三河一向一揆や桶狭間の戦いなどを調べる際に、「松平記」を参考にすることが多いです。「松平記」とはネット「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」によれば、以下のように説明されています。
「徳川氏創業時代の事件を記した家伝。7巻。阿部四郎兵衛定次著。成立年未詳。天文4 (1535) 年尾張「森山崩れ」から天正7 (79) 年徳川家康夫人築山殿の自害までの諸事件を年代順に収めたもの。首巻に「阿部家夢物語」1巻を付する。」
作者が阿部四郎兵衛定次とされていますが、他のサイトでは、作者不詳とするものもあります。作者は不祥ですが、作者の父であるという人物が「松平記」に登場します。松平広忠が於大を離縁し、刈谷に返す時に、作者の父が同行したと記されています。(巻5)これが真実ならば、「松平記」は、かなり信憑性の高い史料ということになります。しかも、三河一向一揆の記述などでは、大久保忠教「三河物語」と「松平記」の記述が酷似していて、「三河物語」が「松平記」を参照しているとする研究者もいます。
したがって「松平記」の史料的価値は高いのではないかと思います。
ネットで「松平記」の翻刻や現代語訳を探しても見つかりません。書籍では「松平記-徳川合戦史料大成」というものがありますが、「校訂松平記」(坪井九馬三、日下寛校訂、青山堂雁金屋出版、明治30年9月発行、国立国会図書館デジタルコレクション)のものが、ところどころ端折って影印されています。翻刻っぽい文章が最後の第6巻の部分で書かれていますが、意訳が多く、かつ端折っていますので、扱いづらいものになっていました。
そこで、「松平記」をこのブログで詳しく紹介できたらと思いました。底本は、上記「校訂松平記」です。これを独力で翻刻してみたいと思います。(というのは、明治30年であってもくずし字で書かれているからです)分からないところもありますが、そこは勘弁していただいて、わかる範囲で翻刻し、自分なりの解釈を試みたいと思います。1回につき、底本1ページ分です。

松平記p1
以下、翻刻です。
松平記巻一
文学博士坪井九馬三
日下 寛 校訂
一 天文四年十二月五日、尾州於森山、清康の御最後ハ、森山の
城主御味方仕、美濃の侍衆多内通の事有。雑兵一千余騎に
て駿河よりも御加勢有て打立給ふ。其日石崎に着陣有。扨
森山に御着有処に、御伯父松平内膳殿、尾州より内通有。逆
心を企、上野城へ籠り虚病の由披露す。皆々〇き森山も内
膳殿むこ、大給源次郎殿へも内膳むこ、小川水野も婿の契
約あり、長澤の上野殿も婿也。是ハ由々鋪大事なりいかが
※ 〇は、読めないところです。
現代語訳
天文4年12月5日、尾州森山において清康の最後は、森山の城主(織田信光)が味方になり、美濃の侍衆(稲葉良通、氏家直元、安藤守就の美濃三人衆)も多く清康に内通があり、雑兵千余騎で駿河より加勢があった。その日、石崎(岩崎)に着陣し、さて森山に着いたところに、伯父松平内膳について、尾州より内通があった。内膳殿(松平信定)が謀反を起こし、上野城へ籠り、仮病を使っているとのことを披露した。清康の軍は皆々(驚き?)「森山も内膳殿の婿、大給源次郎(松平親乗)も内膳の婿、小川水野(信元)も婿の契約があり、長澤の上野殿(松平康忠)も婿である、これは由々しき大事である、いかがすべきか。
コメント
何のために森山に出陣したかは不明ですが、この時織田信光や美濃三人衆、今川の加勢があったというのは驚きです。もしかしたら、織田信秀と決着をつけるべく、着陣したのかも知れません。松平内膳の謀反の知らせが尾州よりあったというのも面白いです。おそらく尾州からの内通というのは織田信光だと思いますが、松平信定は織田方の方にいろいろ情報が伝わる程に近くなっていたことが窺われます。織田信秀と松平信定の間で秘密の連絡があったのかも知れません。謎が多いです。
松平記 つづく