうか

例えば、こんな法律はどうだろう?

「国の政治を批判した人は刑務所に入れる」

こんな法律を、みんなによって選ばれた代表者(国会議員)が、多数決で決めてよいのだろうか、多数決でも決めてはいけないことだろうか?

国会議員は、国民の選挙で選ばれた代表者ですから、その人達が、話し合って多数決で決めることなら、それが国民の意思じゃないの、国民の多数にそうものだから、何でも法律で決めていいんじゃないの?

そう思う人もいるかも知れないね。

王様や将軍のような特定の人が、勝手に決めた法律は問題だけど、国民の選挙によって選ばれた人なら、自分たちが選んだ人が、話し合って多数決で決める以上は、問題ないんじゃないの「正しい」んじゃないの。それが民主主義というものなんじゃないの?

総理大臣や、政府の人が
「私達の政権運営を批判する人がいる。
私達がやっている政治は、国民のためにやっているのに、正しいのに、それを邪魔するのはけしからん。
私達の政治を批判する人は、国家・国民の利益を損なう人でもあるから、処罰して、批判させないようにしよう。
そうすれば、正しく美しい政治が円滑にすすむ」


だなんて考えて、こんな法律を国会で作ろうとしています。
国会では、総理大臣の政治に賛同し、「総理の考える政治の流れを止めていけない」「反対派は、邪魔者だ」「政治を批判するような少数派は、つべこべ言わず、政府の考えに従っていればいいのだ」と考えている国会議員が多数でした

多数決でどんな法律も決められるのなら、こんな法案も成立してしまうかも知れませんね。

どうだろう?こんな法律をつくってもいいのかな?

まずいよね。困るよね。

国の政治をおかしいなと思っても、批判することができなくなる。
表現することの自由が奪われることになる。
怖くて言いたいことが言えなくなる。
監視の目を気にして、冗談も言えなくなってしまう


「表現の自由」は、憲法の世界では、とても重要な自由、大切な基本的人権とされている

政治を批判することができない、政治を批判的に論じることができない世界って、どんな世界だろう。
国家がやることに批判ができず、従順に従い、褒め称えるしかない世界ってどんな世界だろう。

「それって、おかしいんじゃない?」って声を出すことができない世界。
「私は、政府のやり方より、こうした方がいい」と言えない世界。
一体どんな世界なんでしょう。
人々はどんな暮らしをしているのでしょう。

少し想像力を働かせてみましょう。

表現の自由のない世界って、どんな世界なんだろう?

テレビや新聞は、国の政治をほめたたえる報道しかしません。
政治や権力にとって不都合な事実は報道しません。
国会議員や公務員の不祥事なんて、明るみにでません。


だから、国民は、生活は苦しくても、不自由な暮らしを送っても、国の政治に問題があるとは思わない
もし思っていても、国の政治に問題があるなんて言えない

学校の先生も、国の政治は素晴らしいと、子どもたちに教育する(そういう人しか学校の先生になれませんし、学校にいられません)。

暮らしに不満があっても、それは自分とは違う考え方の人たちのせい、どこかの国のせいだと思うかも知れません。

一見、統一化、画一化かされ、統制がととのった見た目はきれいな感じになるかも知れないね。
見た目は美しい。
一致団結。
統制のとれた集団。
そこでは、多様性は否定される。
異質なものは排除される。
少数者の利益は無視される。

そんな流れになってきそうだ。

画一化された人々は、国家からの情報をもとに、国家を中心に、きれいにまとまっていくことだろう。
実は、一人ひとりの幸せや良心は置き去りにされたことに、気がつかないままに・・・。

自分で自分の幸せを追求することの感覚がマヒしていく。
「これが国民の幸せなんだから、こうしなさい」と、幸せを国が教えてくれるから、「そうなのかなあ」って思い込むことだろう。

画一化され、多様性が否定され、ベクトルの方向が一つにまとまった時、その方向へ、ぐんぐん進んでいく。
加速していく。
暴走していく。

国民の多くも、気分は盛り上がってくるだろう。
「正義は我らにあり!」とか、「平和のために、敵をやっつけよう!」なんて、勇ましい気分になってくるだろう。

国家(=権力)も、自由にものが言えない世界で、つくりあげられた国民の多数=世論に乗っかって、どんどん加速していく。

こうして、国家(=権力)が暴走してしまっても、誰も止めることはできないだろう。
暴走してしまっている時に、内心で、「あれ、ちょっとこれは違うんじゃないかな」「一体何のために、私達は、人を傷つけ、人から傷つけられたりしているのかな」と疑問に思っても、止められいだろう。


国民が、政治の批判も含めて、言いたいことを言える自由がなかったとしたら、とても怖い世界になりそうだね。

実際、戦争につきすすんだ昔の日本では、これと似たような法律があって、国の政治を批判した人達が捕まり、批判することがおさえつけらたんだ。

また、独裁国家では、これとにたような法律がある。
権力を掌握し、権力を維持、拡大する者にとっては、国民の「政治を批判すること」こそ苦々しいものはないからね。
従順にロボットのように従ってくれる国民こそ、「よい国民」だろう。

権力をもつ者は、その性質上、批判されるのが苦手なんだ。
できれば批判されたくない。
そんな世界では、一人ひとりの幸せは、大切にされない
多くの人と違うこと、多くの人の考えと違うことは、嫌がられる。「そんなのわがままだ。」と一蹴されそうだ。

みんなと同じ考え、みんなと同じ価値観、みんなと同じ好み、そうなるよう圧力がかかってくる
そしてみんな=国の考えとなっていく。

自分の幸せは自分で決め、求めていく。
自分のなりたい人になる。
好きなことを仕事にする。
やりたいことをやる。
そして、自分の良心に従って生きる。

そんなことは夢物語になるのかも知れないね。

かつて、言いたいことがいえないことがあり、それで戦争につきすすんでしまった、戦争で多くの人々が悲惨な目にあったことをふまえて、日本国憲法は「表現の自由」を大切な人権として、定めた

憲法第21条
集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。


先に、国家(=権力)はとても大切なものであるが、間違ったり、暴走して、国民個人の自由や権利を侵害してしまうものなので、憲法で、国家=権力を縛る、コントロールするという話をした。

国家(=権力)を縛るという意味で、表現の自由は、とても重要な意味をもっているんだ。

国の政治や、総理や国会議員の発言について、ありのままに報道し、国民に情報を与えること。
そして、国民が国の政治について意見を言い、「これはまずい」「こうした方がいい」と言えること。
こうしてはじめて、国民が、国家=権力をコントロールすることが可能になってくる

国家からの一方通行ではなく、国家と国民の双方通行が成り立つ。

国家(=権力)の間違いや行き過ぎに、ブレーキをかけることが可能になってくるんだ。

そして、表現の自由は、民主主義を支える自由として大切なんだ。

みんなが言いたいことが言える、批判したりできることで、話し合いの場で、いろいろな意見がでてくる。
多数派の人だけでなく、少数派の人も、どうしてそう考えるのか、自分の意見を言うことができる。
少数派の人の意見を聞くことで、多数派の人の意見も変わるかもしれない。
また、少数派の人の意見をふまえた、ルールを作ることができるかもしれない。

言いたいことを言える自由、表現の自由があってこそ、「みんなのことは、みんなで話し合って決める」という民主主義が実現される。

みんなが自由に意見が言えない状況で、安易に多数決で決めるというのでは、本当の民主主義は実現されない

表現の自由は、こんなにも大切な人権だから、憲法は、国家(=権力)に対して「これは、大切な人権だから、侵害してはダメですよ。守りなさいよ。」と縛りをかけているんだ。

憲法は、
「あなた(国家=権力)は、放っておくと、すぐ人々の表現の自由を制約しがちで、実際にも昔、言論を抑圧して、人々がとんでもない目になったことがあるでしょ。だから特に気をつけなさいよ!」と、国家に、この表現の自由を「侵害しちゃダメだよ!」と縛りをかけて
いるんだね。

国家は、法律を作るときに、国民の表現の自由を侵害する法律を作ることは、許されない。
もし間違ってそんな作ってしまっても、「無効」とすると憲法は、国家を縛っている。


それは、国民一人ひとりの表現の自由を守るために
そして、国民一人ひとりの存在を大切にするために

ですから、「国の政治を批判した人は刑務所に入れる」というような法律を、国会で作ってはいけません。
憲法に違反することになります。



第6 民主主義と立憲主義3-どちらも個人の尊厳をまもるために

法律は、国民から選挙で選ばれた国会議員によって、議論され、多数決によってきまるもので、民主的な基盤がそこにある。

そんな民主的な基盤があっても、民主主義にそっていても、
「国の政治を批判した人を刑務所に入れる」というような、表現の自由を侵害するような法律は決めてはいけない、多数決でも決められない
ということだった。

憲法は、この「表現の自由は大切なものだから、国家は制限してはいけないよ!」と、国家に縛りをかけているんだね。

国家に縛りをかけるという考え方を立憲主義といいますが、国民の代表者からなる国会で、多数決で決められないこともあるということは、立憲主義が民主主義を制限しているという関係に立つといえそうだ。

民主主義の目的は、国民一人ひとりを大切にするために、みんなの意見を反映させるということでしたが、
いろいろな人がいて、どうしても多数派と少数派と別れてしまうこともありえます。

そして、多数決の場面で、多数派の意思にもとづいて、国家や団体の意思決定がなされることになります。

そんな時、特定の少数の人に、一方的な不利益を与えてしまうかも知れません。
負担を押しつけてしまうかも知れません。

多数派の人は、往々にして、少数派の気持ちは分からないものです。

そして、気持ちが分からないまま、多数決によって、少数者の人の大切な自由を奪ってしまうかも知れません。

ナチスドイツのヒトラーって知っているかな。
ユダヤ人の大虐殺とか、他国の侵略をした独裁者だね。

ヒトラーは、突然独裁者になったわけではなく、国民の大多数の指示を受けて、権力者の地位につき、その政策を推し進めました
民主主義にのっかっていたわけなんだ。

でも、あのように、自国民も他国の人にも、大きな犠牲がでる結果となった

民主主義は絶対ではない
それだけでは間違ってしまうこともある
そして、間違ってしまったとき、大変悲惨な結果も起こりうる。

そんなことがないように、憲法は、多数決でも奪ってはいけない人権のリストをかかげた
表現の自由、信教の自由等の人権は、人が人として生きていくのに大切なものだから、多数決=法律でも、侵害することを決めてはいけないことにした
民主主義に制限をかけた

憲法は、民主的な基盤をもつ国家(=権力)に対しても、「この権利、自由は、人権、つまり人が人として生きていくために大切なものだから、侵害しないように注意せよ」と縛りをかけているのだね。

そうすることによって、時に、多数決によって侵害されることもある個人、特に少数者の人権を守ろうとしている

キミは、「民主主義」って聞くと、正しいもの、いいもの、間違いないものって感じがしないかな?

「民意」とか「世論」というのはどうだろう?
それには当然従わなくちゃいけないって感じにならないかな?

でも、与えられた情報とか、なんとなくといったムードとかで、「あの国(あの団体)感じ悪い、怖い、気に入らない」といったような雰囲気が生まれ、多数意見が形成される可能性は否定できないだろう。

そして、ナチスドイツや、戦争につきすすんだ過去の日本の経験も踏まえて、「民主主義は絶対ではない」としたところに、憲法の大きな意味があるんだ。

おそらく、「民主主義=正義、絶対」となりがちなところだと思うので、実は、そうではないんだ、限界もあるんだということを是非知っておいて欲しい

日本国憲法の究極的な目的は、個人の尊重(個人の尊厳)、つまり一人ひとりをかけがえのない存在として、個人として大切にすること、にある

憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。
生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


では、個人の尊重を確保するために、どうすればよいか?

歴史上、個人の尊重を踏みにじってしまったのは、国家(=権力)だった。

国家(=権力)は、安全を確保したり、社会秩序を維持したり、人と人との自由を調整したり、国民一人ひとりにとって大切なもので、必要なものだ。

だけれども、国家(=権力)は、その性質上、強大な権限、強制力があり、また強くなろう、大きくなろう、批判されたくないといった性質があるために、
歴史上、間違ったり、行き過ぎたりして、個人の尊重を踏みにじってしまったこともあった
んだ。

いや、本当のところは、現在もいろいろなところで、間違い行き過ぎは起きているのだろう。
例えば、無実の人が刑務所に入れられてしまうという「えん罪事件」はまだ起きている。

だから、憲法は、国家(=権力)に対して向けられている

国家(=権力)が、一人ひとりの個人の尊重を害さないように、国家が奪えない権利自由を人権のリストとして、憲法に掲げているのだね。

立憲主義は、民主主義を制限するものということだが、他方で、立憲主義と民主主義は、いずれも、個人の尊重確保のためのものといえる

つまり民主主義は、国家権力自体を、国民の意思が反映され、国民がコントロールできるようなシステム、権力に民意を反映するシステムによって、権力による人権侵害をおさえようとしている

国民自らが、権力について、影響を与え、批判を加え、権力側に参加する道もあるということで、自らの権利自由を制限しないようなルールをつくっていけることになる。

王様のような特定の人が決めるのと、国民の選挙によって選ばれた代表者が話し合って決めるのとでは、どちらが国民個人の権利や自由にとって、よい法律が作られるかどうかを考えてみると分かるだろう。

少数派の人達も、議論の中で自分の意見をいい、多数派の人達も少数派の人達の意見をよく聞くことで、
個人の尊重、少数者の人権を無視するような法律やルールを作ることを、一定限度は防ぐことができる
だろう。

この点で、民主主義は、立憲主義と相携えながら、車の両輪のように、個人の尊重確保を支えていると言える。

それに、前回、お話しましたが、表現の自由は、民主主義を支えるものなんだ。
自由な情報の流通があり、国政への批判も含めて、自由に話し合いができるからこそ、民主主義が維持できる

だから、表現の自由をふくめた、人として大切な権利・自由をまもろうとする立憲主義は、民主主義を支えるという関係にも立つのだね。

まとめると

「立憲主義は民主主義を支え、しかし、時に制限する。そして、立憲主義と民主主義は、ともに個人の尊重をまもるための車の両輪である」
ということなんだ。


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