現代陶芸とは何かという定義から入りたい処ですが、これが諸説あって決める事が出来ませんので、
ここでは、定義付けはしない事にします。
現代陶芸に対するものは、伝統陶芸と成りますが、その区分けも色々の説があり、時代区分による
もの、作品の種類によるもの、社会情勢による区分け等、色々な区分け方が存在する様です。
1) 幕末の焼き物を取り巻く情勢。
有田、九谷、京都、瀬戸、鹿児島(薩摩)などの窯場では、染付けや色絵の陶磁器等が、各藩の
産業殖産として、企業化に取り組み始めていました。
その背景にあるものは、幕府の開港により、諸外国の人々の来日であり、東洋的異国趣味として、
お土産品や輸出品(貿易品)として、販売される様になった事が挙げられます。
① 外国人の好む色や作品に対応する。
外国人の好む色調や、食器類の厳しい規格に対応するには、従来の方法では対処出来なく
なって行きます。その為、海外から新しい近代的な窯業技法が、取り入れる必要が出てきます。
② 清水卯三郎が西洋の進歩した窯業技術を持ち帰る。
パリ万国博覧会(慶応三年、1867年)を見学した江戸の商人「瑞穂屋(みずほや)」の卯三郎は、
明治元年(1868年)の帰国の際、石膏型による製作方法(主に鋳込み製法)や、染付けの
天然呉須に替わる人工の酸化コバルトや、我が国に無かった各種の顔料を持ち帰ります。
これらを竹本要齋や、服部杏圃(きょうほ)に与え研究を行います。
③ この事を聞きつけた、佐賀藩ではドイツの化学者、「ワグネス博士」を招聘します。
明治元年に来日していた、「ゴットフリー・ワグネス博士」を招き、化学顔料や、石膏型の
使用方法、石炭窯の構築や焼成方法を学びます。更に、彼は石灰釉や、色釉の研究を指導し、
必要な材料を、輸入する方法も伝授します。
尚「ワグネス博士」は、その後、京都に設置された「舎密局」で、陶磁器や染織などの
材料や化学的研究の為、招かれています。
④ この様な技術も、廃藩置県(明治四年、1871年)により、秘密であった藩窯の技術が、各地の
窯場に広く拡散して行きます。瀬戸でもこれまで中国から輸入していた天然呉須から、
ドイツから輸入された酸化コバルトを使う様に成ります。(明治六年頃の話です。)
2) オーストリア・ウイーン万国博覧会(明治六年、1873年)
大熊重信参議を総裁として、「ウイーン万国博覧会」に参画します。(当時の予算で60万円)
① 明治政府が、国威発揚、殖産興業、輸出振興を奨励する為、積極的に参加したものと思われます。
② この博覧会で、日本の工芸品は好評を得ます。
特に、初代宮川香山、三代清風与平の作品は名声を得ます。宮川香山は名誉金碑を受賞します。
この功績により二人は帝室技芸員に、推挙されます。
尚、この二人については、後日詳細をお話する予定です。
以下次回に続きます。
ここでは、定義付けはしない事にします。
現代陶芸に対するものは、伝統陶芸と成りますが、その区分けも色々の説があり、時代区分による
もの、作品の種類によるもの、社会情勢による区分け等、色々な区分け方が存在する様です。
1) 幕末の焼き物を取り巻く情勢。
有田、九谷、京都、瀬戸、鹿児島(薩摩)などの窯場では、染付けや色絵の陶磁器等が、各藩の
産業殖産として、企業化に取り組み始めていました。
その背景にあるものは、幕府の開港により、諸外国の人々の来日であり、東洋的異国趣味として、
お土産品や輸出品(貿易品)として、販売される様になった事が挙げられます。
① 外国人の好む色や作品に対応する。
外国人の好む色調や、食器類の厳しい規格に対応するには、従来の方法では対処出来なく
なって行きます。その為、海外から新しい近代的な窯業技法が、取り入れる必要が出てきます。
② 清水卯三郎が西洋の進歩した窯業技術を持ち帰る。
パリ万国博覧会(慶応三年、1867年)を見学した江戸の商人「瑞穂屋(みずほや)」の卯三郎は、
明治元年(1868年)の帰国の際、石膏型による製作方法(主に鋳込み製法)や、染付けの
天然呉須に替わる人工の酸化コバルトや、我が国に無かった各種の顔料を持ち帰ります。
これらを竹本要齋や、服部杏圃(きょうほ)に与え研究を行います。
③ この事を聞きつけた、佐賀藩ではドイツの化学者、「ワグネス博士」を招聘します。
明治元年に来日していた、「ゴットフリー・ワグネス博士」を招き、化学顔料や、石膏型の
使用方法、石炭窯の構築や焼成方法を学びます。更に、彼は石灰釉や、色釉の研究を指導し、
必要な材料を、輸入する方法も伝授します。
尚「ワグネス博士」は、その後、京都に設置された「舎密局」で、陶磁器や染織などの
材料や化学的研究の為、招かれています。
④ この様な技術も、廃藩置県(明治四年、1871年)により、秘密であった藩窯の技術が、各地の
窯場に広く拡散して行きます。瀬戸でもこれまで中国から輸入していた天然呉須から、
ドイツから輸入された酸化コバルトを使う様に成ります。(明治六年頃の話です。)
2) オーストリア・ウイーン万国博覧会(明治六年、1873年)
大熊重信参議を総裁として、「ウイーン万国博覧会」に参画します。(当時の予算で60万円)
① 明治政府が、国威発揚、殖産興業、輸出振興を奨励する為、積極的に参加したものと思われます。
② この博覧会で、日本の工芸品は好評を得ます。
特に、初代宮川香山、三代清風与平の作品は名声を得ます。宮川香山は名誉金碑を受賞します。
この功績により二人は帝室技芸員に、推挙されます。
尚、この二人については、後日詳細をお話する予定です。
以下次回に続きます。