愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

和田城 新城市

2021年11月22日 11時37分59秒 | 新城市
久しぶりの投稿です。
すいません、すぐに止まってしまって。

さて、今回は新城市、和田城です。
三河二葉松に以下の記事があります。
「和田村古城 奥平出雲守後名字改和田」

和田城をネットで調べると所在地が「新城市保永字中島3-2」と出ており、和田の地名がありません。そこで、江戸時代の地図を調べてみました。
明治2年の三河国全図です。

三河国全図(明治2年)(愛知県図書館>デジタルアーカイブ>絵図の世界>諸藩管轄絵図

その中の現在の新城市保永の辺りを調べますと、ありました「和田」が。

和田村

赤い楕円形の中に村名が書いてあり、右から「臼子」「和田」「見代」上へいって「松平」「赤羽根」でしょうか。つまりこの地域は、江戸時代に和田と呼んでいたわけです。和田と臼子は道でつながっていることが分かります。つまり、この地は作手奥平氏にとって臼子城と共に南の防衛ラインだったわけです。また、和田、臼子には城跡の記号が記してあります。古城があるという意味でしょうか。「市場」のまわりには3つも城跡の記号があります。「市場」は、現在の地名では「清岳」で亀山城のある所だと思います。3つの城跡の記号は、古宮城、亀山城、石橋城でしょうか。

さて和田城ですが、築城は奥平勝次となっています。もともとは作手奥平家のようです。作手奥平氏の始祖である奥平貞俊の次男に奥平貞盛という武将がいて、和田に領地を与えられ、和田奥平氏となったそうです。その後、2代貞寄、3代勝次と続き和田城ではなく、岩波城を守り、3代目の勝次が和田城を築いたようです。

和田城は、南の山から舌状に延びた麓辺りにあったと思われます

和田城付近のグーグル航空写真(北から見た航空写真<地球表示(やや立体的になっています)>

ここに城跡の遺構をかぶせると

和田城

明かな遺構は、中嶋という地域を東西に走る道の南側の山に掘られた横堀と土塁です。

横堀と土塁

山を登っていくと竪堀っぽいのもありましたが、何か不自然で、材木を運搬する道ではないかと思いました。

材木運搬道?

道路より北側はまさに舌状の台地になっていました。後世の遺構かもしれませんが切岸のような地形も見られました。

舌状台地東側の急斜面(切岸?)

なにはともあれ、素晴らしい横堀が見られて大満足で、ついでに奥平貞盛の宝篋印塔があるというので、見に行くことにしました。もっと大きいのをイメージしていましたが、大変ミニチュアな感じで50cmぐらいの高さでしょうか。二つ並んでいました。

奥平出雲守貞盛の宝篋印塔(供養塔の一種です)
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臼子(うすご)城 新城市

2021年09月02日 09時11分34秒 | 新城市
 コロナも極まれりという感じです。いったいいつになったら収まるのか、まったくお先が見えません。しばらく活動を停止していましたが、季節も少しずつ良くなってきましたので、そろそろ再開しようかと思います。
前回の更新が21年4月なので、約半年ぶりです。

臼子城の紹介
臼子城について、「三河国二葉松」に以下のコメントがありました。
 佐惣大膳或ハ佐伯大膳ト書シ物モ有、白雪云、此城ヲ見物ス、大手ヲ杵坂ト云、其傍ニ蓑石ト云モ有、後ニ此大手所ニ奥平休可ト云兵法ノ師住ス、此休可と戦シ石地蔵杉山ニ有、奇特アリトテ今モ信仰ス、白雪モ旧子カラ杉山之石地蔵へハ度々行。

 佐惣大膳は、作手奥平氏の家臣だそうです。奥平氏はもともと作手亀山城が拠点でした。そこから東方面、新城の方へ行く道がありますが、臼子城は、山を越え、新城の平野が開ける起点の位置にあります。

臼子城の位置(グーグルマップより)

 天文14年(1545) 新城古城 の 菅沼定継 に攻め滅ばされました。その後、奥平貞勝の嫡男貞能が菅沼氏の臼子城を攻めて城を取り戻し、先の城主佐宗勝重の子重昌を城代としました。奥平休可という武将もこの臼子城の城代として入りました。「兵法の師」と三河国二葉松が記載しているので、軍師だったと思われます。(白雪とは、三河国二葉松の筆者の一人です)
天正18年(1590年)、奥平氏が徳川家康 に従って関東に下り、臼子城は廃城となりました。(参照、ネット「東三河を歩こう」)


臼子城概要図(原図:高田徹氏、愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)より)
上が西になっています。

臼子城探索
 臼子城は、国道301号線の側の小高い小さな丘の上にあり、すぐ分かりました。国道に登り口が接していて、そこから登りました。登りきると墓地がありました。この墓地が櫓台のようです。下の曲輪より2メートルほど高くなっていました。今はまわりが木で見通せなくなっていましたが、昔は新城方面が見渡せたのでしょう。

櫓台

櫓台から下の曲輪は、杉林になっていました。

曲輪

 櫓台下の曲輪は結構広く、ここが本丸と思わせました。というか単郭のようにも見えます。
この曲輪を西の方(地図では上)に歩いていきますと、南下の方(地図では左)に腰曲輪が見えました。腰曲輪はこの下にもあり、二段になっていました。

南側の腰曲輪

曲輪の中を西(上)へ進みますと、一段低い曲輪があります。大きさや南(左)の帯曲輪との関連から、ここが虎口かも知れないと思いました。

西側の一段低い曲輪

曲輪を北(右)の方に移動し、下を見ると立派な切岸がありました。

北側斜面の切岸

北側斜面を見ながら、今度は東の方(下)、櫓台のあった方に進んで行きますと、北側(右)に急な谷が見えました。これは、おそらく堀切ではないかと思います。ネットで堀切についての言及がないので、心配ではありますが、山側からの敵に対して切岸、堀切を設け、曲輪への侵入を阻止していたと考えることができます。

北側の堀切

それに対して、平野側(南側)は腰曲輪を設け、弓矢、鉄砲などで防御したのではないかと考えられます。

臼子城は、はじめ櫓台だけが残る城かと思いましたが、腰曲輪や堀切などの遺構が感じられ、見ごたえのある城でした。
コメント (2)
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新城城 新城市

2021年01月26日 17時35分32秒 | 新城市
新城城は、城がダブっていて、なんか変な感じです。でもそれには、理由があったようです。
新城市のHPでは、以下のように説明しています。

新城の由来
「新城の名前の由来は、長篠・設楽原の戦いで功績のあった奥平信昌が徳川家康の長女亀姫をめとり、現在の新城小学校の地に新しい城を築いたのが、「新城城(しんしろじょう)」です。天正4年(1576年)のことでした。「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、それより44年前の天文元年(1532年)に菅沼定継という殿様が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれており、それと区別するためで、これが「しんしろ」の名の由来です。」

いやあ、それなら「新新城」になると思いましたが。
まあそれはさておき、新城小学校を訪ねました。「ごめんね、職員室はどこかな」遊んでいる子どもに聞いて、職員室に行きました。「城めぐりをしているものですが、写真を撮らせてもらっていいですか?」教頭先生に対応していただき、「グランドの南に2つ建物があります。その間の辺りに少し残っているそうです。」丁寧に、遺構の所在まで教えていただきました。


新城城イメージ図(ヤフー地図に加筆)

土塁跡

グランド南の土塁跡

土塁跡には、看板と「新城城址」の石碑が建っていました。

堀跡

土塁外側の堀

けっこう深い堀でした。

土塁?(新城開府400年)
グランドの外側(南側)を通ってプールの南側まで来ると、また土塁らしきものが見えました。そこには、「新城開府400年」の記念碑が立てられていました。奥平信昌による築城が1576年なので、このイベントは1976年に行われたのでしょうか。そこからまた45年の歳月が流れています。

新城開府400年記念碑

ここから方向転換し、東へ進んで行きました。すると道の東側がこども園ですが、さらにその東側の川との境に堀らしきものがありました。(図に示しました)

新河岸の渡し跡
道に戻って、坂を下りていきますと、「新河岸の渡し跡」という所に出ました。ウィキペディアに「慶安元年(1648年)に丹波国より菅沼定実が7,000石で入って旗本(交代寄合)となり、同時に陣屋を構えた。定実の時代に、川舟と中馬の中継地点として栄える基盤が整えられ、新城陣屋周辺の商業地は山湊(さんそう)と称された。」という記述がありましたが、湊で栄えた所でもあったことが分かりました。いまは、「桜淵公園」になっていて、桜の名所だそうです。

新河岸の渡し跡

なにも遺構はないのかと思っていましたが、土塁や堀など結構見ごたえがありました。
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馬呂遺構 新城市

2019年05月03日 05時44分28秒 | 新城市
馬呂というのは、このあたりの地名のようです。小馬呂、大バロといった地名がGoogle地図に出てきました。亀山城の南東部の林の中です。

亀山城の近くに「武家屋敷址」という標識がありました。

「武家屋敷址」標識

このあたりを歩いてみましたが、武家屋敷跡にありそうな、土塁や堀の跡はありませんでした。そこで、林の中を進み、「大バロ」という地名の場所に行きました。

すると、小さな登山道の左右に土塁を巡らせた遺構がありました。

土塁の遺構

土塁は四角くまわっていて、ちょうど屋敷の形のように見えました。不思議だったのは、その内側に溝があったということです。溝(または堀)は、土塁を造るときに掘りますが、基本的に曲輪の外に堀を巡らせます。しかし、内側に溝みたいに掘ってあるということは、この溝は土塁を造る際に掘った跡だと思いますが、堀としてではなく、道として活用していたのではないか、とふと思いました。屋敷内の通路として、また一つの区画に屋敷が複数あれば、それらの屋敷への通路として溝を使っていたのではないか、と思いました。

また、奥の山との境界に切れ目が入れてありました。

山と屋敷の境目

ということで「馬呂遺構」は土塁の跡からして亀山城に詰めていた家臣の屋敷の跡ではないかと思いました。

ネットでは「詳細不詳」とのことでした。新城市で調べてくれることを期待しています。

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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姫屋敷 新城市

2019年05月02日 05時05分00秒 | 新城市
姫屋敷は、蔵屋敷からのびる県道437号線の北側にあるそうです。
田んぼや畑の中に林がありました。この中のようです。


姫屋敷の位置(Google航空写真より作成)

林の中に北側と南側の2か所土塁の跡らしきものを見つけました。写真の黄色の破線は、そのあたりに土塁があったということで、土塁そのものの位置ではありません。


林の北側の土塁の跡らしきもの

ぐるっと囲まれていましたが、西の方に小さい曲輪、東の方に大きめの曲輪があるように思われました。


林の南側の土塁跡

こちらは単郭でぐるっとひと回りしていました。


姫屋敷(林の南側)全景(南から撮影)

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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