土の味を大事にし、手造りにより土が持つ温かみを引き出し、独自の表現方法を作り出した瀬戸の
陶芸家に、「加藤」氏がいます。
1) 加藤(かとう しょう): 1927年(昭和2 )~ 2001年(平成13 )享年 74 歳
① 経歴
) 愛知県瀬戸市西窯町で、陶芸家の第二十代加藤丈助の長男として生まれます。
注: 丈助の名前は瀬戸赤津では古くから続く、由緒ある家系との事です。
茶陶を主な作品として、量産品も取り扱う工場主でもあります。
) 瀬戸窯業学校(現、窯業高校)を卒業後、東京工業大学専門部窯業科を卒業します。
卒業後瀬戸に帰ると、「窯屋」の跡取りにも係らず、陶芸作家を目指します。
当時の瀬戸では、轆轤師などの職人による伝統的な、茶碗や花器類などの高級陶器が生産
されており、他の窯場の様に、若い世代が芸術的な陶芸の模索と努力を試みる雰囲気が
有りました。彼はその様な時代に巡り合わせたとも言えます。
) 1961年 日展に初入選を果たします。それまで八回連続して落選しています。
彼の作品が日展に合わなかった為と言われています。そこで先輩の瀬戸の日展作家の
青木青々や河本五郎氏の助言を得て、日展に相応しい作品に仕上げ、入選を果たしたと
彼自身が語っています。初入選後は連続して入選を果たします。
「見た目の綺麗な作品でないと、当時の日展じゃダメだったということです」と述べています。
) 1963年 第一回朝日陶芸展で通産大臣賞を受賞し、翌年には、日展で特選と北斗賞を
受賞します。その後、日展審査員、日展会員、評議員を歴任し、日展を中心に活躍します。
② 加藤の陶芸
) 彼の作品は、紐造り、板造り(タタラ)の技法が採られ、轆轤による作品は見受けられません。
) その為、タタラによる器形は、板を張り合わせる箱型の作品や、角柱、円柱状の物が
多いです。その他の方法として、大きな土の塊の中央をえぐり出して空洞を作り、形に
仕上げる技法も採られています。
) 伝統的な釉である織部釉を使わず、独自の蒼釉(そうゆう)を作りだします。
緑又は青銅釉状の色彩で、酸化鉄とコバルトを混ぜて不透明な青緑色を作りだしました。
即ち、コバルトは青色を、鉄は褐色を呈しますので、混ざり合うと、青緑色に成ります。
先ず上記蒼釉を器に塗り、次いで木灰による灰釉を上から掛けて焼成します。灰釉薬は
熔けて透明になり、下に青緑色が発色します。
) 釉彩(ゆうさい)と名付けた作品があります。
「釉彩花器・雲海」(1963年) 日展特選、北斗賞 瀬戸市役所蔵、「釉彩花器・稜」(1964年)
京都国立近代美術館蔵 などの作品です。いずれも一塊の土をえぐり出して造っている
様な作品です。釉彩とは一つの器の上下に、別々の釉が掛けられています。
上部には、白釉(透明釉)が下部には、蒼釉が掛けられ、中間部は混ざり合って、雲が
たなびく様な表現になっています。
) 白釉刻文(はくゆうこくもん)。
土には、酸化鉄などを加えやや褐色の色が出る様にして、白との陰影を醸し出しています。
生乾きの作品に、竹箆(たけへら)を使い引っ掻いたり、櫛目を押し当て、線文や
刻文を付けます。更に白化粧土で化粧し長石釉で焼成した作品です。
白化粧土は、アルミナを含んだ蝋石を砕き、泥に混ぜたもので、これを吹き掛けしています。
長石釉は線刻文(花模様と線)が鈍らない様に、薄く掛けています。
) 「うどん」状の紐を、作品の上部や内側、周辺に大量に貼り付けた作品も、作られる様に
なります。更に、金泥を吹き付けた作品も作られています。
主な作品に、「白のシリーズ」(1978年) 「白い装い」(1978)、「白釉金彩花器・春光」
(1983)、「白釉金彩鳥刻文器」(1983)、「金彩蝶文箱」(1983)などが有ります。
彼の作品は、土本来の「土味」での表現を重視し、手捻りによる造りで、土の温かみが感じられる
作品と成っています。
次回(西川實)に続きます。
陶芸家に、「加藤」氏がいます。
1) 加藤(かとう しょう): 1927年(昭和2 )~ 2001年(平成13 )享年 74 歳
① 経歴
) 愛知県瀬戸市西窯町で、陶芸家の第二十代加藤丈助の長男として生まれます。
注: 丈助の名前は瀬戸赤津では古くから続く、由緒ある家系との事です。
茶陶を主な作品として、量産品も取り扱う工場主でもあります。
) 瀬戸窯業学校(現、窯業高校)を卒業後、東京工業大学専門部窯業科を卒業します。
卒業後瀬戸に帰ると、「窯屋」の跡取りにも係らず、陶芸作家を目指します。
当時の瀬戸では、轆轤師などの職人による伝統的な、茶碗や花器類などの高級陶器が生産
されており、他の窯場の様に、若い世代が芸術的な陶芸の模索と努力を試みる雰囲気が
有りました。彼はその様な時代に巡り合わせたとも言えます。
) 1961年 日展に初入選を果たします。それまで八回連続して落選しています。
彼の作品が日展に合わなかった為と言われています。そこで先輩の瀬戸の日展作家の
青木青々や河本五郎氏の助言を得て、日展に相応しい作品に仕上げ、入選を果たしたと
彼自身が語っています。初入選後は連続して入選を果たします。
「見た目の綺麗な作品でないと、当時の日展じゃダメだったということです」と述べています。
) 1963年 第一回朝日陶芸展で通産大臣賞を受賞し、翌年には、日展で特選と北斗賞を
受賞します。その後、日展審査員、日展会員、評議員を歴任し、日展を中心に活躍します。
② 加藤の陶芸
) 彼の作品は、紐造り、板造り(タタラ)の技法が採られ、轆轤による作品は見受けられません。
) その為、タタラによる器形は、板を張り合わせる箱型の作品や、角柱、円柱状の物が
多いです。その他の方法として、大きな土の塊の中央をえぐり出して空洞を作り、形に
仕上げる技法も採られています。
) 伝統的な釉である織部釉を使わず、独自の蒼釉(そうゆう)を作りだします。
緑又は青銅釉状の色彩で、酸化鉄とコバルトを混ぜて不透明な青緑色を作りだしました。
即ち、コバルトは青色を、鉄は褐色を呈しますので、混ざり合うと、青緑色に成ります。
先ず上記蒼釉を器に塗り、次いで木灰による灰釉を上から掛けて焼成します。灰釉薬は
熔けて透明になり、下に青緑色が発色します。
) 釉彩(ゆうさい)と名付けた作品があります。
「釉彩花器・雲海」(1963年) 日展特選、北斗賞 瀬戸市役所蔵、「釉彩花器・稜」(1964年)
京都国立近代美術館蔵 などの作品です。いずれも一塊の土をえぐり出して造っている
様な作品です。釉彩とは一つの器の上下に、別々の釉が掛けられています。
上部には、白釉(透明釉)が下部には、蒼釉が掛けられ、中間部は混ざり合って、雲が
たなびく様な表現になっています。
) 白釉刻文(はくゆうこくもん)。
土には、酸化鉄などを加えやや褐色の色が出る様にして、白との陰影を醸し出しています。
生乾きの作品に、竹箆(たけへら)を使い引っ掻いたり、櫛目を押し当て、線文や
刻文を付けます。更に白化粧土で化粧し長石釉で焼成した作品です。
白化粧土は、アルミナを含んだ蝋石を砕き、泥に混ぜたもので、これを吹き掛けしています。
長石釉は線刻文(花模様と線)が鈍らない様に、薄く掛けています。
) 「うどん」状の紐を、作品の上部や内側、周辺に大量に貼り付けた作品も、作られる様に
なります。更に、金泥を吹き付けた作品も作られています。
主な作品に、「白のシリーズ」(1978年) 「白い装い」(1978)、「白釉金彩花器・春光」
(1983)、「白釉金彩鳥刻文器」(1983)、「金彩蝶文箱」(1983)などが有ります。
彼の作品は、土本来の「土味」での表現を重視し、手捻りによる造りで、土の温かみが感じられる
作品と成っています。
次回(西川實)に続きます。
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