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松平記p43
翻刻
附、永不可相違候、然者如前可令所務、守此旨、弥可抽奉公
状如件
永禄三年六月八日 氏真在判
岡部五郎兵衛殿
一 同三年より四年の間苅屋衆と岡崎衆せり合い度々也。然爰
に、信長より水野下野守を以、元康色々和談の扱有。互に起
請文を書取かハし、和談相済、岡崎衆、尾州衆の弓箭無之候
也
一 其比また京都の所司代三好修理大夫長慶の領分ハ五畿
内、播磨、但馬、淡路、阿波、已上十ヶ国の侍彼下知に随う。公方
現代語
(還)付する。永らく相違なく候。そうであるので、以前のように庶務を行い、この旨を守り、いよいよ奉公するべし。以上である。
永禄3年6月8日 氏真
岡部五郎兵衛殿
一 永禄3年から4年の間、刈谷衆(水野)と岡崎衆(松平元康)でせりあいが度々あった。そこへ信長より水野下野守信元を通して、松平元康に対していろいろ和談の話があった。信長と元康は互いに起請文を取り交わし、和談が成立した。岡崎衆と尾州衆は争うことがなくなった。
一 その頃、京都の所司代三好修理太夫長慶の領土は五畿のうち、播磨、但馬、淡路、阿波。さらに10か国の侍が三好長慶の命令に従っていた。将軍(様)・・・
コメント
清州同盟は信長から?―信長と元康の力関係―
中段は、いわゆる「清州同盟」についての記述です。永禄3年から4年の岡崎と刈谷の戦いとは具体的には「石ヶ瀬の戦い」と思われます。「松平記(33)」そこへ「清州同盟」の話が持ち上がります。この文を読むと、信長の方から水野信元を通して話が持ち掛けられたように書かれています。しかし、信長が和議を持ち出して、元康に自分の居城清州城に出て来いというのは、あまりに元康が軽んじられています。信長と元康の力関係はどうだったのでしょうか。この時は対等だったが、徐々に信長が優位になったという説もあります。そうだとすれば、和議は、仲裁に立った水野信元の刈谷城か緒川城ぐらいでやってもよさそうなものです。しかし、この「松平記」に和議の場所は書かれていませんが、「清州同盟」という言葉が残る通り和議の場所は清州城だった可能性が強いです。そうすると、この時点での信長と元康の力関係は信長の方が強かったのかも知れません。桶狭間の戦いで元康の主君である今川義元を打ち負かしたのは、他でもない信長だったのですから。