まだ米国に移住して間もない頃、夫はそれまでの人生で初めて会社員になった。
それと同時に、夫と息子たちそしてわたしの4人家族の生活が始まってから8年ぶりに、一寸先の暮らしの心配をしなくても良くなった(まあそれも1年半ぐらいで終わってしまったのだけど…)。
けれどもだからといってゆとりは無く、ウイリアムズ・ソノマなどという高級台所用品店の老舗には到底入っていくことはできなかった。
ある日、新聞の片隅に、「ウイリアムズ・ソノマ大出血セール!」の広告が掲載されていて、そこに水切りラックが半額に!という文句と写真が載っていた。
わたしたちが引っ越した家は100歳を超える古いお屋敷で、一階の全てをわたしたちが、二階には大家さん夫婦が、そして三階には別の家族が暮らしていたのだけど、アメリカの家にしては珍しく食器洗い機が付いていなかった。
なので水切りラックを適当に買ったのだけど、育ち盛りの息子たちと夫とわたしの4人家族には十分でなく、できたらステンレスのしっかりした物が欲しいと思っていた。
そこに目に入ってきたその水切りラックは、見るからにがっしりとしていて使い勝手が良さそうだった。
でもなあ、半額でも45ドルっていうのはなあ…。
悩みに悩んで決心して、それまで外から眺めていただけのお店に入って行って、そのラックだけを抱えて戻ってきた。
それから早22年。
引っ越した一軒家も前の借家とどっこいどっこいの年齢で、しかも1階の台所は40年以上も使われていなかったので、当然食器洗い機も付いていなかった。
よくよく食器洗い機とは縁の無い人間なのだ。
さて、この、極めて頑丈で使い勝手が良く、22年間年中無休で役立ってくれている水切りラックを使うときの、わたしだけの決まりについて少し。
いや、そんなことはどーでもよいと思う方は読み飛ばしてください。
まず上段から、お皿や大きめのボールや丼や鍋などを置く。
それらからの水滴が収まってから、下段にコップや茶碗などの小物を置く。
新たに食器を洗う際には、ラックを完全に空にする。
などなど、しょうもない事なのだけどこだわりがある。
わたしにとって台所は、そういう小さくてどうでもいいようなこだわりが、そこらじゅうに息を潜めている部屋だ。
だから自分以外の人が使っているのを見ると、うぅ〜っとなることが多々あるのだけど、そこはもう他人との共生ベテランとしてのわきまえが一応備わっているので、上手に見て見ぬふりをする。
あと、洗濯物を干す時やたたむ時にも、わたしはわたしだけの決まりに従ってやる。
そして作業がすっきりと終わったら、鼻から小さな笑いを吹き、ささやかな満足感にひたる。
22年前のこの水切りラックはもうウイリアムズ・ソノマでは売っていない。
同じようなものをいくら探しても見つからない。
よく見るとあちこち傷だらけだし、小さな部品は無くなったけど、もしかしたら一生一緒に暮らせる相棒になるかもしれない。
そう考えるとあの時、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで払った45ドルだったけど、めちゃくちゃ買い得だったなと思う。
ありがとう、うちに来てくれて。