愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上ノ郷城見学会

2024年04月21日 08時40分43秒 | 蒲郡市
お久しぶりです。
4月20日(土)上ノ郷城の見学会を実施しました。
総勢9名で和気あいあいと巡りました。

お城は高台にあり、そこから三河湾が見え三河湾に浮かぶ島々や遠くに渥美半島を望むことができました。
お城の見学は短くて済みましたので、近くの公民館に行きました。西部公民館と言い、上ノ郷城の模型を見せて頂いたり、DVD上映もしていただけました。

本丸から三河湾を望む

丹野城(3)御堂山頂上 蒲郡市

2019年11月03日 05時36分04秒 | 蒲郡市

丹野城は、下のような感じでした。

丹野城スケッチ

特に西側の堀切は見ごたえがありました。

丹野城西側堀切、北から撮影

さらにこの堀切の向こう側に石積みの跡がありました。

堀切の石積み

この城ができたのは1469年なので、応仁の乱が始まったばかり、戦国時代が始まったばかりの頃です。その時代にこの363mの山の頂上に石積みが造ってあるのは、すごいと思いました。堀切に石積みということで、若狭国吉城を思い出しました。

この堀切を降りると、そこに標識があり、堀切に向かって左側は住居跡という表示でした。「えっ、ここに住んでたの?」こんな高いところに人が住んでいたとは驚きでした。


堀切にあった標識


住居跡の腰曲輪

堀切から左(北側)に広い平らな区域があり、腰曲輪のようですが、人が住んでいたようです。

そして南側の高まりの壁に石積みの跡のようなものが見られました。


石積みの跡

改めて石碑の銘文を読むと驚愕の内容が書かれていました。
「城郭は山陵を利用した高さ4メートル程の土塁が南東に伸び本丸跡もこの土塁に添って東側に巾約8メートル長さ約50メートルの平地の中にあり、土塁の中央部附近には石積や監視通路が現存する」
土塁は見当たりませんし、平地は腰曲輪状に北側にあります。土塁中央部に石積や監視通路が現存すると言っているので、南側の高まりは曲輪(本丸)ではなく、土塁なのでしょうか。どういうことなのか、さらに検討したいと思います。

丹野城 おしまい

丹野城(2)砥神山から御堂山へ 蒲郡市

2019年11月02日 05時31分13秒 | 蒲郡市
砥神山からの絶景を眺めた後は、御堂山に向かって進んで行きます。砥神山から、御堂山のふもと(キャンプ場)までは、尾根線上に登山コースがあり、わりと楽な道でした。途中、潮見展望台があり、そこで休憩をしました。

潮見展望台からの眺め 間近に見えるのが砥神山

しばらく歩いていますと、ようやく右手にキャンプ場が見えてきました。ここまでくれば、あと一息です。

キャンプ場から見る御堂山

このキャンプ場の近くに御堂山(丹野城)への登り口があります。

御堂山(丹野城)への登り口

この御堂山(丹野城)も結構険しい道でした。急こう配で、特に最後に急峻な石段があり、へとへとでした。しかし、そういう人を励ますかのように石仏がいたる所に鎮座し、見守ってくれていました。

御堂山(丹野城)頂上近くの石仏

やっと丹野城に着きました。眺めは最高です。

丹野城からの眺め

丹野城 つづく

丹野城(1)砥神山(とがみやま) 蒲郡市

2019年11月01日 06時51分15秒 | 蒲郡市
10月28日、丹野城に登りました。丹野城は、御堂山の頂上にあります。御堂山は登ったことがありませんので、ネットで登り方を調べました。すると、近くの砥神山を経由して御堂山に至るルートが紹介されていました。山登りのコースとしてちょうどいいと思い、このコースで丹野城を目指すことにしました。

砥神山、御堂山(丹野城)登山コース(国土地理院地図より作成)

丹野城については、面白いお話がありました。
「文明元年(1469)備後州の剌史(しし)、萩原芳信が全福寺(礎石が現在市指定史跡)の資産を取り掠め山頂に拠って城郭を築き、あるところの仏器を融して兵器となす」全福寺の僧徒を動員して構築した山城である。その後萩原芳信が備後林(現御津町赤根)で死亡してから全福寺とともに荒廃した
<昭和49年3月7日指定 蒲郡市教育委員会>

※刺史とは、国司のことで唐風の呼び名です。

御堂山ふもとの掲示板

これは、御堂山のふもとにあった案内板の説明です。頂上の石碑(平成6年、1994、相良町西共有)にはもう少し詳しく解説があり、萩原芳信が死亡したのは、翌年(文明2年、1470)で、牛久保の牧野氏が攻めてきたことで死亡し、しかもネットでは、家来の寝返りによって死亡したということらしいのです。なんとも、かわいそうな武将でした。

御堂山頂上の石碑


ふもとのファミマから見た砥神山

ここからちょっと登ったところに砥神山の登山口があります。

登山口

右側の山道を登っていきます。途中、面白い石がありました。

亀石


カエル石

しかし、陽気な石とは裏腹に登山は大変でした。特に急な石段が続き、休み休みでした。

砥神山山頂(行者尊像)

やっと頂上につきました。眺めも最高でした。

砥神山山頂からの眺め

丹野城 つづく

蒲形(かまがた)城 蒲郡市

2019年10月19日 19時22分25秒 | 蒲郡市
10月16日、蒲郡市の蒲形城に行きました。蒲形城は、別名下ノ郷城とも言います。以前上之郷城に行ったことがありますが、その上之郷城の分家みたいな感じです。天文年間(1532~55)に鵜殿長在(ながあり)が居住したそうです。

鵜殿家の系図 

蒲形城には、下郷鵜殿家が居住しました。長龍の時家康の関東移封があり、下郷鵜殿家も関東に行きました。その後、深溝松平の松平忠利が入った後、竹谷松平清昌が、この城の東に陣屋を構え、明治まで続いたようです。

三河宝飯 蒲形(諸国古城の図より)

黒い太線で囲まれた形が蒲形城です。図の右側のやや色の濃い部分が陣屋の部分です。


蒲郡高校

蒲形城・陣屋は、今は蒲郡高校になっています。この高校の南の方に土塁が残っているとのことでしたので、さっそく探しました。

土塁跡の目印の鳥居

目印は、この赤い鳥居の神社です。竹島神社というそうで、お稲荷さんでした。


蒲形城土塁跡のスケッチ


土塁跡の北端


スケッチの右側の土塁跡


スケッチ左側の小さい土塁と右側の大きな土塁

この土塁跡は、はたして蒲形城のものなのか、陣屋のものなのか、よく分かりません。しかし、ここに土塁があるということは、この近くに城が確かにあったということが分かりました。

さらに陣屋の大手門の復元があるということで、蒲郡市博物館に行きました。

陣屋大手門の復元 外から


陣屋大手門の復元 中から

いわゆる高麗門というそうです。