愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

堀内貝塚と周辺の古墳 安城市

2019年07月30日 17時17分07秒 | 安城市
堀内貝塚
目先を変えて、大昔の遺跡を回りました。7月12日でした。縄文時代晩期の貝塚です。堀内貝塚といいます。堀内貝塚は、愛知県のほぼ中央にあります。おそらく、この辺は海が近くにあったのだろうと思われます。

堀内貝塚の位置(Yahoo地図より)


堀内貝塚の碑

堀内貝塚は、なんと昭和2年から発掘調査が行われているそうです。この貝塚からは、アサリ、アカニシ、ハマグリ、マガキ、ハイガイ、オキシジミなどの貝が見つかっているそうです。どの貝も海水性です。堀内貝塚が海に面していたことはここからもうかがえます。

貝塚からでた貝殻(現地案内板から)

またここから出土した土器は、「桜井式」として基準の土器になっているそうです。

桜井式土器

他に、お墓の跡(土坑墓)、土器のお棺(子供用)、骨だけのお墓(遺体をいったん埋葬した後、骨だけを取り出して再び埋葬したお墓)などが出土したようです。おそらく、貝塚とお墓が何代もの間に交代して使われていたのでしょう。ということは、ここに縄文人が定住していたのでしょう。特に海の幸が豊富にある地域なので、可能だったのだと思われます。

古墳群
また、この貝塚の周りにいくつかの古墳もありました。この地域に縄文時代、弥生時代を通して人が住んで活動していたことが分かります。古墳があることから、貧富の差があり、富める豪族とそれを支える人々がいたのだろうと推測できます。

堀内貝塚の周囲の古墳(Google地図より作成)

今回見学できた古墳は西から
堀内古墳(天満山古墳)(形)円墳(?)(築造時期)?     (被埋葬者)
碧海山古墳      (形)円墳  (築造時期)古墳時代前半(被埋葬者)?
山伏塚        (形)円墳  (築造時期)8世紀   (被埋葬者)野田熊勝
比蘇山古墳 場所が分からず


堀内古墳 中央の小山で天満社になっています。


山伏塚 山伏野田熊勝の墓と伝えられています。


碧海山古墳 碧海という地名の元になったと言われています。

高縄城 豊橋市

2019年07月16日 12時29分11秒 | 豊橋市
7月5日、豊橋市の高縄城に行きました。

高縄上の位置(Yahoo地図より作成)

高縄城は、豊橋市と田原市の境目辺りにあります。昔は海に面した場所にありました。そこで、別名を大津城とも言います。

高縄城の築城者戸田宗光
高縄城は、東三河海沿いの戦国時代を彩る武将戸田宗光によって造られたそうです。はじめ、戸田宗光は、上野城(現在豊田市上郷町)に居住していましたが、文明7年(1475)高縄城に進出してきました。しかし、文明11年には田原の方に移り、文明13年、田原城を築いて、そこを本拠地としました。

戸田宗光は、その後今川氏親と共に、今橋城(現吉田城)の牧野古白を攻めたりしています。また、今川家の人質松平竹千代を織田に売ったという戸田康光の曽祖父になります。(なお、この説には異論もあります)

家政高等専修学校
高縄城は、現在高校になっています。豊橋市立家政高等専修学校といいます。わたしは、こういう学科というか、コースのある高等学校を初めて知りました。将来調理師やデザイナーを目指す人やおそらく家庭に入られる人のための学校だと思います。

家政高等専修学校の正面

この学校の写真でいえば、右側と奥の左側に遺構がありました。

三河渥美 大津(広島城「浅野文庫諸国古城之図の世界」より)

高縄城の遺構
古城之図で、中央の本丸は現在高校の校舎、北の腰曲輪、西の土塁(古城之図では「ドイ」)が残っていました。


校舎北の藪の中の土塁、堀

北の藪は、竹や小さな木が繁殖していて、うまく見えませんでした。冬に来るべきだと思いました。

西の方には、大きな土塁がありました。これは、大変立派なものでした。写真の左側は堀切のようになっていました。

西の土塁


土塁の端の堀切状の遺構(写真左側が土塁、写真右側は小高い山のようになっていて、その先は高校の校舎)

その小高い山のような遺構の上から見ますと町や田んぼが見下ろせ、遠くには堤防のようなものがみえました。

城からの眺望

大津から老津へ
さて、老津という現在の地名は、明治時代につけられたようです。それまでは、大津という地名でした。由来は紫式部の「老津島 島守る神や 諫むらん 波もさはがめ 童べの浦」にちなむそうです。(ウィキペディア)私は、てっきり近くに老津島という島があり、紫式部がこの地でその老津島を見て作った和歌なのかと思いました。
しかし、よく調べると、老津島は「奥津島であり、近江八幡市の大島奥津島神社、または琵琶湖の沖島と推測される。」(ウィキペディア)とあり、滋賀県の島のようです。

大津という伝統的な名前をあえて老津と改称した明治時代の人はどんなことを考えて、地名の変更をしたのか不思議に思いました。

国吉城 本丸 福井県美浜町

2019年07月08日 11時46分32秒 | 福井県
狭くなった石垣づくりの堀切
国吉城の石垣について学習した後には、本丸に上がりました。その途中に堀切がありました。

本丸と腰曲輪の間の堀切

前回見たときは、たくさんの石仏が使ってあることに驚きましたが、今回分かったことは、この堀切、はじめはもっと幅が広かったというのです。石垣で造った段階で、内側に石垣を造ったため、幅が狭くなったというのです。では、なぜ狭くなるのに、石垣づくりにしたかといえば、やはり「見せる」城として機能したからだろうとおっしゃっていました。
武器としての石仏
なお、この石仏については、城主が宗教を蔑ろにしているということではなく、もう誰も祀っていないような石仏を使っているとのことでした。また、石垣として使用したほかに、上から敵に投げつけるために持ってあげられたという可能性もあるとおっしゃっていました。

鏡石
次に本丸の虎口ですが、立派な石垣づくりの枡形のものだったそうです。しかも、大きな石(鏡石)があるので、ここは、非常時の時だけでなく、日常的に客をもてなすときにも使用していたのではないかとおっしゃっていました。

本丸虎口の鏡石

天守閣があった?
さらに本丸については、ここに天守閣があったのではないかともおっしゃっていました。その台になった場所が南隅櫓台です。ここから土台の石(礎石)を抜き取った跡が見つかり、隅櫓台のまわりに石垣とみられる石が散らばっていることから、ここに天守閣のようなシンボル的建物があったのではないかとおっしゃっていました。

南隅櫓台 人が立っている所

このあと、本丸東虎口やⅡ郭の方に行きましたが、雨がひどくなってきたので、下山することになりました。

特別講師の萩原さんや「城主」と呼ばれていた館長の大野さんのお話を聞きながら、この国吉城を見学しましたが、豊臣政権下のお城という性格をはっきり見ることができ、この城に対するイメージががらっと変わりました。見学に来てよかったと思いました。

国吉城見学 おしまい


本丸からの石垣 福井県美浜町

2019年07月05日 05時43分18秒 | 福井県
二の丸をさらに登っていくと、いよいよ本丸です。本丸に到着するまでに大きな石が斜面にありました。

本丸からの斜面にみえた石

これらの石は、どうやら石垣を造った時の石だったようです。

石垣の角の石組

上記写真の石の位置 青い矢印がさす部分

これらの石垣は、城下町を意識して作られたそうです。

石垣の斜面

上の写真で本丸は頂上です。本丸からの斜面は、2段から3段になっていますが、ここに石垣を組み、城下町から見上げると一つの面となって高石垣のように見えたのではないかと館長はおっしゃっていました。いわゆる「権威の象徴としての石垣」です。このような石垣づくりは、豊臣時代、徳川時代になってからのもので、木村氏、京極氏の時に造られたのではないかともおっしゃっていました。

国吉城 二の丸 福井県美浜町

2019年07月04日 06時25分01秒 | 福井県
ふもとの居館跡はさらっと見て、いよいよ山城です。


山城めざして登る参加者の皆さん

難所の急こう配を過ぎると二の丸が見えました。


二の丸の食い違い虎口 左の人は、萩原さん

ここで、食い違い虎口の説明や土塁の説明がありました。
館長からは、「今までの登城道だと、この二の丸を通過しないで本丸に行ってしまう。実際の登城道は、二の丸を通っていたのではないかと考えられる」と説明されました。そして、二の丸の下に腰曲輪があるので、そこを通って来たのではないかと話していただきました。


二の丸の南側斜面