俵萠子(たわら もえこ): 昭和5年(1930年)12月7日 ~ 平成20年(2008年)11月27日
1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。
2) 念願の弟子入り。(以上が前回までお話した事です。)
3) 各地の工房を訪問し、工房の作り方を研究する。
① 最初は赤城の自宅の居間で、新聞紙を敷いて作品を作っていましたが、部屋が汚れる事が
問題となります。
② 狭い庭に三畳程の工房(市販のサンルームを利用、80万円との事です)を作り、小さな
洗い場と念願の電動轆轤と、より大きめの窯を購入します。ここまでで150万円程かかった
との事です。冬場にはお湯が必要と実感し、給湯器も備えなければ成りませんでした。
「焼き物にお金がかかるのではない。焼き物をする場所と設備に金がかかる」事を悟ります。
③ 更に良い工房を充実させる為、講演の為各地を旅行した際には、各地の工房を訪問し工房の
作りや環境等を見て周ります。工房訪問が趣味となり、「工房評論家」になろうとする程に
なります。
4) 1990年、銀座三越で初の個展を開催する。
1992年、群馬県高崎スズランデパートで個展を開催。以後個展多数。
個展を開催しようと思い立ったのは、陶芸の師匠である、熊本高田焼の窯元の酒井雅女氏から
「売れる様な焼き物を作りなさい」と言われた事も大きく関係している様です。
売れる作品を意識する様になると、陶芸の技術も「メキメキ」と上達したと述べています。
一般に、ほとんど無名な陶芸家が、有名なデパートで個展を開く事は不可能です。
勿論、俵さんは、著名人ではありますが、陶芸家としては、ほとんど無名な方ですので、銀座
三越で個展を開催できたのは、有力者の紹介があった為と思われます。
尚、高崎は地元ですので、地元デパートでの個展開催は、他人の力を借りなくても、スムーズ
に行ったと思われます。
1995年、「がんばれ!阪神ー俵萠子展」 阪神大震災チャリチー個展開催。
七日間の入場者数は、2千人との事でした。
5) 1991年、陶芸教室をオープンする。
地域お越しと、陶芸の楽しさを人々に伝え様と思い、陶芸教室を開催する事にします。
募集を掛けた処、辺鄙な土地柄にも関わらす、予想に反し数百人の応募があったそうです。
当時は焼き物が大変なブームであった事と、俵さんが有名人で有った事も大きく関係している
かもしれません。その中から数十名の人を選択し生徒にします。選に漏れた方は、空き待ちの
状態でした。当初予定した部屋では、入りきれず新たな部屋を建てる事にもなります。
数十人の生徒と十人程度のスタッフを抱え、陶芸教室は順調に発展して行きます。
窯も三つ持つようになります。
6) 1995年、俵萠子美術館オープン:館長を務める。
ご自分の美術館を持つ事は、若い頃からの夢であった様です。勿論、ご自分の作った作品を
展示したり、作品を販売する事も行っています。尚、個展などで販売する場合、その会場に
支払う、マージンが意外に高く(数十%)、それを作品に上乗せする為、販売価格が高くなって
しまう事にも、不満が有ったようです。現地販売する事で少しでも安く作品を提供したいと、
思っていました。美術館は、当初予定していた陶芸教室を利用する事にします。
7) 赤城山の麓に工房と美術館を持ち、色々なイベントを執り行い、陶芸三昧の晩年でしたが
2008年11月末、死去(病死)されます。それに伴い、美術館と陶芸工房は閉館する事になります。
俵さんの代表的た作品は、原点である葉皿です。その他師匠が象嵌の作品を得意にしていました
ので、その技術を生かした、象嵌の作品も代表的な作品になっています。
以上にて、俵萠子さんの話を終わります。
1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。
2) 念願の弟子入り。(以上が前回までお話した事です。)
3) 各地の工房を訪問し、工房の作り方を研究する。
① 最初は赤城の自宅の居間で、新聞紙を敷いて作品を作っていましたが、部屋が汚れる事が
問題となります。
② 狭い庭に三畳程の工房(市販のサンルームを利用、80万円との事です)を作り、小さな
洗い場と念願の電動轆轤と、より大きめの窯を購入します。ここまでで150万円程かかった
との事です。冬場にはお湯が必要と実感し、給湯器も備えなければ成りませんでした。
「焼き物にお金がかかるのではない。焼き物をする場所と設備に金がかかる」事を悟ります。
③ 更に良い工房を充実させる為、講演の為各地を旅行した際には、各地の工房を訪問し工房の
作りや環境等を見て周ります。工房訪問が趣味となり、「工房評論家」になろうとする程に
なります。
4) 1990年、銀座三越で初の個展を開催する。
1992年、群馬県高崎スズランデパートで個展を開催。以後個展多数。
個展を開催しようと思い立ったのは、陶芸の師匠である、熊本高田焼の窯元の酒井雅女氏から
「売れる様な焼き物を作りなさい」と言われた事も大きく関係している様です。
売れる作品を意識する様になると、陶芸の技術も「メキメキ」と上達したと述べています。
一般に、ほとんど無名な陶芸家が、有名なデパートで個展を開く事は不可能です。
勿論、俵さんは、著名人ではありますが、陶芸家としては、ほとんど無名な方ですので、銀座
三越で個展を開催できたのは、有力者の紹介があった為と思われます。
尚、高崎は地元ですので、地元デパートでの個展開催は、他人の力を借りなくても、スムーズ
に行ったと思われます。
1995年、「がんばれ!阪神ー俵萠子展」 阪神大震災チャリチー個展開催。
七日間の入場者数は、2千人との事でした。
5) 1991年、陶芸教室をオープンする。
地域お越しと、陶芸の楽しさを人々に伝え様と思い、陶芸教室を開催する事にします。
募集を掛けた処、辺鄙な土地柄にも関わらす、予想に反し数百人の応募があったそうです。
当時は焼き物が大変なブームであった事と、俵さんが有名人で有った事も大きく関係している
かもしれません。その中から数十名の人を選択し生徒にします。選に漏れた方は、空き待ちの
状態でした。当初予定した部屋では、入りきれず新たな部屋を建てる事にもなります。
数十人の生徒と十人程度のスタッフを抱え、陶芸教室は順調に発展して行きます。
窯も三つ持つようになります。
6) 1995年、俵萠子美術館オープン:館長を務める。
ご自分の美術館を持つ事は、若い頃からの夢であった様です。勿論、ご自分の作った作品を
展示したり、作品を販売する事も行っています。尚、個展などで販売する場合、その会場に
支払う、マージンが意外に高く(数十%)、それを作品に上乗せする為、販売価格が高くなって
しまう事にも、不満が有ったようです。現地販売する事で少しでも安く作品を提供したいと、
思っていました。美術館は、当初予定していた陶芸教室を利用する事にします。
7) 赤城山の麓に工房と美術館を持ち、色々なイベントを執り行い、陶芸三昧の晩年でしたが
2008年11月末、死去(病死)されます。それに伴い、美術館と陶芸工房は閉館する事になります。
俵さんの代表的た作品は、原点である葉皿です。その他師匠が象嵌の作品を得意にしていました
ので、その技術を生かした、象嵌の作品も代表的な作品になっています。
以上にて、俵萠子さんの話を終わります。
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