愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

佐久城(3) 静岡県浜松市

2021年09月27日 05時28分24秒 | 静岡県
本曲輪の虎口は内桝形の虎口になっていました。


本曲輪虎口

本曲輪の中にいろいろな跡が表示されていました。

本曲輪南西土塁


搦手口


井戸跡


本曲輪から見える猪鼻湖

最後に南曲輪が二段になっていることが分かりました。
手前は腰曲輪でしょうか。

南曲輪

海の近くのリゾート地帯にあるお城なので、しっかり整備され、公園化されてると想像していましたが、遺構がよく残されていて、特に本曲輪南側の土塁、馬出、堀の遺構が大変よかったです。

佐久城 おしまい
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佐久城(2) 静岡県浜松市

2021年09月26日 05時55分38秒 | 静岡県
「静岡の山城めぐりベスト50」を参考に概要図を書いてみました。

佐久城概要図

馬出の東側直下に入口があり、馬出の南の横堀に沿って入ります。

馬出と南曲輪の間の横堀


南曲輪北側の横堀、馬出、土塁

南曲輪の北側、つまり本曲輪の南は横堀、馬出、土塁が交互に配され、かなり強い防御システムがあったことが窺われました。本曲輪の北側は、湖なので天然の堀がある状態です。しかし、本曲輪の南側は陸続きであり、南曲輪を落されると一気に本曲輪に攻め込まれます。従って、ここは幾重にも防御を重ね、敵からの侵入を防ぐ必要があたと思われます。南曲輪から攻めてくる敵は、馬出、土塁から猛烈な矢や鉄砲の攻撃を受けた事でしょう。永禄12年(1569)の徳川家康との戦いでは、まさにここが主戦場として戦われたのではないでしょうか。


本曲輪南の堀から本曲輪を臨む

本曲輪南の横堀から本曲輪を見上げるとかなり高いところに本曲輪が見えました。切岸になっていて、ここからよじ登るのはかなり難しいと思いました。

そして馬出に入ってみると南側に大変高い土塁がそびえていました。

馬出南側の土塁

しかもこの土塁の外側は急峻な切岸になっています。なかなか堅固な守りだと思いました。


馬出と本曲輪の間の土橋

土橋の両サイドは深く削られており、いったん落ちると這い上がるのに時間がかかりそうです。

佐久城 つづく
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佐久城(1) 静岡県浜松市

2021年09月25日 17時26分57秒 | 静岡県
佐久城は、浜名湖にあるお城です。

佐久城の位置(グーグルマップより)

佐久城の由来について、本曲輪の中に石碑がありましたので、それを引用します。

本曲輪の石碑(この裏に以下の文がありました)

南北朝初期、正平3年(1348)濱名清政(はまなきよまさ)が佐久城を築城。以来、2百余年、濱名氏が当地を平穏裡に統治す。永禄12年2月(1569)徳川氏遠州侵攻に抗したが開城離散。天正11年(1583)徳川氏は佐久城を廃す。
濱名氏一族の鎮魂と、史跡保存継承の礎として、浄財を受け、これを建立する。
平成15年4月吉日
   三ケ日町教育委員会   佐久城址保存会
   三ヶ日町郷土を語る会撰文

佐久城は濱名氏という豪族のお城だったことが分かました。また、この名前からして浜名湖と関係があるような気がします。浜名湖を本拠としたので濱名氏、あるいは濱名氏が本拠とした湖なので浜名湖、どちらかだと思います。
また、城址の入口(馬出跡のすぐ下)に案内の看板がありましたので、その文も紹介します。


城址入口の看板

この背後の高地は室町時代浜名地域(三ヶ日町一帯)を支配した浜名氏の居城、佐久城(別名浜名城)跡である。浜名氏は平安末期鵺代(ぬえしろ)を本拠として興起した猪鼻(いのはな)氏の系統を引き、「鵺退治」で有名な源三位頼政(げんざんみよりまさ)の子孫と云われる。室町初期の貞和4年(正平3、1348)その中興祖浜名左近大夫清政がこの地域に築城居住して以来子孫は足利幕府の奉公衆となり常に京都にあって将軍の側近として活躍、又歴代歌人としても著名であった。清政より9代目の肥前守頼広(よりひろ)の時、永禄11年(1568)12月徳川家康の遠州進入に当り、守護今川氏のため当城にこもって抵抗したが、翌12年(1569)2月力尽きて降伏没落し、以来家康の武将本田百助信俊(ほんだひゃくすけ―ももすけ?―のぶとし)が守備したが、天正11年(1583)東北方の野地(のじ)城構築により廃城となった。
 その遺構は要図の如く半島突端に楕円形の本丸(本曲輪)南側に大きな空堀を隔て、二の丸(南曲輪)が残存するのみで、埋め立てられた現在地周辺は字名御馬(おんま)といい、旧厩舎(うまや)の所在地と思われ、これより東方200m位に及ぶ範囲が城内と考えられ字本城、南本城等の字名が残り、侍屋敷等があったと思われる。
浜松市教育委員会
平成3年12月作


「猪鼻湖」という名称が平安末期の浜名湖周辺の豪族の名前とは知りませんでした。
また、「鵺代」という地名も源三位頼政の鵺退治に由来する地名とも知りませんでした。しかし、ネットの情報によれば、「鵺」は「贄(にえ)」が江戸時代初期に改称されたのだそうです。「贄」とは都への献上物で魚や鳥などを言うのだそうです。鵺代の辺りはそういう献上物を納めるための土地だったようです。
(https://folklore2017.com/timei900/845.htm)
いずれにしても、濱名氏は源頼政の子孫らしく、このあたりを「平穏裡」に支配していたそうです。ところが徳川家康が攻めてきたために濱名氏は没落したそうです。

ついでに教育委員会が作成したと思われる要図(想像図)がありましたので、紹介します。イメージが湧きやすいです。

佐久城想像図

佐久城 つづく
コメント (2)
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日置城 名古屋市中区

2021年09月16日 06時40分50秒 | 名古屋市中区
日置城は日置村の西北?
今回は尾張の城です。といっても尾張の城はほとんど遺構が残っていません。
「尾州古城志」に、「日置村 城跡1反2畝歩、自村戌亥方 織田丹波守、一説曰織田掃部領之」との記事があります。1反2畝は、約1189平方メートル(正方形にすると、一辺約34mの正方形の広さ)なので、少し小さすぎます。尾州古城志が成立した宝永5年(1708)に城跡として残っていたのがこれだけということでしょうか。方位が村より戍亥とあります。戍亥は西北の方向です。

明治23年の地図より

ところが、明治23年の地図で、日置城は日置村のほぼ東に位置しています。不思議に思い、「日本城郭体系9」を見たところ、「古渡城の西北に位置し」との説明がありました。古渡城は、ちょうど東本願寺別院の場所なので、そこから西北の方向というのは頷けます。「尾州古城志」には「自村」としか書かれていませんので、この村とは古渡村のことかもしれません。

熱田台地の西端
さて、この地図で日置城跡の西側を南北に流れている大きな川は、堀川です。つまり、この地図の北の方に名古屋城があります。そして南は熱田神宮です。この名古屋城から熱田神宮にかけては熱田台地という台地になっていて、まわりより少し高くなっています。日置城はこの台地の上にあり、西端に位置しています。「日本城郭体系9」でも「西方を広く眺望できる要害の地であった」と記しています。

熱田台地(地理院地図、陰影起伏図より)


熱田台地がわかる所

日置城のすぐ西隣にコメダ珈琲がありましたが、1階部分は下になっていました。2~3メートルは段差があるでしょうか。現在日置城跡から西を見てもビルが立ち並んでいて、眺望は開けていませんが、日置城が一段高いところにあったことは分かりました。

尾張織田家
この城に関する武将ですが、織田丹波守とは、尾張守護代(下四郡)の方の織田家で、織田寛定(ひろさだ)です。明応4年(1495)に討死したということなので、信長の生まれる(天文3年1534)以前です。主に、清州城を本拠としていたようです。
織田掃部(かもん)とは、清州三奉行(因幡守家、弾正忠家、藤左衛門家)の一つ藤左衛門家の織田忠寛(ただひろ)です。信長、信雄に仕えていました。

尾張支配図
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臼子(うすご)城 新城市

2021年09月02日 09時11分34秒 | 新城市
 コロナも極まれりという感じです。いったいいつになったら収まるのか、まったくお先が見えません。しばらく活動を停止していましたが、季節も少しずつ良くなってきましたので、そろそろ再開しようかと思います。
前回の更新が21年4月なので、約半年ぶりです。

臼子城の紹介
臼子城について、「三河国二葉松」に以下のコメントがありました。
 佐惣大膳或ハ佐伯大膳ト書シ物モ有、白雪云、此城ヲ見物ス、大手ヲ杵坂ト云、其傍ニ蓑石ト云モ有、後ニ此大手所ニ奥平休可ト云兵法ノ師住ス、此休可と戦シ石地蔵杉山ニ有、奇特アリトテ今モ信仰ス、白雪モ旧子カラ杉山之石地蔵へハ度々行。

 佐惣大膳は、作手奥平氏の家臣だそうです。奥平氏はもともと作手亀山城が拠点でした。そこから東方面、新城の方へ行く道がありますが、臼子城は、山を越え、新城の平野が開ける起点の位置にあります。

臼子城の位置(グーグルマップより)

 天文14年(1545) 新城古城 の 菅沼定継 に攻め滅ばされました。その後、奥平貞勝の嫡男貞能が菅沼氏の臼子城を攻めて城を取り戻し、先の城主佐宗勝重の子重昌を城代としました。奥平休可という武将もこの臼子城の城代として入りました。「兵法の師」と三河国二葉松が記載しているので、軍師だったと思われます。(白雪とは、三河国二葉松の筆者の一人です)
天正18年(1590年)、奥平氏が徳川家康 に従って関東に下り、臼子城は廃城となりました。(参照、ネット「東三河を歩こう」)


臼子城概要図(原図:高田徹氏、愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)より)
上が西になっています。

臼子城探索
 臼子城は、国道301号線の側の小高い小さな丘の上にあり、すぐ分かりました。国道に登り口が接していて、そこから登りました。登りきると墓地がありました。この墓地が櫓台のようです。下の曲輪より2メートルほど高くなっていました。今はまわりが木で見通せなくなっていましたが、昔は新城方面が見渡せたのでしょう。

櫓台

櫓台から下の曲輪は、杉林になっていました。

曲輪

 櫓台下の曲輪は結構広く、ここが本丸と思わせました。というか単郭のようにも見えます。
この曲輪を西の方(地図では上)に歩いていきますと、南下の方(地図では左)に腰曲輪が見えました。腰曲輪はこの下にもあり、二段になっていました。

南側の腰曲輪

曲輪の中を西(上)へ進みますと、一段低い曲輪があります。大きさや南(左)の帯曲輪との関連から、ここが虎口かも知れないと思いました。

西側の一段低い曲輪

曲輪を北(右)の方に移動し、下を見ると立派な切岸がありました。

北側斜面の切岸

北側斜面を見ながら、今度は東の方(下)、櫓台のあった方に進んで行きますと、北側(右)に急な谷が見えました。これは、おそらく堀切ではないかと思います。ネットで堀切についての言及がないので、心配ではありますが、山側からの敵に対して切岸、堀切を設け、曲輪への侵入を阻止していたと考えることができます。

北側の堀切

それに対して、平野側(南側)は腰曲輪を設け、弓矢、鉄砲などで防御したのではないかと考えられます。

臼子城は、はじめ櫓台だけが残る城かと思いましたが、腰曲輪や堀切などの遺構が感じられ、見ごたえのある城でした。
コメント (2)
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