愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

天筒山城跡 福井県敦賀市

2015年08月31日 14時27分39秒 | 福井県
学習会の後、城の会の方が「せっかく来たから天筒山城跡を見に行きましょう。」と誘ってくれました。そこで、見学することにしました。

写真の赤い星のある地点付近から登城しました。
城の会の人曰く、
「天筒山城跡は、大変規模の大きい山城であり、県下でも有数です。しかし、整備、発掘等があまり進んでおらず、遺構が色々残っているのです。」

そこで、いろいろ遺構と思われるものを紹介していただきました。ただし、写真に撮ったものが、どんな遺構なのか、私自身分からなくなっていますので、もし違っているようでしたら、指摘してください。

帯曲輪
まずは帯曲輪(段曲輪)です。上から見た画像です。


竪堀
次は、竪堀です。

道路の上部分

道路の下部分

もう一つ竪堀

道路の上の部分

道路の下部分

このように遺構と思われるものが随所に見られました。しかも、私たちが登ったのは、天筒山城跡の本の一部です。まだ、東部及び南部の尾根は見ていません。特に南部の尾根は、ほとんど手付かずではないかと城の会の方は、おっしゃっていました。

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若越城の会学習会

2015年08月29日 13時42分57秒 | 日記


学習会テーマは、長宗我部元親
若越城の会の学習会は、8月23日(日)午後1時30分からでした。今回のテーマは、四国の戦国武将長宗我部元親です。彼がどのようにして四国を征服していったかという話です。
講師は、野本亮さんという方でした。(高知県立歴史民俗資料館学芸課長)

信長と長宗我部元親
お話で面白かったのは、長宗我部元親の息子信親の信という字を信長からもらい、信長のお墨付きの下四国征服を進めていったと言う話です。
これまでの研究では、信の字をもらったのが天正3年ということになっていました。このことは、元親の天正3年から8年にかけての阿波、讃岐、伊予の征服戦争の後ろ盾に、信長がなっていたということです。
ところが、近年岡山県で見つかった「石谷(いしがい)家文書」によると長宗我部信親が信の字をもらったのは、天正3年ではなく、天正6年とする文書があったそうです。(同じ文書に、天正6年の荒木村重の謀反のことが書かれているそうです)
もちろん、元親が天正6年以前に信長と接近を図っていた可能性を否定するものではないのですが、これまでの説を覆す発見であると言っていました。

本能寺の変と長宗我部元親
また、本能寺の変について、長宗我部元親のかかわりについての質問に答えていただきました。
先の「石谷家文書」に、天正10年(本能寺の変があった年)5月長宗我部元親から明智光秀の家臣斉藤利三に宛てた手紙があるそうです。その中で、長宗我部元親が、信長の命令(阿波からの撤退)に対して、「命令には従うが、海部、大西城の2城は所持したい」と書き、そのことを信長に伝えるように斉藤利三に書いています。
この手紙が明智光秀や斉藤利三に伝わったかどうかははっきり分からないが、もし伝わっていれば、本能寺の変に影響を与えていただろうとおっしゃっていました。

城の会見学会は四国へ
ということで、若越城の会の今年の秋の見学会は、四国に行くそうです。
コースは、大まかに松山城→高知城→高松城です。大変楽しみです。
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金ヶ崎城(2) 福井県敦賀市

2015年08月28日 14時17分03秒 | 福井県
月見御殿をUターンして、すぐの分かれ道を左に折れますと、天筒山の方に向かいます。
まずは、三の木戸がありました。

三の木戸

道がいったん下り、又奥の方で登っています。おそらく土橋があったのではないでしょうか。両サイドは深く堀が切られていました。

焼米石出土跡
三の木戸を過ぎると、「焼米石出土跡」がありました。

戦国時代、この辺りに兵糧庫があり、織田・朝倉の合戦の際に焼けて、焼けた米が後に出土したそうです。大事な兵糧を蓄えておく倉庫があったのですね。でも、三の木戸の外にあるのはどうしてかと思いました。

二の木戸
次に二の木戸がありました。

一の木戸と同じような感じでした。ただし、この道から両サイドには、深い堀切がありました。

他にも堀切が見えました。


金ヶ崎城は、城の東側尾根線上に見事な堀切があり、とてもよかったです。しかし、曲輪や土塁と言った山城にいつもあるのもが見られなかったので、もともと無いのか、無くなってしまったのか、気になりました。
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金ヶ崎城(1) 福井県敦賀市

2015年08月27日 07時37分28秒 | 福井県

二の木戸跡の堀切

福井県敦賀市で、若越城の会の学習会がありました。そこに参加するために、敦賀市まで来ました。せっかく来ましたので、近くの金ヶ崎城に行くことにしました。

織田信長と金ヶ崎城
金ヶ崎城は、元亀元年四月越前攻めに入った織田信長が浅井長政の反逆で命からがら京都に引き返した話が有名です。(信長公記)
以前、疋壇城を紹介した際にも引用しました。(疋壇城 福井県敦賀市(1))

信長公記 巻3「越前手筒山攻め落とせらるるの事」より
 彼の城、高山にて、東南峨々と聳えなり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り、並びに金ヶ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候、即ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差し遣わされ、堀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ、・・・・

彼の城とは、天筒山城(てづつやまじょう)です。信長は、高山難所の天筒山城を落とし、金ヶ崎城、引壇城も敵を退去させ、いよいよ越前中央部へ侵攻しようとしたときに、背後の北近江の浅井氏が反逆したことを知らされ、「是非に及ばず」の名ゼリフで京都に撤退するわけです。


Yahoo地図より金ヶ崎城跡、天筒山城跡付近の地形。疋壇城は、ここより10キロほど南の山の中にあります。

金ヶ崎城跡へは、金崎宮の左の道を登っていきます。


しばらく登ると、左手に敦賀湾が見えました。


尊良親王の墓所
途中、「尊良親王(たかよししんのう)御墓所見込地」と言うのがありました。尊良親王とは、南北朝騒乱期の後醍醐天皇の子どもです。南北朝騒乱期のときの金ヶ崎の戦いで、自害したそうです。

尊良親王の墓

この戦いは、北朝方の越前守護斯波高経(しばたかつね)、高師泰(こうのもろやす)らが、1337年この金ヶ崎城に籠もる南朝方、新田義貞、新田義顕(にったよしあき、新田義貞の長男)、脇屋義助(わきやよしすけ、新田義貞の弟)、洞院実世(とういんさねよ、公家)、後醍醐天皇の息子尊良親王、恒良親王らを攻め、北朝方が勝利した戦いです。(ウィキペディア)

新田義貞、脇屋義助、洞院実世は事前に脱出しましたが、尊良親王は自害し、恒良親王は捕らえられてしまいました。

その尊良親王の墓所と言うことでしょうか。

月見御殿
墓所を通り過ぎ、どんどん登っていきますと、やがて頂に来ます。「月見御殿」です。

月見御殿は、元南北朝時代の金ヶ崎城の本丸があり、戦国時代には武将たちがここで月見をしたそうです。月見と言うより敦賀湾の海上交通の見張り台という感じがしました。

月見御殿からみた敦賀湾。右に見えるのは、敦賀セメントだそうです。
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孝勝寺 宮城県仙台市

2015年08月27日 06時06分15秒 | 宮城県
立派な五重塔
仙台駅の東に榴(つつじ)ヶ岡というところがあります。仙台での用事はそこだったのですが、予定より早くついたので、近くを散策していましたら、立派な五重塔が見えました。

いったいどんなお寺だろうと、寄ってみることにしました。すると、孝勝寺という日蓮宗のお寺でした。

日蓮の像

城下町仙台市
辺りには、お寺が多く、ここは城下町なので、東のまもりとしてお寺がたくさん集められた地域なのかと思いました。
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