愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

瀬木城(2) 豊川市

2017年01月26日 14時52分33秒 | 豊川市
掘、土塁が
案内掲示板を左奥に進みますと神明社があり、そこが瀬木城址です。すぐ左に堀の一部が見えました、

堀の一部(②)

神社の中に入っていきますと常夜灯の後ろに土塁が見えました。

土塁跡(③)

その反対側には左側の土塁と対をなすように土塁がありました。

土塁跡(④)

さらに奥には神明社の社殿があり、その左に土塁がありました。

社殿左の土塁(⑤)

土橋と大きな堀
そこから左側の大きな堀に入り、奥へと進んで行きますと、「愛知の山城ベスト50」で「貴重な遺構である」と紹介されている土橋がありました。

主郭北西部の土橋(⑥)

確かに土橋でしたが、思っていたより低く昔はもう少し高かったのだろうと思いました。

この土橋から左に入り大きな堀を歩きました。浅めでしたが、とても大きな堀でした。雨が降ると水堀になるだろうということでした。

主郭西側の堀(⑦)

堀を出て再び曲輪の中に戻ると社殿の後ろに大きな土塁の跡がありました。

社殿の後ろの土塁(⑧)

瀬木城は、部分的に土塁や堀が残っていてそれ自身は素晴らしかったのですが、全体的な遺構は分かりにくかったです。特に東側半分は破壊されているということで大変残念でした。参考までに「諸国古城之図」の瀬木城を掲載します。


「諸国古城の図 三河宝飯 瀬木」ただし、この地図は上が南になっていますので、上下反対に見ると分かりやすいです。

以上瀬木城でした。

瀬木(せぎ)城(1) 豊川市

2017年01月24日 16時37分27秒 | 豊川市
さて、同じ日(2017年1月16日)もう一つの城を見学しました。瀬木城です。

牧野古白ゆかりの城
瀬木城は、牧野古白ゆかりの城です。牧野古白とは、東三河の国衆です。もともと牧野氏は、三河守護の一色氏の家臣でしたが、主である一色時家を討った波多野全慶を明応2年(1493)に倒し、一色城に入りました。そのときまで古白は瀬木城にいましたが、次男の成勝に譲ったそうです。

今は神明社
瀬木城へは豊川インターから、151号線を南の方に行きます。途中「馬場」の交差点を左折して、細い道を曲がりくねりながら行きました。もっといい道があったかもしれません。どちらにしても、瀬木城跡には「神明社」が立っているので、それを目標にするとたどり着きます。

瀬木城へのルート(Yahoo地図を元に作成しました) 


瀬木城の標識。南側から撮影。


瀬木城の案内掲示板(①)


瀬木城イメージ図(「愛知の山城ベスト50」をもとに作成しました。)

一宮砦跡(2) 豊川市

2017年01月20日 17時42分21秒 | 豊川市
大きな土塁
さらに曲輪に沿って、今度は南の方に行きますと曲輪東部の土塁跡がありました。この土塁の内側になにやら堀のような跡もありました。実は曲輪北の方にも細く堀のようなものがあったのですが、「調査報告書Ⅲ」に堀についての記載がなかったので、後世に刻まれたものなのかも知れません。


曲輪東部の土塁と堀跡(?)(④)

さらに曲輪を南の方に歩いていきますと、曲輪南東部に大きな土塁がありました。写真では竹やぶに隠れて小さく見えますが、実際に見るとかなり大きな土塁であることが分かります。


曲輪南東部の土塁(⑤)

堀切かな?
この土塁を東の方に進みますと虎口があるとのことでしたが、残念ながら確認することはできませんでした。その代わり曲輪南側にすごい堀切があることを見つけました。ただし、下に降りて堀底を見てみましたら、アスファルトが貼ってありました。おそらく浸食防止のためだと思われますが、人の手が加わっていることが分かりました。参考文献には例によって記載がないので、後世にできたものかも知れません。


曲輪南の堀切(⑥)

なお、一宮砦は「諸国古城之図」で取り上げられています。


諸国古城の図 三河宝飯 一宮

この図では主曲輪の南に馬出が描かれていますが、現状は空き地になっていて、その面影はありませんでした。

当日は、北風が冷たく大変寒い日でしたが、立派な枡形虎口が見れてよかったです。

一宮砦跡(1) 豊川市

2017年01月19日 21時06分30秒 | 豊川市
大雪も月曜日には一息ついたようなので、さっそくお城めぐりに出かけました。豊川市の一宮砦跡です。

三河にも一宮はある
一宮といえば、尾張の一宮を思い浮かべる方が多いと思いますが、三河にも一宮はあります。

昔の国には国ごとに一宮、二宮というふうに神社があったからです。尾張の方は区別するために「尾張一宮」という場合もあります。JRの駅は尾張一宮といいます。またPAに尾張一宮があります。ちなみに尾張国の一之宮は真清田(ますみだ)神社です。

一方三河でもJRの駅は三河一宮となっています。そして三河国の一之宮は、砥鹿(とが)神社です。

一宮後詰の事
この一宮砦のエピソードは、やはり「一宮後詰」の話です。

「三河物語」
今川氏真が牛久保城に1万の兵を構え、一宮砦を5千の兵で攻めてきました。家康は、3千の兵で後詰をし、「氏真、男ならば出てきて戦をせよ」と本野ヶ原に進出しました。そして一宮砦を守り、そこで一泊した後に戻ったということです。今川氏真は、家康に押されてまともに戦をせずに退散したそうです。

この話は、江戸時代のいろいろな軍記物に描かれていて、いま「国立国会図書館デジタルコレクション」で、そのお話を見ることができます。

砥鹿神社のすぐ近く
さてこの一宮砦跡に行くには東名高速の豊川インターを降り、国道151号線を北の方に行きます。しばらく走りますと、砥鹿神社前という交差点があります。その交差点を右に曲がりますと、砥鹿神社の駐車場に行き当たります。

一宮砦跡への道案内(Yahoo地図で作成しました)

砥鹿神社の駐車場に車を停め、南西の方向に歩いていきますと、左側にすぐに一宮砦跡の看板を見つけることができます。

一宮砦跡の看板

「愛知県中世城館調査報告書Ⅲ」の概要図を見ながら見学しました。


一宮砦跡イメージ図(愛知県城館調査報告書Ⅲを参考に作成しました)

立派な内枡形虎口
看板のすぐ横に入り口があり、入ると立派な内枡形の虎口がありました。

内枡形の虎口(①)城の中から撮影

虎口から中に入り北の方へ行きますと曲輪の北側が切り立っていました。これは切岸ではないかと思いました。

曲輪北側の切岸(②)

さらに曲輪の中を東の方に進みますと曲輪が出っ張っている部分があり、おそらく横矢ではないかと思いました。ここから曲輪の北、東から攻めてくる敵を弓矢で攻撃したのではないかと思いました。

曲輪北東部の横矢(③)

(つづく)

加茂一揆(1)

2017年01月16日 09時43分20秒 | 加茂一揆
久しぶりに愛知県でも雪が降りました。しかも週末に合わせたように。史跡めぐりをと考えていましたが、残念ながら、雪の為にかないませんでした。おとなしく家で読書を、ということになりました。

1月15日早朝、愛知県尾張地方の雪

そこで、以前から気になっていた加茂一揆について調べることにしました。

加茂一揆は、江戸時代の末期に愛知県西三河部旧加茂郡一帯に起きた大規模な百姓一揆です。この一揆には、大変興味があり、ずいぶん昔になりますが、数名で車による一揆見学をしたことがあります。高校の教員の方に案内していただき、だいたい一揆が通った経路を回りました。その時に一揆の首謀者とされる松平辰蔵の家(跡地)やお墓を見させていただいたことが、今でもよく覚えています。

そこで、加茂一揆の有名な資料である「鴨の騒立」という文をやさしい文に直し、少しでもこの一揆の様子をブログの読者の皆さんに知らせたいと考えました。

「鴨の騒立」は、西尾藩の神官渡辺政香という人が書いた加茂一揆の史料です。渡辺政香は、博学で三河地方の歴史や地理をまとめた「参河志」という本も著しています。

なお、原文は当然江戸時代の文字で書かれていて、残念ながら私は解読できませんので、以下の書き下し文になっているものを元の文としました。

高橋磌一(しんいち)・塚本学 校注「鴨の騒立」日本思想史大系「民衆運動の思想」(1970年 岩波書店)所収

鴨の騒立(1)
 三河国加茂郡一揆のそもそもの起こりを考えてみると、天保7年(1836)8月13日のことである。昼の3時ごろ、雷がなり、暴風雨がおこった。夕方の5時ごろには、風が激しく吹き、竹や木はもちろん、家までが多く吹き倒された。夜の7時ごろになって、ようやく風が収まった。わずか4時間ぐらいの間に全国いたるところの国が凶作になり、米穀の値段が次第に高騰してきたので、(8月ごろには、十両に12~3俵といっていた)8月21日には、甲州に一揆があり、富豪たちを打ち毀した。しかし、江戸の役人や隣国の諸大名や役人が出動したので、8月25日には甲斐の国が静まった。


「鴨の騒立」の書き出しです。
加茂一揆の原因としてその年の8月に暴風雨があり、凶作となったことが挙げられています。この凶作は、「天保の飢饉」といって、江戸時代では大きな飢饉の一つに数えられています。ウィキペディアでは、寛永、享保、天明、天保を4大飢饉としています。また、この天保の飢饉は1833年と1836年に大きな凶作があったとしています。ちょうど「鴨の騒立」でいう天保7年のことです。
この年は、春から雨がちで天候不順であり、稲の生育が悪く、そこへとどめのように8月に暴風雨が吹いたので、壊滅的な打撃を受けたと言われています。

 この飢饉では餓死者を出さなかった藩があったことも記しています。以前ブログで書いた田原藩です。渡辺崋山によって「報民倉」が設けられ、救済にあたったからです。

 次に米穀の値段ですが、「農民騒擾の思想史的研究」(布川清司 1970年 未来社)に、1升当たりの米の値段の推移についての表がありましたので、1両あたりの米の量に換算して掲載します。これをみると、天保8年の1両につき2.5斗ととんでもなく高騰していることが分かります。


 最後に、甲州一揆についてですが、「日本思想史大系」の注意書きには、「郡内騒動と呼ばれる大打ちこわし。都留郡地方に始まり、ほぼ甲斐一国に及んだ」と書かれています。おそらくこの一揆の方が早く始まっているので、加茂一揆にも何らかの影響を与えたのではないかと思われます。