愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小牧山城見学会 小牧市

2021年11月28日 10時13分49秒 | 小牧市
11月23日、愛教労退職教職員の会の企画で「小牧山城」の見学会がありました。その感想です。


名物ガイド鵜飼さん

先日小牧山城の見学会に参加しました。愛教労退職教職員の会の企画です。十数名の方が参加されていました。その中に、お顔は覚えていましたが、詳しく存じ上げていない方がいらっしゃいました。すると、その方の方から「Kさんをご存知ですよね。私は、Kさんの友人なんです。Kさんから、あなたがいろいろと活躍されていることを伺っておりますよ。」と声をかけられました。Kさんのことはよく知っていましたので、「ああ、そういう繋がりがあったんだ。」と分かり、その後の会話も弾みました。現役のころはあまり会話もなかった方でしたが、こうして退職後に話し合える機会ができて、本当に良かったと思いました。

何回も訪ねている小牧山城ですが、新しい友達もでき、いい思い出になりました。

松平記(2) 松平記

2021年11月28日 09時38分37秒 | 松平記

松平記p2

以下翻刻

せんと諸人申。清康は少もさわき給ハず、何内膳殿武勇の
程日来(ひごろ)知するしたり恐るるにたらさる事也、と中々驚き
思召事なし。其夜阿部大蔵少輔、子息弥七郎を呼て申ハ、其
方は不知や内膳殿逆心被成候に付、我等も内膳殿と親し
けれハ彼人等一味し邪心有由、讒言申候けると聞く、我等に
おゐてゆめゆめ左様の事を不存、譜代相伝の御思、山のこと
し、何しに逆心を企つへき、此事御尋もあらハ陳謝の為に
起請文を書置持参せんと調置もの也。若々此事御尋も無
之して申わけもいたさすして御成敗に逢事あらハ、汝は
何とそ落隠れ命を全し、此状をさし上、逆心なき段申開べ

現代語訳
いかがすべきかと、皆が言った。清康は少しもさわがず、「何内膳殿の武勇の程は日頃よく知っている、恐れることはない」と驚く様子はなかった。其夜、阿部大蔵少輔は子息弥七郎を呼び、「お前は内膳殿が逆心なされたことを知っているか、我等は内膳殿と親しいので、仲間になって謀反を起こすと讒言をするものがいると聞く、我等は全くそういうことはない、譜代としての思いでいっぱいである、どうして逆心を企てることがあろうか。このことでお尋ねになられたとき、陳謝の為の起請文(忠誠を誓う文書)を書き、お前に持たせようと思う。もし、尋ねられることなく、申し開くこともできずに自分が成敗されたときは、お前は逃げのびて命をながらえ、この起請文を差し出し、逆心がないことを申し開くように。」

コメント
阿部大蔵は阿部定吉といいます。以前に紹介したこの「松平記」の著者らしき阿部四郎兵衛定次は、「寛政重修諸家譜」では阿部定吉の弟になっています。「松平記」が兄の話とすれば、兄の不都合なところは改ざんされていることが予想されますが、其の外は、かなり真実味を帯びた話となります。しかし、同じ「寛政重修諸家譜」の阿部定次の項では、阿部定次が「松平記」の著者であると明記していません。文中に「このたびの勤労及び御家人の忠不忠をしろし、ふかくこれを蔵(おさ)めて子孫に伝ふ」とあるのみです。


松平記 つづく

松平記(1) 松平記

2021年11月24日 13時39分34秒 | 松平記
三河一向一揆や桶狭間の戦いなどを調べる際に、「松平記」を参考にすることが多いです。「松平記」とはネット「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」によれば、以下のように説明されています。

「徳川氏創業時代の事件を記した家伝。7巻。阿部四郎兵衛定次著。成立年未詳。天文4 (1535) 年尾張「森山崩れ」から天正7 (79) 年徳川家康夫人築山殿の自害までの諸事件を年代順に収めたもの。首巻に「阿部家夢物語」1巻を付する。」

作者が阿部四郎兵衛定次とされていますが、他のサイトでは、作者不詳とするものもあります。作者は不祥ですが、作者の父であるという人物が「松平記」に登場します。松平広忠が於大を離縁し、刈谷に返す時に、作者の父が同行したと記されています。(巻5)これが真実ならば、「松平記」は、かなり信憑性の高い史料ということになります。しかも、三河一向一揆の記述などでは、大久保忠教「三河物語」と「松平記」の記述が酷似していて、「三河物語」が「松平記」を参照しているとする研究者もいます。
したがって「松平記」の史料的価値は高いのではないかと思います。
ネットで「松平記」の翻刻や現代語訳を探しても見つかりません。書籍では「松平記-徳川合戦史料大成」というものがありますが、「校訂松平記」(坪井九馬三、日下寛校訂、青山堂雁金屋出版、明治30年9月発行、国立国会図書館デジタルコレクション)のものが、ところどころ端折って影印されています。翻刻っぽい文章が最後の第6巻の部分で書かれていますが、意訳が多く、かつ端折っていますので、扱いづらいものになっていました。
そこで、「松平記」をこのブログで詳しく紹介できたらと思いました。底本は、上記「校訂松平記」です。これを独力で翻刻してみたいと思います。(というのは、明治30年であってもくずし字で書かれているからです)分からないところもありますが、そこは勘弁していただいて、わかる範囲で翻刻し、自分なりの解釈を試みたいと思います。1回につき、底本1ページ分です。

松平記p1

以下、翻刻です。

松平記巻一
文学博士坪井九馬三 
    日下  寛     校訂
一 天文四年十二月五日、尾州於森山、清康の御最後ハ、森山の
  城主御味方仕、美濃の侍衆多内通の事有。雑兵一千余騎に
  て駿河よりも御加勢有て打立給ふ。其日石崎に着陣有。扨
  森山に御着有処に、御伯父松平内膳殿、尾州より内通有。逆
  心を企、上野城へ籠り虚病の由披露す。皆々〇き森山も内
  膳殿むこ、大給源次郎殿へも内膳むこ、小川水野も婿の契
  約あり、長澤の上野殿も婿也。是ハ由々鋪大事なりいかが
  
  ※ 〇は、読めないところです。

現代語訳
天文4年12月5日、尾州森山において清康の最後は、森山の城主(織田信光)が味方になり、美濃の侍衆(稲葉良通、氏家直元、安藤守就の美濃三人衆)も多く清康に内通があり、雑兵千余騎で駿河より加勢があった。その日、石崎(岩崎)に着陣し、さて森山に着いたところに、伯父松平内膳について、尾州より内通があった。内膳殿(松平信定)が謀反を起こし、上野城へ籠り、仮病を使っているとのことを披露した。清康の軍は皆々(驚き?)「森山も内膳殿の婿、大給源次郎(松平親乗)も内膳の婿、小川水野(信元)も婿の契約があり、長澤の上野殿(松平康忠)も婿である、これは由々しき大事である、いかがすべきか。

コメント
何のために森山に出陣したかは不明ですが、この時織田信光や美濃三人衆、今川の加勢があったというのは驚きです。もしかしたら、織田信秀と決着をつけるべく、着陣したのかも知れません。松平内膳の謀反の知らせが尾州よりあったというのも面白いです。おそらく尾州からの内通というのは織田信光だと思いますが、松平信定は織田方の方にいろいろ情報が伝わる程に近くなっていたことが窺われます。織田信秀と松平信定の間で秘密の連絡があったのかも知れません。謎が多いです。

松平記 つづく

和田城 新城市

2021年11月22日 11時37分59秒 | 新城市
久しぶりの投稿です。
すいません、すぐに止まってしまって。

さて、今回は新城市、和田城です。
三河二葉松に以下の記事があります。
「和田村古城 奥平出雲守後名字改和田」

和田城をネットで調べると所在地が「新城市保永字中島3-2」と出ており、和田の地名がありません。そこで、江戸時代の地図を調べてみました。
明治2年の三河国全図です。

三河国全図(明治2年)(愛知県図書館>デジタルアーカイブ>絵図の世界>諸藩管轄絵図

その中の現在の新城市保永の辺りを調べますと、ありました「和田」が。

和田村

赤い楕円形の中に村名が書いてあり、右から「臼子」「和田」「見代」上へいって「松平」「赤羽根」でしょうか。つまりこの地域は、江戸時代に和田と呼んでいたわけです。和田と臼子は道でつながっていることが分かります。つまり、この地は作手奥平氏にとって臼子城と共に南の防衛ラインだったわけです。また、和田、臼子には城跡の記号が記してあります。古城があるという意味でしょうか。「市場」のまわりには3つも城跡の記号があります。「市場」は、現在の地名では「清岳」で亀山城のある所だと思います。3つの城跡の記号は、古宮城、亀山城、石橋城でしょうか。

さて和田城ですが、築城は奥平勝次となっています。もともとは作手奥平家のようです。作手奥平氏の始祖である奥平貞俊の次男に奥平貞盛という武将がいて、和田に領地を与えられ、和田奥平氏となったそうです。その後、2代貞寄、3代勝次と続き和田城ではなく、岩波城を守り、3代目の勝次が和田城を築いたようです。

和田城は、南の山から舌状に延びた麓辺りにあったと思われます

和田城付近のグーグル航空写真(北から見た航空写真<地球表示(やや立体的になっています)>

ここに城跡の遺構をかぶせると

和田城

明かな遺構は、中嶋という地域を東西に走る道の南側の山に掘られた横堀と土塁です。

横堀と土塁

山を登っていくと竪堀っぽいのもありましたが、何か不自然で、材木を運搬する道ではないかと思いました。

材木運搬道?

道路より北側はまさに舌状の台地になっていました。後世の遺構かもしれませんが切岸のような地形も見られました。

舌状台地東側の急斜面(切岸?)

なにはともあれ、素晴らしい横堀が見られて大満足で、ついでに奥平貞盛の宝篋印塔があるというので、見に行くことにしました。もっと大きいのをイメージしていましたが、大変ミニチュアな感じで50cmぐらいの高さでしょうか。二つ並んでいました。

奥平出雲守貞盛の宝篋印塔(供養塔の一種です)