愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

朝倉山城址 福井県福井市

2016年05月16日 15時32分18秒 | 福井県
5月15日、私がお世話になっています「若越城の会」の総会がありました。総会では今年の秋の見学会について愛知県を中心に行われることが報告されました。名古屋城や小牧山城、岡崎城、長篠城などを見て回る予定です。

さて、総会の後は山城の見学会です。今回は、福井市の朝倉山城址です。

朝倉山城の位置(地理院地図より)
朝倉山城とは

棗(なつめ)公民館より朝倉山を臨む。

「『越前古今城址考』に『四天王覚書朝倉玄蕃助景連 深坂村ヨリ九町計南方山上二十五間四方計之所掻上之形有 自福井四里半計』とある。朝倉景連は朝倉氏の一族で、一乗谷奉行衆の一人である。また、永禄4年(1561)朝倉義景がこの近くの三里浜で犬追物を興業した際奉行を勤めた。「朝倉始末記」には「・・・天正3年(1575)深坂の朝倉山を城郭に拵える」とあり、織田信長の越前侵攻に対して一揆勢が立て籠もったことが知られる。なお、この北麓、五斗坂の登り口を通称「輪ノ内」と呼び居館跡とされる。(現地案内板より)

城を築いたひとは朝倉玄蕃助景連という人らしいです。景連は、一乗谷朝倉氏の家臣だったようです。また、天正3年信長の越前一向一揆攻めの時に朝倉山に城が構えられたようです。

「同三年(天正三年)アラタマノ年立帰テ二月中旬ニモ成ケレバ・・・・然レバ、信長殿越州ヘ進発アルベキトテ、敦賀・若州・丹後ノ兵船ヲモヨヲシ、棗浦・湊浦ヘ可被寄ノ由風聞シキリナル間、然ラバ城郭を構ヘラルベキトテ、大将筑後ノ法橋豊原寺ヨリ下向アリ。湊児嶋九郎兵衛尉処二被居ケリ。其威勢諸人群集少縁ナラズ。即安嶋浦ノ三保嶋、又三郷ノ高山・浅蔵山ヲ城ニゾ拵ラレケル。・・・」
越州軍記四(日本思想体系17 「蓮如 一向一揆」 岩波書店)

天正3年、信長が越前攻めを計画しているとの噂が広がり、その対策として一向宗の大将下間筑後守が築城したようです。(少なくとも朝倉景連の城が改築されたようです。)同時に、雄島、高須山にも築いたようです。本文にもあるように、海上の守りとして造られたようです。

福井臨工
棗(なつめ)公民館を出発点に登城開始です。その横に面白い建物がありました。

棗住民センター・福井臨工記念館

「福井臨工」という言葉を見て、たいへん懐かしさがこみ上げてきました。ずいぶん前に、「数十億円の釣り堀」として有名になった場所です。税金をたくさん使って工場を誘致し、ここに臨海工業地帯を造ろうという計画がありましたが、結局工場誘致はほとんどなく、巨大な防波堤が残って、それが、釣り人の間で格好の釣り場となったことから、このように言われたらしいです。
この棗地域も福井臨工と関わりがあったようです。


登山道案内


朝倉山城址概要現 地案内板(赤い字等は書き加えました)

石垣跡
さて、この山城の一番の見どころは、石垣跡です。


本曲輪北の切岸に石垣の跡らしいものがありました。これは、石垣の跡であると、城の会の方は説明しておられました。よく見ると、あちこちに石垣の石らしきものがごろごろしています。また、その東側には大手の虎口があったのではないかともおっしゃっていました。

大手虎口にも石垣

手を広げて虎口の大きさを説明している城の会の方


また、この地は太平洋戦争中は「防空監視哨」でもありました。その施設を造るときに、石垣を除去したのではないかとも話されていました。

展望台
さて、本曲輪には展望台がありました。


その展望台に上ってみますと、大変良い景色が見られました。

日本海が一望のもとに見られました。

このことから、この城はやはり日本海の見張り台のような役割をもっていたと思いました。また、この城の南側にはいくつもの腰曲輪があり、一揆勢が立て籠もるのにはふさわしい構造になっていることもわかりました。

上平寺城(3) 滋賀県米原市

2016年05月09日 14時41分50秒 | 滋賀県
弥高寺本堂
上平寺城を後にして、次の目的地「弥高寺跡」に向かいました。

弥高寺本堂跡は、広い台地状の遺構でした。中央の部分は出入り口です。

ここは大変眺望の良いところでした。

奥に見えるのは琵琶湖です。手前に見える山も山城の跡があったと説明されましたが、残念、山城の名を忘れてしまいました。

僧坊跡
本堂の下には僧坊の跡が段々畑のように続いていました。

僧坊跡

大堀切
また、本堂の背後の山には、大変大きな堀切がありました。

本堂背後の大堀切。ちょうど人が写っていますので、そのスケールの大きさが分かります。

大門
僧坊を下っていきますと、これも大きな大門という枡形虎口が残っていました。

大門跡

悉地院
最後は「悉地院(しっちいん)」というお寺に到着しました。

悉地院

弥高寺もまた立派な遺構がありました。背後の大堀切に大門という枡形虎口です。弥高寺が山城としての機能を持っていたということがよく分かりました。

上平寺城(2) 滋賀県米原市

2016年05月06日 16時06分10秒 | 滋賀県
以前「上平寺城」の見学記を掲載しましたが、途中になっていましたので、続編を掲載します。

以前の「上平寺城」記事


上平寺城址の概要(滋賀県教育員会パンフレット「京極氏遺跡群」より)

南北に細長く、曲輪は南の方から3つ連続してあります。一番南の三の丸には畝状の竪堀がいくつも伸びています。

畝状竪堀の一つ


竪堀も大きくて雄大でしたが、私は木が曲がっているのに感動しました。この辺りは、冬雪が降るので、その重さによってこのように弯曲したのだと思いますが、すごい生命力だと思いました。


三の丸


三の丸と二の丸の間の堀切


二の丸の周囲の土塁


本丸南西の竪堀


本丸


上平寺城はまずその立地に驚かされます。よくもこんな高いところに城を造ったもんだと感心しました。そして、そのスケールの大きさにも驚きました。土塁や堀切がとても大きかったです。さすが京極氏と思いました。

孫根(まごね)城址 豊田市

2016年05月04日 06時26分41秒 | 豊田市
さて、大沼城址を降りてもまだ時間的に余裕があったので、近くの孫根城址を見学することにしました。

孫根城とは
案内板から
(前略)梶氏系譜によると、初代城主は梶金平信勝で、天文5年(1536)7代城主与吉郎信家のとき、足利の軍勢に攻め落とされました。その後の城主本多定之進忠知の代の元亀2年(1571)、孫根城は、甲斐の武田軍に攻められて落城しました。城主忠知は無住となっていた大沼の青松院に逃れ、出家して円教と改名し、青松庵を修復して寺名を本多山等順寺と改めたと伝えられています。

ここも武田氏に攻められています。


孫根城の大まかな概要図

堀切

Ⅲ郭とⅣ郭の間の堀切


Ⅱ郭とⅢ郭の間の堀切

階段状で石積みのあるⅡ郭
Ⅱ郭は不思議な構造になっていて、階段あるいは腰曲輪のようになっています。そのはじめの段(Ⅰ郭から見れば4段目)の下に石積みがありました。「愛知の山城ベスト50」では、Ⅱ郭の2段目に石積みがあるとのことでしたが、確認できませんでした。

Ⅱ郭4段目の下の石積み

Ⅱ郭をどんどん登っていきますと、Ⅰ郭に突き当たります。左側に土塁のようなⅠ郭への登坂路のような遺構がありました。これを右に曲がってⅠ郭に入るようになっていました。


Ⅰ郭

Ⅰ郭の案内標識

孫根城は、迷わないように道しるべが要所要所にあり、大変見学しやすかったです。恐れていたヘビも出ませんでした。

大沼城址 豊田市

2016年05月03日 07時11分17秒 | 豊田市
大沼城址は豊田市(旧下山村地域)にあります。けっこう遠かったです。連休でしたが、意外に道は空いていました。

大沼城とは
大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に、木村東見入道安信が築いたとされる山城で足助の真弓山城(足助城)や近くの田代城などとともに、足助七城の一つに数えられていました。
(中略)
初代城主木村安信は、信仰あつく城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2年(1533)に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2年(1574)4月―元亀2年(1571)とする説もある―大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。
そして、天正3年(1573)には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が、大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて、菩提寺としました。親清の没後天正11年(1583)摘子の近正が跡を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功を立てました。そして、天正18年(1590)家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5000石を賜って三河を離れました。大沼城はその頃廃城になったと考えられます。
下山村教育委員会
(現地案内板)


大沼城の概要図。大沼城は本曲輪を中心に南方向と東方向に、かぎ状に曲輪がのびています。

三の丸

入り口から少し登ると、三の丸がありました。

腰曲輪

これは、二の曲輪と三の丸の間の帯曲輪です。

二の曲輪

二の曲輪

土塁に思う

本曲輪南西側の下の帯曲輪。この帯曲輪の北端に土塁がありました。この土塁は、「愛知の山城ベスト50」で「昇降路を兼ねていたとも考えられる」解説していました。しかし、この土塁と本曲輪の高さの差は、2メートル以上あり、ここから本曲輪に登るのはけっこう辛いものがありました。(土塁が風雨で低くなったのかもしれませんが)また、この土塁の外側(北面)は、切り立った崖になっていて、ここから敵が容易に侵入できないと思いました。この土塁は、何のために造られたのか、不思議に思いました。

本曲輪

本曲輪。標識がありました。

ヘビとの遭遇
さて、見所の一つ本曲輪と東側の曲輪群の間の堀切を見ようと足を踏み入れようとした、そのときヘビに遭遇してしまいました。

まだら模様があり、マムシかと思いましたが、頭が意外と小さいので、マムシではなく、ヤマカカシの仲間ではないかと思いました。いずれにしても、ヘビは苦手なので、竹でしっしと追い払って、先へ行くことにしました。今日は、最高予想気温が28℃、もう夏の気温です。これから山城を探索すれば、当然のようにヘビ、ハチ、ヒルの類が襲ってきます。5月の連休が山城訪問の限界だとつくづく思いました。

堀切

本曲輪北側の堀切


堀切から見た本曲輪。堀切が深いことが分かります。

東側曲輪群

東曲輪群の中心の曲輪には、こんな看板がありました。明治時代に、八沢で不審火が続き、美濃串原の「お犬さま」を祀ったところ、おさまったとのことです。


お犬さまの祠