愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桶狭間の戦い(10) 名古屋市緑区

2013年06月30日 18時00分40秒 | 名古屋市緑区
鳴海城・成海神社
桶狭間の戦いシリーズもこれで終わりにします。
最後は、今川側の3つの城の一つ鳴海城です。
ここに鳴海城を築くということで成海神社が北のほうに移動しています。


現在の成海神社




道を隔てて分かれている鳴海城址
鳴海城がどこにあったのか、現在場所が2つに分かれています。一つは「鳴海城址公園」になっているところです。

鳴海城址公園

もう一つは、道を隔てて東側にある小さな場所です。その東側の場所に「鳴海城址」の碑が立っています。また、「成海神社」もあります。

鳴海城の碑


成海神社

おそらく、二つとも鳴海城の場所だったのだと思います。道が後で鳴海城の場所を分断したのではないかと思います。また、「成海神社の碑」は、せっかくなのでここに成海神社が昔あったと言うために立てられているのだと思います。

桶狭間の戦い(9) 名古屋市緑区

2013年06月30日 09時13分26秒 | 名古屋市緑区
桶狭間古戦場公園
前に、桶狭間古戦場跡が二つあるとお伝えしましたが、そのうちの一つ「桶狭間古戦場公園」を紹介します。


ここで今川義元が戦死したそうです。石碑とお墓があります。しかし、はっきりとしたことは分かっていません。

ここで戦死したという石碑

義元のお墓

また、この公園に今川義元、織田信長の銅像があります。平成22年に建てられました。桶狭間の戦いの雰囲気をかもしだしています。

二人の銅像

平成22年に建てられました。

桶狭間の合戦のジオラマもありました。今川軍(徳川軍)、織田軍が、どのような経路で戦いを始めたのかが分かるようになっていました。

小牧城 小牧市

2013年06月23日 23時03分39秒 | 小牧市
 6月23日(日)小牧城を訪れました。何日か前に偶然小牧城ののことをテレビで放映していたのを思い出したからです。


 小牧山は、織田信長が美濃を攻めるために新しく本拠地として築城した城です。信長の居城として4年間活用されましたが、岐阜の稲葉山城が陥落すると、そこに移住したため小牧城は4年でそのつとめを終えることになりました。


 その後、豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の合戦の舞台となり、小牧城は家康の本陣となりました。この戦いは家康の勝利でしたが、結果的には和睦として終わったようです。

 テレビ放映では「佐久間」と書かれた石垣のことを話していましたので、ぜひ見たいと思っていました。佐久間で思い出すのは、佐久間大学で、桶狭間の戦いのときに丸根砦を守っていて、今川側に責められて戦死してしまった人です。小牧山築城にかかわっていた佐久間氏は佐久間信盛というそうです。佐久間大学とはいとこの関係になります。

桶狭間の戦い(8) 豊明市

2013年06月23日 08時18分55秒 | 豊明市
沓掛城
 今川義元が桶狭間の戦いの時に宿泊したという沓掛城です。
 沓掛城は近藤宗光が初代の城主のようです。その後、織田氏に従ったり、今川氏に従ったりしていましたが、桶狭間の戦いのときは今川氏側だったようです。近藤景春が時の城主でしたが、織田方に敗れ、戦死しているようです。



沓掛城の案内板

現在は城址公園として残っています。本丸跡、諏訪曲輪跡、大手門後、二の丸跡、空掘等が残っています。

大手門跡です。


空掘



本丸跡には井戸の跡もありました。

桶狭間の戦い(7) 名古屋市緑区

2013年06月16日 10時56分13秒 | 名古屋市緑区
桶狭間古戦場伝説地
桶狭間の戦いがどこで行われたのか、はっきりしたことはわかっていません。「信長公記」でもおけはざま山と書かれているだけです。そのおけはざま山も固有名詞ではないそうで、特定できません。
私の知る範囲で、古戦場跡という場所は2箇所あります。
一つは、「桶狭間古戦場伝説地」
もう一つは「桶狭間古戦場公園」です。


まずは、「伝説地」の写真を紹介します。

明治8年に「七石表」が立てられたとあります。明治時代には、ここが古戦場だという話があったことになります。




これが「七石表」です。今川義元が戦死した場所とあります。

明治9年に義元の墓が建てられたそうです。




すぐ西隣に小高い丘があり、そこに高徳院というお寺があり、そのお寺に義元の本陣跡がありました。