小牧長久手の戦いと民衆
愛知の歴史を民衆の立場で書かれた本があります。
「愛知民衆運動の歴史」という本です。著者の伊藤英一氏は高校の社会科の教師です。発行が昭和62年(1987年)なので、もう27年も前です。そのときに新聞でも取り上げられたようです。
小牧長久手の戦いを民衆の目線で
この本から、私もたくさんのことを学びましたので、紹介しておきます。特に、「小牧長久手の戦い」については、当時新しい史料として話題を呼んだ「前野家文書」(「武功夜話」として新人物往来社から発行されています。その史的価値については諸説があります。)を取り入れて、この戦いが民衆にとってどういうものだったかを述べています。
それによると、小牧長久手の戦いは、以下のようだったようです。
領内困窮の様体切々申し聞かされ候
春越方よりおびただしき軍馬の往来、春よりの作毛相立たず困窮甚だしく、あまつさえ在郷諸村の究竟なる者戦場に罷り出て手不足もこれあり。なお連日の長雨のため、田畑に砂入り民家を押し流し、馬・人ともに水死その数を知らずなり。西部(中島郡)の牧馬は、高水のため大河その流れを変え数か村は流失、川底に相成り、馬の殖も払底、容易に入手致し難く候なり。
先日小折村生駒八右衛門、三輪兵部の御両所罷り越し、領内困窮の様体切々申し聞かされ候。聞き及ぶところへ「勢州は桑名郡の一郡を残すのみ、ことごとく筑前守取り抱え候由。犬山を始めとして川筋竹ヶ鼻、加賀の井、下の郡まで、上郡(丹羽郡)は半部取り抱え、御領地半分は敵方の手に陥り、御家来衆食邑を失い、日増しに困窮、兵糧にも事欠く次第。なおこの上合戦延引候哉。領内百姓ども飢渇窮亡、為に家を捨て逃散の者多く、田畑は荒廃籾種を失い、田の植え付けも成らず、このままに打ち過ぎ候哉。下々の者家抱えがたく、それがしども爰かしこ駆け廻し、兵糧・御馬・雑手の調達に苦心候なり」と申されるなり。(武功夜話)
小牧長久手の戦いのとき、加賀野井城から長島城に入った小坂孫七郎に、6月7日、織田信雄から桑名浜田城への出陣命令が出ました。しかし、出陣の準備が整わないので、小坂孫七郎は息子の助六を使って前野喜左衛門に馬の調達を依頼しました。そのときに、依頼された前野喜左衛門が、使いの助六に語ったという内容です。
また、誰は語ったものか分かりませんが、以下のようにも書かれているそうです。
苅田取りの責め合いに候
「今度の取り合いは戦場の決戦にあらず、苅田取りの責め合いに候」(武功夜話)
「上方勢、余勢をもって押し出し来たり、夜中を厭わず苅田掠め取る事おびただしく罷り出で、追い散らせども雑人ども手当たり次第に放火狼藉の限りを尽くし、百姓ども安堵の色を失い難渋に陥り候。」(武功夜話)
信雄側の計算で丹羽郡の地で約3000石の米が秀吉勢に掠め取られた、と筆者の伊藤氏は述べています。
さらに、この年の9月、濃尾一帯は暴風雨に襲われたそうです。
「真桑は風のために破損、蚕子も掃き立たず、大豆等の小物も不作、茶は少々拵え候も商人来たらず。この年はまことに不運の歳、在々村々は困窮に罷り在り候。」(武功夜話)
つまり、小牧長久手の戦いによって在地の耕作者(百姓、農民??)は、暴風雨の影響もあり、困窮を究めたと言うのです。秀吉が勝った、家康が勝ったという武将の目線だけで戦いは考えてはいけないことが分かります。
愛知の歴史を民衆の立場で書かれた本があります。
「愛知民衆運動の歴史」という本です。著者の伊藤英一氏は高校の社会科の教師です。発行が昭和62年(1987年)なので、もう27年も前です。そのときに新聞でも取り上げられたようです。
小牧長久手の戦いを民衆の目線で
この本から、私もたくさんのことを学びましたので、紹介しておきます。特に、「小牧長久手の戦い」については、当時新しい史料として話題を呼んだ「前野家文書」(「武功夜話」として新人物往来社から発行されています。その史的価値については諸説があります。)を取り入れて、この戦いが民衆にとってどういうものだったかを述べています。
それによると、小牧長久手の戦いは、以下のようだったようです。
領内困窮の様体切々申し聞かされ候
春越方よりおびただしき軍馬の往来、春よりの作毛相立たず困窮甚だしく、あまつさえ在郷諸村の究竟なる者戦場に罷り出て手不足もこれあり。なお連日の長雨のため、田畑に砂入り民家を押し流し、馬・人ともに水死その数を知らずなり。西部(中島郡)の牧馬は、高水のため大河その流れを変え数か村は流失、川底に相成り、馬の殖も払底、容易に入手致し難く候なり。
先日小折村生駒八右衛門、三輪兵部の御両所罷り越し、領内困窮の様体切々申し聞かされ候。聞き及ぶところへ「勢州は桑名郡の一郡を残すのみ、ことごとく筑前守取り抱え候由。犬山を始めとして川筋竹ヶ鼻、加賀の井、下の郡まで、上郡(丹羽郡)は半部取り抱え、御領地半分は敵方の手に陥り、御家来衆食邑を失い、日増しに困窮、兵糧にも事欠く次第。なおこの上合戦延引候哉。領内百姓ども飢渇窮亡、為に家を捨て逃散の者多く、田畑は荒廃籾種を失い、田の植え付けも成らず、このままに打ち過ぎ候哉。下々の者家抱えがたく、それがしども爰かしこ駆け廻し、兵糧・御馬・雑手の調達に苦心候なり」と申されるなり。(武功夜話)
小牧長久手の戦いのとき、加賀野井城から長島城に入った小坂孫七郎に、6月7日、織田信雄から桑名浜田城への出陣命令が出ました。しかし、出陣の準備が整わないので、小坂孫七郎は息子の助六を使って前野喜左衛門に馬の調達を依頼しました。そのときに、依頼された前野喜左衛門が、使いの助六に語ったという内容です。
また、誰は語ったものか分かりませんが、以下のようにも書かれているそうです。
苅田取りの責め合いに候
「今度の取り合いは戦場の決戦にあらず、苅田取りの責め合いに候」(武功夜話)
「上方勢、余勢をもって押し出し来たり、夜中を厭わず苅田掠め取る事おびただしく罷り出で、追い散らせども雑人ども手当たり次第に放火狼藉の限りを尽くし、百姓ども安堵の色を失い難渋に陥り候。」(武功夜話)
信雄側の計算で丹羽郡の地で約3000石の米が秀吉勢に掠め取られた、と筆者の伊藤氏は述べています。
さらに、この年の9月、濃尾一帯は暴風雨に襲われたそうです。
「真桑は風のために破損、蚕子も掃き立たず、大豆等の小物も不作、茶は少々拵え候も商人来たらず。この年はまことに不運の歳、在々村々は困窮に罷り在り候。」(武功夜話)
つまり、小牧長久手の戦いによって在地の耕作者(百姓、農民??)は、暴風雨の影響もあり、困窮を究めたと言うのです。秀吉が勝った、家康が勝ったという武将の目線だけで戦いは考えてはいけないことが分かります。