愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

近藤景春のお墓

2023年02月16日 05時48分07秒 | 東郷町
近藤景春のお墓
沓掛城の北東ほぼ3キロメートルのところに「東郷製作所」があり、その裏山(天神山)に近藤景春のお墓があります。



近藤景春のお墓

近藤景春は討死をしました。
沓掛城はその後桶狭間の戦いで功績のあったとされる簗田出羽守政綱が城主となりました(甫庵「信長記」等)。里村紹巴「富士見道記」では永禄10年に紹巴と簗田父子が酒を酌み交わしたという記述があります。しかし、「松平記」では桶狭間の戦いと簗田が城主となる間に「織田玄蕃」という武将が沓掛城に住み、岡崎衆(松平元康)と「せり合った」との記述があります。
それらを総合すると、近藤景春の後は、織田玄蕃、簗田出羽守政綱、そして沓掛城の現地案内板にある織田信照、川口宗勝へと受け継がれ、1600年ごろ廃城となったようです。
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諸輪(もろわ)城 東郷町

2018年03月31日 14時02分42秒 | 東郷町
世の中はすっかり桜の季節になりました。

近くの神社の桜(3月26日撮影)

3月31日、東郷町に出かけました。
諸輪(もろわ)城です。
諸輪城は北、中、南の3つの城があったそうです。

諸輪北城
丹羽氏識(うじさと)の隠居後のお城だそうです。
丹羽氏識は、小牧・長久手の戦いで徳川家康側について、豊臣秀吉軍と戦った丹羽氏次・氏重兄弟のおじいさんに当たります。丹羽氏識は、岩崎城の城主でした。当時から徳川家康側についていて、織田信長と対立していました。しかし、織田信長と徳川家康が同盟を結んだ後に、隠居してこの地に来たそうです。

丹羽氏系図(抄)ウィキペディアより作成

横山の戦い
さて、この丹羽氏識には、叔従父丹羽氏秀との戦いがありました。丹羽氏の本家争いです。当時藤島城に居た叔従父の丹羽氏秀は、織田信長に味方していて、徳川家康に味方していた丹羽氏識を倒そうとしたそうです。織田信長は、丹羽氏識のいる岩崎城を目指して攻めてきましたが、丹羽氏識・息子の氏勝は横山のあたりに待ち伏せして、織田信長の軍を散々な目に合わせたそうです。織田信長軍は、今の赤池から平針の方面へ逃げ散ったそうです。また、丹羽氏秀は豊田の広美のほうに去ったそうです。
この戦いは、丹羽氏の記録「丹羽氏軍功録」にはありますが、「信長公記」にはないそうです。織田信長にとって負け戦なので書かれなかったのだろうということです。
(「岩崎城だより」 NO3 館長の話 より)

藤島城
ついでなので藤島城にも行ってきました。

藤島城跡の石碑

石碑をじろじろ眺めていましたら、地域の方に話しかけられました。そしていろいろと教えていただきました、「この石碑は、お屋敷の南端で北側にもっと大きな屋敷が広がっていた。藤島というのはもともとは福井のほうから来たと言われている。福井にも藤島城というのがある。織田氏が福井から来た時に、この城の人も一緒に来たのではないか。」
というものでした。この城の丹羽氏秀が織田方に与していたことと話が合います。福井に藤島という地名があることも間違いないことです。(有名な藤島高校もあります)おじさんの話に大変興味を持ちました。

上城保育園
話を戻して
諸輪北城は、現在は上城保育園だそうです。

上城保育園

桜が満開でした。上城というのは、おそらくここに城があったということから付けられたのではないかと思います。上というのは、上市の上だと思います。というのは、3つ城に呼応するかのように北城に上市、中条に中市、南城に下市という集落があるのです。なので、上市の上と北城の城を合わせて「上城」となったのではないでしょうか。あくまでも想像ですが。

上城保育園は写真のように階段で登っていくほどの高台にあり、城があったことの痕跡が残っていました。

諸輪中城
次に中城があったという清安寺に行きました。中城も丹羽氏識の隠居後のお城のようです。

清安寺 残念ながら本堂は工事中で足場と青いシートでおおわれていました。

この寺は「道休山 清安寺」と言います。道休というのは、丹羽氏識が隠居した時の名前です。これにちなんで道休山というそうです。痕跡はないかとぐるっと歩いて回りましたが、見つかりませんでした。

諸輪南城
最後は南城があったという尾三消防署です。
諸輪南城は、丹羽氏ではなく柘植道昌という人が築城したようです。今は尾三消防署です。

尾三消防署
コメント (8)
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愛知池 東郷町

2015年09月22日 07時07分35秒 | 東郷町

愛知池

愛知池は人工池
せっかくのお休み。ドライブにでも出かけましょう、ということで、愛知牧場に行くことにしました。
どうせ行くなら、近くに史跡はないかと探したところ、愛知池がありました。
愛知池は愛知県では結構大きな池です。昔愛知県で国体が行われたときにボート競技の会場になったような気がします。私は、てっきり自然の池だと思っていたのですが、改めて調べますと、人工の池ということが分かりました。

愛知用水の概要図(「水資源機構 愛知用水総合管理所」HPより)

愛知用水の調整池
愛知池は、愛知県尾張地域東部を流れる「愛知用水」の調整池だったのです。つまり、愛知用水に水を出したり、止めたりするための池であったのです。昭和32年(1957年)から用水の工事が始まり、昭和36年(1961年)に完成しました。

この池の周りに、その工事に関係する石碑があるというので見てみました。

愛知池の碑(後ろに愛知池の基本データが記載されていました)


感謝の碑(愛知用水に感謝する受益者の碑です)


竣工の碑(昭和37年春となっていました。翌年竣工式を行ったようです)

愛知県には、他にも明治用水や枝下用水など灌漑用の用水が明治時代以降多くつくられています。それぞれ訪ねて見たいと思いました。
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祐福寺一里塚 東郷町

2015年03月16日 12時27分19秒 | 東郷町
パンフレット「あいちの史跡」
どこの博物館だったか忘れてしまいましたが、博物館のパンフレットコーナーに「あいちの史跡」というものがありました。発行が「愛知県史跡整備市町村協議会」というところです。パンフレットの裏表紙に簡単な説明がありました。

愛知県史跡整備市町村協議会は、史跡・名勝・天然記念物等の文化財の保護・保存及び活用を目的として平成3年に発足し、現在は県内36市町村にて構成しています。

パンフレット(22ページで、62の史跡が紹介されています)

灯台下暗し
そのなかに「祐福寺一里塚」が記載されていました。場所は私が職場と自宅を何回となく往復した道の脇でした。以前名古屋市八事の興正寺の五重塔を見落としていたことを書きましたが、今回も同じ思いです。

だいたい一里塚は主要街道にあるもので、愛知県ならば、東海道や中仙道などに限られていると勝手に決め込んでいたことも手伝っています。この祐福寺一里塚は、平針街道(姫街道)沿いにあります。平針街道とは、岡崎から名古屋に行くときの裏街道だったのです。現在の県道56号線です。


南北両方残っている一里塚
この一里塚は、北と南の両方ありました。東海道のほうは両方残っている一里塚はめずらしいので、こんな近くに両方残っている一里塚があるとは驚きでした。

北側の一里塚にあった石碑

北側の一里塚の全景

「余の木」が「榎」に
石碑の後には木が一本ありました。説明板によれば「榎」だそうです。説明板に「榎」についておもしろい話しが紹介されていました。

江戸時代に一里塚の木をどんな木にするか議論をしたそうですが、なかなか決まらず、将軍に決めてもらおうと相談を持ちかけたところ、「余の木(よのき)がいい」といったそうです。それを家臣たちが聞き間違えて、榎(えのき)になったそうです。おもしろいですね。

南側の一里塚

近くに東郷町のバス「じゅんかい君」のバス停がありましたが、ズバリ「一里塚」という名のバス停でした。

平針は宿場町だった
この祐福寺一里塚は、平針から4.9キロメートルです。(飯田街道との交差点から、一里塚まで)つまり、平針を起点として一里と考えることができます。平針は、むかしは平針宿という宿場町だったらしいです。一応それらしきところを歩いてみましたが、宿の跡らしきものは分かりませんでした。しかし、ネットで、平針に宿を作るために「郷の島」に住んでいた百姓を移転させ、宿場町を作ったとありました。
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