愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

野場城 額田郡幸田町

2013年07月25日 06時07分50秒 | 幸田町
夏目吉信、乙部八兵衛に裏切られる
 野場城は「三河一向一揆」で、夏目吉信、乙部八兵衛、大津半右衛門がたてこもった城です。野場城を攻めたのは、深溝松平の松平伊忠です。一揆勢と伊忠勢での小競り合いありましたが、一揆側の乙部八兵衛が伊忠に寝返り、兵を引き入れたので、大津半右衛門は針崎の勝鬘寺に逃げ、夏目は野場城の土蔵に隠れることになってしまいました。そのときに乙部八兵衛が伊忠に命乞いをし、そのことを家康が知り、家康によって夏目吉信は命を助けられることになったといいます。以後、夏目は家康の家来となり、後の三方が原の戦の時には、家康の身代わりとして戦死することになります。(「松平記」より)
また、夏目吉信がたてこもったのは、夏目の居城である六栗城という説もあります。

野場城土塁跡

本光寺 額田郡幸田町

2013年07月24日 06時15分48秒 | 幸田町
深溝松平氏の菩提寺
先に紹介した黄金堤の前に、本光寺を訪れました。本光寺は、深溝松平氏の菩提寺で、歴代松平氏の墓所となっています。

深溝松平家は、1代から4代までは深溝にいましたが、第5代忠利のときに豊橋吉田藩に移動しています。その後、刈谷藩、福知山藩と移動し、1668年(寛文8年)に、島原藩に移動しました。1747年(寛延2年)宇都宮藩にいったん移動しましたが,1774年(安永3年)再び島原藩に移動し、明治維新となったそうです。



1代から4代までの墓(左から4代家忠、3代伊忠、2代好景、初代忠定)
島原の地から
 島原藩となったときにも、歴代城主の遺体がはるばる島原の地からここまで運ばれて、この本光寺に祭られたそうです。

黄金堤 西尾市

2013年07月22日 06時27分30秒 | 西尾市
吉良上野介は善政をした?
7月14日、深溝城の次に「黄金堤」を訪れました。

この堤は、忠臣蔵の敵役で有名な吉良上野介(吉良義央)が作ったと案内板には書かれていました。

案内板の説明
史跡 黄金堤
吉良さん(吉良上野介義央)の善政の最たるものは、この黄金堤の築堤である。
当時、増水のたびに隣藩上流平野の水がこの細い谷を抜けて南下し、今の吉良町の新田地帯はそのつど大水に悩まされた。
吉良さんは、この山間の約180メートルを堤防でふさぎ、下流八千石の田園を水害から救った。
 当然、隣接西尾藩はこの工事に強く反対したが、吉良さんは、決壊したら二度と築堤しないと、誠意をつくして約束したという。
 領内老若男女こぞって工事に参加し、一晩で完成したと伝える。ひき続き関連の用排水路が整備された。
 黄金堤の美称は、吉良さんへの尽きない思慕である。
西尾市教育委員会




黄金堤の石碑と吉良義央の像

吉良上野介の汚名を晴らしたい
「吉良さん」と呼んだり、「老若男女こぞって参加し」とか、西尾市教育委員会(旧吉良町教育委員会)は、吉良上野介を賞賛してることが分かります。しかし、上野介はほとんど江戸にいて、領地にはあまり足を運んでいないという説もあります。真偽のほどは分かりませんが、吉良上野介を領主に仰ぐ吉良町としては、忠臣蔵の汚名を少しでも晴らしたいと思うのは間違いないと思います。

深溝城 額田郡幸田町

2013年07月21日 09時50分52秒 | 幸田町
7月14日、幸田町の歴史に詳しい歴史好きの友人Dさんと、13日に一緒に名古屋城などを訪ねた城に詳しいSさんと3人で幸田町の史跡を巡りました。

深溝城
はじめに訪れたのは、深溝城です。
深溝城は、鎌倉時代に大場氏により築城されたといわれています。そののち、松平氏が代々拠点としました。(いわゆる深溝松平氏です)城主は、松平忠定、好景、伊忠、家忠、忠利と続き、忠利のときに豊橋の吉田城に移ったようです。江戸時代には、陣屋となっていたようです。
松平家忠は、有名な「家忠日記」を遺しています。


深溝城之図
Dさんによれば、この「深溝城之図」は、深溝郷土資料館にあり、元の図は失われましたが、大竹森一さんという方が書き写したものだそうです。

土塁跡

現在残っているのは、写真のような約5メートルほどの高さの土塁跡だけでした。手前の水田は、堀を埋め立てて作られたのではないかとDさんはおっしゃっていました。左奥に見えるだいだい色の屋根は工場の屋根で、深溝城の多くの敷地はこの工場になっていました。

名古屋城 名古屋市中区

2013年07月15日 09時21分50秒 | 名古屋市中区
6月30日と7月13日に名古屋城を訪れました。7月13日のほうは、城に詳しい方とご一緒させていただきました。

天守閣です。

本丸御殿
はじめに本丸御殿を見ました。



本丸御殿の玄関部分です。奥の白い建物は、まだ外観が完成していないようです。中の部屋を公開していました。

中は、金箔がまばゆいくらいに輝いていました。

不明門

「ふめいもん」と呼ぶそうです。別名「あかずの御門」というそうです。天守閣の東側にあり、その外側に鑓が並んでいました。天守閣のすぐ近くということで、厳重に防御されていました。

石垣の刻印

どこの藩(石屋)の刻印でしょうか。同行者の説明によりますと、天下普請でいろんな藩がこの名古屋城の建設に関わっていましたが、石垣の石が期日に間に合わないと、他の藩の石をこっそり盗むものがあったそうです。それを防ぐために刻印をしたそうです。

那古野城址

二の丸にあった「那古野城址」の石碑です。ここに、大永(1521~28)のはじめに今川氏親が城を築いたそうです。それを織田信秀が奪い、天文4年(1535年)に織田信長が譲り受けたそうです。弘治元年(1555年)に、信長が清州に移ると織田信光が居城しましたが、やがて廃城になったと案内板に記載されていました。