わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸 262 俵萠子(五十の手習い)3

2015-09-03 15:02:56 | 現代陶芸と工芸家達
俵萠子(たわら もえこ): 昭和5年(1930年)12月7日 ~ 平成20年(2008年)11月27日

1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。

2) 念願の弟子入り。(以上が前回までお話した事です。)

3) 各地の工房を訪問し、工房の作り方を研究する。

 ① 最初は赤城の自宅の居間で、新聞紙を敷いて作品を作っていましたが、部屋が汚れる事が

   問題となります。

 ② 狭い庭に三畳程の工房(市販のサンルームを利用、80万円との事です)を作り、小さな

   洗い場と念願の電動轆轤と、より大きめの窯を購入します。ここまでで150万円程かかった

   との事です。冬場にはお湯が必要と実感し、給湯器も備えなければ成りませんでした。

   「焼き物にお金がかかるのではない。焼き物をする場所と設備に金がかかる」事を悟ります。

 ③ 更に良い工房を充実させる為、講演の為各地を旅行した際には、各地の工房を訪問し工房の

   作りや環境等を見て周ります。工房訪問が趣味となり、「工房評論家」になろうとする程に

   なります。

4) 1990年、銀座三越で初の個展を開催する。

  1992年、群馬県高崎スズランデパートで個展を開催。以後個展多数。

  個展を開催しようと思い立ったのは、陶芸の師匠である、熊本高田焼の窯元の酒井雅女氏から

  「売れる様な焼き物を作りなさい」と言われた事も大きく関係している様です。

  売れる作品を意識する様になると、陶芸の技術も「メキメキ」と上達したと述べています。

  一般に、ほとんど無名な陶芸家が、有名なデパートで個展を開く事は不可能です。

  勿論、俵さんは、著名人ではありますが、陶芸家としては、ほとんど無名な方ですので、銀座

  三越で個展を開催できたのは、有力者の紹介があった為と思われます。

  尚、高崎は地元ですので、地元デパートでの個展開催は、他人の力を借りなくても、スムーズ

  に行ったと思われます。

  1995年、「がんばれ!阪神ー俵萠子展」 阪神大震災チャリチー個展開催。

  七日間の入場者数は、2千人との事でした。
  

5) 1991年、陶芸教室をオープンする。

  地域お越しと、陶芸の楽しさを人々に伝え様と思い、陶芸教室を開催する事にします。

  募集を掛けた処、辺鄙な土地柄にも関わらす、予想に反し数百人の応募があったそうです。

  当時は焼き物が大変なブームであった事と、俵さんが有名人で有った事も大きく関係している

  かもしれません。その中から数十名の人を選択し生徒にします。選に漏れた方は、空き待ちの

  状態でした。当初予定した部屋では、入りきれず新たな部屋を建てる事にもなります。

  数十人の生徒と十人程度のスタッフを抱え、陶芸教室は順調に発展して行きます。

  窯も三つ持つようになります。

6) 1995年、俵萠子美術館オープン:館長を務める。

  ご自分の美術館を持つ事は、若い頃からの夢であった様です。勿論、ご自分の作った作品を

  展示したり、作品を販売する事も行っています。尚、個展などで販売する場合、その会場に

  支払う、マージンが意外に高く(数十%)、それを作品に上乗せする為、販売価格が高くなって

  しまう事にも、不満が有ったようです。現地販売する事で少しでも安く作品を提供したいと、

  思っていました。美術館は、当初予定していた陶芸教室を利用する事にします。

7) 赤城山の麓に工房と美術館を持ち、色々なイベントを執り行い、陶芸三昧の晩年でしたが

  2008年11月末、死去(病死)されます。それに伴い、美術館と陶芸工房は閉館する事になります。

  俵さんの代表的た作品は、原点である葉皿です。その他師匠が象嵌の作品を得意にしていました

  ので、その技術を生かした、象嵌の作品も代表的な作品になっています。

以上にて、俵萠子さんの話を終わります。
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