愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

末森城(2) 名古屋市千種区

2021年02月13日 11時44分46秒 | 名古屋市千種区
年金者組合ニュースの原稿づくりのため、末森城に行きました。
以前にも記事を掲載していますので、(2)というわけです。
リンク過去の末盛城の記事

ネットで、江戸時代の絵図を見つけました。

江戸時代の末盛城絵図

これをもとに白地図を作ってみました。

末森城白地図

やはり、圧巻は本丸、二の丸南側の空堀でした。高さは、7~8mということですが、それ以上に感じました。

二の丸南側の空堀から二の丸を見上げた時の景色(白地図③)

この堀が、駐車場の南側、東側に掘られ、最後は地上に上がり、駐車場と八幡神社を結ぶ通りになっていました。

神社の西側にも堀が掘られ、あたかも馬出であるかのような錯覚を覚えました。

神社西側の堀(白地図④)

末森城は織田信秀によって造られましたが、その堀の強固さから本格的なものだと感じました。
また、八幡神社の境内に三日月掘が江戸時代の絵図にあり、馬出が設けられていました。境内の西の堀も三日月堀の片割れとも考えられ、二重の馬出の構造になっています。そうだとすれば、この城が後に改修された可能性があり、それは小牧・長久手の戦いでの徳川家康ではないかという説もあります。
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末森城 名古屋市千種区

2015年01月18日 16時08分37秒 | 名古屋市千種区
絶好のいい天気。太平洋側は快晴です。日本海側や東北、北海道地方は雪が降っていると思われます。大変申し訳なく思いますが、今日は風もあまりなく穏やかな日でした。

ということで、史跡めぐりをしました。今日は末森城です。

去る程に、備後殿、古渡の城破却され、末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。
(「信長公記」巻主)


天文17年(1548年)、備後殿(織田信秀=織田信長のお父さん)は、古渡の城を破却し、ここに移りました。信秀の居城です。
案内板では、「守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのため」だそうです。その頃の三河は今川氏が勢力を張っていたようです。織田信秀は、天文21年(1552年)にこの城で病死し、三男の信行がこの城の城主となったそうです。しかし、信行は、稲生原の合戦で信長に敗れ、永禄元年(1558年)清須城で謀殺されたそうです。

城山八幡宮
末森城址は、街の中にあります。したがって、あまり遺構は残っていないだろうなあと思って出かけました。しかし、以外にもしっかり残っていました。(案内板によると、八幡宮の境内になって保護されたためとありました。)

末森城正面(南から)といっても、城山八幡宮の鳥居と木が見えるだけですが・・・


末森城概要図(「愛知の山城ベスト50」より)


南から入っていくと、鳥居が見えました。これは、二の鳥居です。
Ⅰ郭は、駐車場でした。

Ⅱ郭(八幡宮本殿)
駐車場を進んでいくと、城山八幡宮の本殿があります。今日は日曜日とあって、お参りに来ている人がたくさんいました。中には、昨年のお札やお守りを持参している方も見えました。初詣?


この本殿の参道辺りに丸馬出が存在していたらしいです。城山八幡宮のホームページに蓬左文庫の古城絵図が掲載されていて、それを見ると見事な馬出が描かれていました。

埋められた空堀(概要図A)
Ⅰ郭とⅡ郭の土橋の両側に空掘が本当はあるはずでしたが、一部埋め立てられていました。写真上部の常夜灯の見える辺りがⅠ郭とⅡ郭をつなぐ土橋のあったところです。

反対側の空掘も一部分埋め立てられていました。何か事故でもあったのでしょうか。遺構がなくなるのは、残念です。

馬出状Ⅳ郭
本殿西側にはⅣ郭があり、「愛知の山城ベスト50」では「丸馬出状の」という説明つきで紹介されていました。

なにやらブルーシートの山がありましたが、その向こうには深い堀がありました。

空掘(概要図B)
Ⅲ郭およびⅡ郭の南側には大きな空掘がありました。空掘りの中を歩けるようになっていましたので、しばらく散策を試みました。空掘りからⅠ郭を見上げてみましたが、大変急勾配で、これでは登り切れないなと実感することができました。





Ⅲ郭
Ⅲ郭は「旧昭和塾堂」という建物が建っていました。


都会の中の城址ということでしたが、堀の跡が特にしっかり残されていて、その迫力に感動しました。
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