愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

室(むろ)城跡 西尾市

2015年09月28日 18時31分23秒 | 西尾市

室城跡全景

室城とは
今日も快晴。もったいないので城めぐりに行きました。今回は室城跡です。室城については、現地の案内板に説明がありましたので、引用します。

室城は永正年中(1504~)に東条城に至る街道の要所を守る城として、東条吉良氏の重臣富永伴五郎(祐玉)によって創建されたと伝えられます。天文5(1536)年には、岡崎城を追われた徳川家康の父松平広忠がわずかの期間ですが在城していました。その後、永禄4(1561)年の藤波畷の戦いで富永氏が戦死したため廃城となりました。

室城跡は、広島城浅野文庫「諸国古城之図」にも掲載されています。


蔵屋敷跡
室城跡の東側は、神明社で駐車場がありましたので、車はそこにとめました。神明社は、すぐ近くの民家より高いところにありました。「諸国古城之図」では「蔵屋敷跡」となっていますが、「地域の年貢米の集約センター」ではないかと「愛知の山城ベスト50」では紹介しています。


虎口付近の空堀
この神明社から西の方に主郭があります。間の曲輪、虎口守備の曲輪は現在は駐車場と倉庫になっていました。そこをさらに、西に行きますと、主郭です。主郭の虎口付近に空堀が確認できると現地案内板にありましたので、よく見てみると、それらしいものがありました。画像は、虎口の外の南側です。

虎口付近の空堀の跡

主郭土塁跡
主郭は墓地でしたが、東西に土塁の跡が見えました。

主郭東側土塁跡


主郭西側土塁跡

井戸跡
墓地の中央付近には、大きな井戸の跡がありました。


切岸
主郭の西端は切岸になっていました。


水堀、屋敷跡
室城の北方面に小川(水堀のあと)がありました。また、家臣の屋敷跡と思われる空き地もありました。

水堀の跡と思われる小川


屋敷跡と思われる空き地

室城主である富永伴五郎は、藤波畷の戦いで討たれましたが、享年25歳でした。彼の勇名は敵味方に知れわたっており、今でも「伴五郎地蔵」として現地に残されているそうです。

椎(しい)城跡(3) 豊田市

2015年09月27日 10時50分49秒 | 豊田市
Ⅰ郭虎口跡
Ⅰ郭をさらに西へ進みますと、虎口の跡がありました。縄張り図では北西と南西に2箇所虎口跡があることになっていますが、かなりなだらかな坂になっていました。

Ⅰ郭北西虎口跡


Ⅰ郭南西虎口跡

Ⅲ郭土橋
そこから一段と低いところにⅢ郭が西の方に伸びていました。途中土橋がありました。これは、結構はっきりと遺構が残っていました。

Ⅲ郭中央部の土橋

Ⅲ郭北方面
このⅢ郭の北の方には小さなこぶみたいな台のようなものがありました。これは北側の守りとして、そこで弓矢や鉄砲などで敵を攻撃するために設けられたものではないかと思いました。


植林されたⅢ郭?
Ⅲ郭で気がついたことは、そこに植えられている木(杉?)がきれいに植えられていることです。自然に生えたものではなく、植林によって植えられたものではないかと思いました。則定鈴木家は江戸時代も初期にはこの椎城のふもとに陣屋を構えていましたので、椎城も当然鈴木家の城としてここにあったと思われます。それがいつの頃からか、林業としての土地に変遷していったのかなと思いました。

整然と植林されているⅢ郭の木

出丸?
さらに注目は、Ⅰ郭のすぐ南下にある細長い曲輪状の突起です。縄張り図では、そこからさらに階段状の遺構がいくつか伸びています。これもⅠ郭を守るための曲輪ではないかと思いました。話が少し飛びますが、大坂城で「真田丸」という出丸があり、大坂の陣のときに真田信繁(幸村)が徳川軍に打撃を与えたということを思い出しました。

Ⅰ郭南下の「出丸」

椎城跡に出かけたのは9月のシルバーウィークの最終日でした。10月に近いので、すこしは登りやすいかと思いましたが、蚊とくもの巣に大変煩わしい思いをしました。カメラをむけるために立ち止まると「ウーン」と蚊が出てきて、ここはどうなっているのかと、進もうとすると顔面にくもの糸が懸かりました。

しかし、見学の元の情報は「愛知の山城ベスト50」ですが、そこでふられていないものを見ることができたので、収穫の多い見学だったと満足しました。

椎(しい)城跡(2) 豊田市

2015年09月26日 12時22分39秒 | 豊田市
則定陣屋跡
椎城跡への登城口は、則定小学校の右側の道を登っていきます。則定小学校は、陣屋だったそうです。グランドに看板がありました。


登城口
グランドの横をさらに道なりに登っていきますと、「熊埜神社」があります。それを過ぎると、「鈴木正三公園」があります。先に紹介しました「正三、重成の像」があります。椎城跡へはその鈴木正三公園を右に進み、緑色の東屋の右側から入っていきます。なかなか分かりにくい道でした。

矢印(実際は矢印はありません。合成です。)を進んでいきますと、下記のような看板があります。「正三みちロマンコース」とありますので、戸惑いましたが、これが登城道です。

「正三みちロマンコース」と書かれた看板

この「正三みちロマンコース」は、かなりきつい登り道でした。この道をひたすら登っていくと、分かれ道に出ます。

この地形、ちょっと堀っぽいと感じました。

十六羅漢
標識に従って、さらに登っていきますと、「十六羅漢」というのがありました。「羅漢」というのは、「阿羅漢」の略で、民衆を救済する16人の修行僧のことを言うようです。(ウィキペディア)

十六羅漢、大きな岩に囲まれるように小さな石仏がありました。

椎城Ⅱ郭
十六羅漢を過ぎると大きな堀切が見えました。ここから椎城です。

椎城概要図(「愛知の山城ベスト50」より、作画 石川浩治氏)

堀切A

堀切Aを左に折れるとⅡ郭があり、土塁がありました。しかし、かなり低くなっていて、ぱっと見分かりませんでした。

Ⅱ郭東の土塁

鈴木重氏の墓
Ⅱ郭は、途中段差があり、高くなったところに「當椎城主鈴木重氏墳」と書かれた墓がありました。しかしこの人物がどのような人物かは分かっていないそうです。


Ⅱ郭からⅠ郭へ
Ⅱ郭をさらに進んで行きますと、Ⅰ郭とⅡ郭を分ける大きな堀切がありました。Ⅰ郭はけっこう高いところにありました。


そして、振り返ると、Ⅱ郭の北の腰曲輪が続いていました。

椎(しい)城跡(1) 豊田市

2015年09月24日 16時51分12秒 | 豊田市

Ⅱ郭東の堀切

シルバーウィークも最後。天気も絶好調。ということで、城めぐりです。今回は、豊田市の椎(しい)城跡です。則定椎(のりさだしい)城とも言います。
豊田市はこれまでいくつか城を訪ねてきましたが、市が広いので、旧町名で分けると以下のようになります。

元の図は「豊田市のあゆみ」

鈴木氏とは
さて、今回訪ねた城は、旧足助町になります。戦国時代、足助は鈴木氏が勢力を持っていました。上記「豊田市のあゆみ」によれば、鈴木氏は、はじめ中条氏の被官でしたが、矢並を出発点として、市木から寺部へ、酒呑(しゃちのみ)・則定から足助、さらには小原へ。ほかにも古瀬間・九久平(くぎゅうだいら)・竹村・八桑(やくわ)・阿摺(あすり)に一族は広がったそうです。

鈴木氏一族「豊田市のあゆみ」より

天草に貢献した鈴木兄弟
則定鈴木氏については、鈴木正三、重成兄弟の話が有名です。鈴木正三は関が原の戦いに伴う真田氏との戦い、大坂の陣に参加しましたが、42歳のときに出家し仏教の道に入りました。そして、「世法即仏法」といって自分の職業に精進することが仏法の修行に通じるという考えなどを広めました。また、弟の重成が天草・島原の乱の後、天草の代官になったときは、重成に協力し、「破吉利支丹(はきりしたん)」を著して仏法によって人心の荒廃を救おうとしたそうです。
また、弟の重成は天草の年貢を軽減するために石高半減を幕府に申し入れましたが、聞き入れられずに自害したそうです。その後天草の代官に任命された重辰(しげとき、正三の実子、重成の養子)のときに石高半減が認められたそうです。(年貢そのものは軽減されなかったようです)
それで天草市には正三、重成、重辰の3人を祀る「鈴木神社」があり、今でも徳が称えられているそうです。

鈴木正三公園にある鈴木正三、重成の像

豊田市に、こういう人物のお話があるとは知りませんでした。

松山観光ボランティアガイドの会から 愛媛県

2015年09月23日 06時33分07秒 | 愛媛県
昨日松山市から郵便物が届けられました。
なんだろうと思って、開封してみると、松山城のクイズについてのものでした。

先日松山城を訪れた際、クイズのコーナーがあったので、それに回答してボックスに入れました。
住所の記入欄もあったので、記入しておきました。その時は、「もしかしたら、あとで連絡があるかもしれない」と思っていましたが、もうすっかり忘れていました。

郵便物には、ご丁寧にクイズの一つ一つの問題について添削がしてあり、別紙で解答・解説まで添えられていました。
松山城を訪れた方は、何万人といらっしゃると思われます。クイズに応募された方もたくさんいらっしゃると思います。その方一人ひとりに、こうして郵便で対応されていることに大変感動しました。

また松山城が好きになりました。