松平記第2回目は、一揆の勃発と同時に反家康として一揆勢にくみした武将たちについてです。
一揆勢にくみする武将たち
吉良東条義昭
一 吉良東条義昭<1>は、一度は家康と和談をしたが、今度は一揆たちと一緒になったので、また敵となった。東条の城に入り、家康に対して反抗してきた。
荒川義広
荒川甲斐守殿義広<2>は、はじめは味方であったので、西尾の城を任せていた。家康への忠節のおかげで家康の妹婿になっていた。しかし、義昭にすすめらて、これまた敵になってしまった。
桜井松平氏
桜井の松平監物家次<3>も敵となり、
上野城酒井将監忠尚
上野の城主酒井将監忠尚<4>は、岡崎松平家の家臣の一人の大名であるのに、これも一揆の味方となって、敵となった。
東三河には長沢(宝飯郡)と五井(宝飯郡)より東は駿河の勢力の強いところである。
家康側の武将たち
竹の谷、形原、深溝の松平家、西尾酒井雅楽助
岡崎の勢力は、竹谷(たけのや・宝飯郡)の城の松平玄蕃頭清善(げんばのかみ きよよし)<5>、形の原(宝飯郡)に松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)<6>、深溝の松平主殿助伊忠(とのものすけ これただ)<7>が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺、東三河(?)両三人衆の敵に挟まれて昼夜相戦っている。西尾城には酒井雅楽助(うたのすけ)が在城して、野寺荒川(甲斐守義広)と戦っている。
土居の本多、藤井の松平
本多豊後守<8>は土居に在城し、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺に向かって合戦をしている。松平勘四郎<9>、同じく右京亮<10>は、野寺(本証寺)、桜井(松平監物家次)と昼夜戦っている。
岡崎の南は、土呂、針崎まで一里(約4キロメートル)に近く、南西は野寺(本證寺)、佐々木(上宮寺)、桜井(松平監物家次)までは1里あり、北面には上野城があり、そこまでは1里半ある。東は長沢より駿府まで敵である。野寺(本證寺)より一揆は起こったけれども、岡崎からは遠く、佐々木(上宮寺)、桜井を隔てている。
佐々木、野寺にこもる一揆勢の武将たち
大津半右衛門、犬塚甚左衛門、同八兵衛、同又内、同善兵衛、五味三右衛門、中川太左衛門、牧吉蔵、倉地平右衛門、小谷甚左衛門、太田善太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田弥太夫、同彦六郎、安藤冶右衛門、矢田作十郎、戸田三郎右衛門そのほか侍百余騎が佐々木(上宮寺)、野寺(本證寺)の寺内に籠もった。
家康にねがえる戸田三郎右衛門
ただし戸田三郎右衛門は、意に反して家康のとがめを受けたので、一揆どもにそそのかされたが、家康に忠義を返して寺内を焼きたてて、家康の兵を引き入れようと合図を試みた。しかし、それはかなわず、外のくるわを焼き、早々に寺内から出たので、やがて家康はとがめたことを許すようになった。
注
<1> 吉良東条義昭 今川氏の猛攻によって捕らえられ、駿府に抑留された吉良義安の弟。義昭は今川氏への隷属を強いられようやく家名を語ることを許される存在だった。ところが、桶狭間の戦いで今川氏が敗れると今川氏の影響が少なくなり、今度は今川氏から独立した松平家康との戦いとなった。家康との戦いにも敗れ降伏したが、一向一揆が起こると一揆勢にくみし家康と戦った。東条とは、西条に対するもので、吉良義安以前の吉良氏が矢作古川の東西に分かれて西(西条、西尾)と東(東条、西尾市吉良町駮馬〈まだらめ〉字城山)で抗争していたことから来る。
<2> 荒川甲斐守義広 吉良氏の一族。東条城主吉良持清の次男として生まれる。吉良氏は兄の持広が継いだので、義広は独立し荒川姓を名乗った。永禄4年(1561年)家康の吉良東条義昭攻めに協力し、そのことで家康の腹違いの妹市場姫を娶ることになった。しかし、一向一揆では吉良義昭とともに一揆側につき、家康と戦った。
<3> 桜井の松平監物家次 まつだいらきんもついえつぐ。桜井の松平家は家次の祖父の信定の代に宗家争いに敗れて、宗家(松平広忠)から分かれて桜井松平家を創設した。しかし、宗家に対する敵対的姿勢は変わらず、今川氏の敗北の後に家康が一向一揆と対立すると、一揆側につき家康に対抗した。
<4> 酒井将監忠尚 さかいしょうかんただなお。家康の家臣。独立心が強く、しばしば家康から離反したらしい。居城の上野城は、豊田市上郷町にあった。
<5> 松平玄蕃頭清善 まつだいらげんばのかみきよよし。松平信光の子ども松平守家を始祖とする竹谷松平家の4代目。竹谷は、現在の蒲郡市竹谷町。桶狭間の戦いで今川義元が敗れたため、それまでの今川氏帰属から松平宗家信康に属するようになった。そのために、今川氏によって人質の娘(妻?)を殺されている。永禄5年、鵜殿氏の上ノ郷城を攻めている。
<6> 松平紀伊守 まつだいらきいのかみ。松平家忠。形原松平家の5代目。当初今川家に帰属し、弟の左近を人質としていた。しかし桶狭間の戦いで義元が討たれると松平信康につき、人質左近は殺害された。
<7> 松平主殿助伊忠 まつだいら とのものすけ これただ。深溝松平家の3代目。深溝城。
<8> 本多豊後守 本多広孝。ほんだ ひろたか。本多家は代々松平宗家の譜代として仕える。桶狭間の戦いの後は、永禄4年(1561年)に東条吉良氏と藤波畷の戦いで、吉良義昭の家臣富永忠元を討ち、劣勢だった松平軍を立て直した。三河一向一揆はこの戦いの後に発生している。
<9> 松平勘四郎 松平信一の通称。松平信一は藤井松平家の2代目。藤井松平家は三河国碧海郡藤井を領した。松平利長の子。天文八年生。天文十八年、三河安城攻めで初陣を果たす。永禄六年、三河一向一揆征伐では藤井城が敵の拠点である本証寺に近いため、攻撃の中核となった。三河一向一揆との合戦で左股を鉄炮で撃たれた。一揆勢は敵将に銃弾が当たった事で歓喜の声を挙げたが、松平信一は怯むことなく敵陣に切り込んでいった。家康はその戦功を大いに賞賛したといわれている。
<10> 右京亮 福釜(ふかま)松平家3代目、松平親俊(まつだいら ちかとし)。福釜松平氏は現在の安城市福釜町を領したことから福釜松平家と称する。
<11> 戸田三郎右衛門忠次 家康の古くからの家臣。三河一向一揆のときはちょっとしたことで家康から離反したようである。それで、はじめは一揆側についていたが、一揆側から家康と内通しているのではないかと思われるのが嫌で、一揆勢に反旗を翻したらしい。
一揆勢にくみする武将たち
吉良東条義昭
一 吉良東条義昭<1>は、一度は家康と和談をしたが、今度は一揆たちと一緒になったので、また敵となった。東条の城に入り、家康に対して反抗してきた。
荒川義広
荒川甲斐守殿義広<2>は、はじめは味方であったので、西尾の城を任せていた。家康への忠節のおかげで家康の妹婿になっていた。しかし、義昭にすすめらて、これまた敵になってしまった。
桜井松平氏
桜井の松平監物家次<3>も敵となり、
上野城酒井将監忠尚
上野の城主酒井将監忠尚<4>は、岡崎松平家の家臣の一人の大名であるのに、これも一揆の味方となって、敵となった。
東三河には長沢(宝飯郡)と五井(宝飯郡)より東は駿河の勢力の強いところである。
家康側の武将たち
竹の谷、形原、深溝の松平家、西尾酒井雅楽助
岡崎の勢力は、竹谷(たけのや・宝飯郡)の城の松平玄蕃頭清善(げんばのかみ きよよし)<5>、形の原(宝飯郡)に松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)<6>、深溝の松平主殿助伊忠(とのものすけ これただ)<7>が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺、東三河(?)両三人衆の敵に挟まれて昼夜相戦っている。西尾城には酒井雅楽助(うたのすけ)が在城して、野寺荒川(甲斐守義広)と戦っている。
土居の本多、藤井の松平
本多豊後守<8>は土居に在城し、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺に向かって合戦をしている。松平勘四郎<9>、同じく右京亮<10>は、野寺(本証寺)、桜井(松平監物家次)と昼夜戦っている。
岡崎の南は、土呂、針崎まで一里(約4キロメートル)に近く、南西は野寺(本證寺)、佐々木(上宮寺)、桜井(松平監物家次)までは1里あり、北面には上野城があり、そこまでは1里半ある。東は長沢より駿府まで敵である。野寺(本證寺)より一揆は起こったけれども、岡崎からは遠く、佐々木(上宮寺)、桜井を隔てている。
佐々木、野寺にこもる一揆勢の武将たち
大津半右衛門、犬塚甚左衛門、同八兵衛、同又内、同善兵衛、五味三右衛門、中川太左衛門、牧吉蔵、倉地平右衛門、小谷甚左衛門、太田善太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田弥太夫、同彦六郎、安藤冶右衛門、矢田作十郎、戸田三郎右衛門そのほか侍百余騎が佐々木(上宮寺)、野寺(本證寺)の寺内に籠もった。
家康にねがえる戸田三郎右衛門
ただし戸田三郎右衛門は、意に反して家康のとがめを受けたので、一揆どもにそそのかされたが、家康に忠義を返して寺内を焼きたてて、家康の兵を引き入れようと合図を試みた。しかし、それはかなわず、外のくるわを焼き、早々に寺内から出たので、やがて家康はとがめたことを許すようになった。
注
<1> 吉良東条義昭 今川氏の猛攻によって捕らえられ、駿府に抑留された吉良義安の弟。義昭は今川氏への隷属を強いられようやく家名を語ることを許される存在だった。ところが、桶狭間の戦いで今川氏が敗れると今川氏の影響が少なくなり、今度は今川氏から独立した松平家康との戦いとなった。家康との戦いにも敗れ降伏したが、一向一揆が起こると一揆勢にくみし家康と戦った。東条とは、西条に対するもので、吉良義安以前の吉良氏が矢作古川の東西に分かれて西(西条、西尾)と東(東条、西尾市吉良町駮馬〈まだらめ〉字城山)で抗争していたことから来る。
<2> 荒川甲斐守義広 吉良氏の一族。東条城主吉良持清の次男として生まれる。吉良氏は兄の持広が継いだので、義広は独立し荒川姓を名乗った。永禄4年(1561年)家康の吉良東条義昭攻めに協力し、そのことで家康の腹違いの妹市場姫を娶ることになった。しかし、一向一揆では吉良義昭とともに一揆側につき、家康と戦った。
<3> 桜井の松平監物家次 まつだいらきんもついえつぐ。桜井の松平家は家次の祖父の信定の代に宗家争いに敗れて、宗家(松平広忠)から分かれて桜井松平家を創設した。しかし、宗家に対する敵対的姿勢は変わらず、今川氏の敗北の後に家康が一向一揆と対立すると、一揆側につき家康に対抗した。
<4> 酒井将監忠尚 さかいしょうかんただなお。家康の家臣。独立心が強く、しばしば家康から離反したらしい。居城の上野城は、豊田市上郷町にあった。
<5> 松平玄蕃頭清善 まつだいらげんばのかみきよよし。松平信光の子ども松平守家を始祖とする竹谷松平家の4代目。竹谷は、現在の蒲郡市竹谷町。桶狭間の戦いで今川義元が敗れたため、それまでの今川氏帰属から松平宗家信康に属するようになった。そのために、今川氏によって人質の娘(妻?)を殺されている。永禄5年、鵜殿氏の上ノ郷城を攻めている。
<6> 松平紀伊守 まつだいらきいのかみ。松平家忠。形原松平家の5代目。当初今川家に帰属し、弟の左近を人質としていた。しかし桶狭間の戦いで義元が討たれると松平信康につき、人質左近は殺害された。
<7> 松平主殿助伊忠 まつだいら とのものすけ これただ。深溝松平家の3代目。深溝城。
<8> 本多豊後守 本多広孝。ほんだ ひろたか。本多家は代々松平宗家の譜代として仕える。桶狭間の戦いの後は、永禄4年(1561年)に東条吉良氏と藤波畷の戦いで、吉良義昭の家臣富永忠元を討ち、劣勢だった松平軍を立て直した。三河一向一揆はこの戦いの後に発生している。
<9> 松平勘四郎 松平信一の通称。松平信一は藤井松平家の2代目。藤井松平家は三河国碧海郡藤井を領した。松平利長の子。天文八年生。天文十八年、三河安城攻めで初陣を果たす。永禄六年、三河一向一揆征伐では藤井城が敵の拠点である本証寺に近いため、攻撃の中核となった。三河一向一揆との合戦で左股を鉄炮で撃たれた。一揆勢は敵将に銃弾が当たった事で歓喜の声を挙げたが、松平信一は怯むことなく敵陣に切り込んでいった。家康はその戦功を大いに賞賛したといわれている。
<10> 右京亮 福釜(ふかま)松平家3代目、松平親俊(まつだいら ちかとし)。福釜松平氏は現在の安城市福釜町を領したことから福釜松平家と称する。
<11> 戸田三郎右衛門忠次 家康の古くからの家臣。三河一向一揆のときはちょっとしたことで家康から離反したようである。それで、はじめは一揆側についていたが、一揆側から家康と内通しているのではないかと思われるのが嫌で、一揆勢に反旗を翻したらしい。