愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

岡豊(おこう)城跡 高知県

2015年12月13日 08時07分35秒 | 高知県
さて、再び話を城の会の見学会に戻します。

岡豊城(おこうじょう)
見学会は、二日目午後岡豊城跡へ行きました。岡豊って、「おこう」と読むのですね。初めて知りました。この城は、戦国大名長宗我部元親の居城なのです。長宗我部元親の名前は知っていましたが、詳しくは知らなかったので、大変勉強になりました。

元親像(高知県立歴史民俗資料館パンフレットより)

岡豊城跡の位置
所在地 

地図の「S」が岡豊城跡の位置です。高知市の東です。

長宗我部元親
戦国時代の高知県(土佐)は、以下のように武将たちが割拠していました。

岡豊城は、現在の高知市の北東側、南国市にあります。長宗我部氏は、初めは小さな一族でしたが、元親の父国親の代に岡豊城南部、岡豊城東部(山田氏、香宗我部氏等)など着実に支配権を広げていきました。
そして、元親の代に宿敵一城氏を倒し、天正3年(1575年)土佐を統一しました。
 参考 高知県立歴史民俗資料館パンフレット「岡豊城跡」

岡豊城の概要
現地でいただいた縄張り図では、「詰」「二ノ段」などという言い方がしてありました。おそらく「詰」とは主郭または本丸、「二ノ段」とは「二の丸」という意味と思われました。
南側を国分川が流れています。この川の名前「国分」とは「国分寺」の国分で、このあたりは昔国府があったところで、土佐国の中心であったところだそうです。ここに城を築いたのは中心地を押さえるということになったことと思います。高知市の辺りは、入り江があり、交通の要衝でしたが、戦国時代のはじめは、まだ中心ではなかったのではないかと思います。

岡豊城の概要図(Yahoo地図に書き込みをしました。)

見学記
まず高知県立歴史民俗資料館を訪れました。


長宗我部元親の像
資料館には長宗我部元親の像がありました。

元親像。この像はゲームで登場している元親をモデルにしたそうで、けっこうイケメンになっているとのことでした。歴女がターゲットのようです。

二ノ段
はじめに二ノ段に上がりました。ここから岡豊の様子が一望できました。400年前の風景と余り変化していなくて、「おそらく、戦国大名が眺めた風景と同じ風景を見れるのはここだけでしょう。」と案内の方がおっしゃっていました。

二ノ段からの眺め。写真では分かりのくいのですが、城下町の町割が分かるそうです。
右側は国分川

周りには土塁跡がありました。


堀切と井戸跡
二ノ段から詰に行く途中に堀切と井戸跡がありました。


詰下段
詰の手前に一段低い段があり、詰下段といわれる遺構がありました。ここには、礎石が残っていたそうです。当時の城の建物は、掘立柱が主流で地面に穴を掘って柱を立て、そこから建物を造っていたので、あまり高い建物や瓦葺の建物は難しいと言われています。しかし、礎石の遺構があるということは、礎石の上に柱を立てたということなので、より高い建物が可能になるということだそうです。瓦葺も可能になるということです。
そういう意味で、礎石の遺構が出たということは、城郭建築の歴史の上では一つの画期をなすということだそうです。

詰下段の礎石遺構


詰にも礎石遺構がありました。




案内の人の説明では、「ここに2階建て以上の建物があった、しかも瓦葺だった」とのことです。資料館のパンフレットでも「近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があったと推定」されると記していました。

三ノ段
詰から下のほうに降りて三ノ段に入りました。ここには、礎石遺構と石積み遺構がありました。

建物が左側の壁いっぱいに建てられていたことが分かります。左側の削ったところは、土が崩れないためでしょうか、石積みとなっています。狭い土地を有効利用していたことがわかりました。

虎口
最後は虎口跡です。

虎口跡。道が左の方に曲がっていて、中が見通せないことが分かります。
敵の侵入を困難にする工夫です。

はりまや橋 高知県

2015年12月02日 14時31分34秒 | 高知県
高知城の見学が終わった後は昼食です。
はりまや橋の近くの「司」というお店でお弁当を食べました。

昼食弁当。左上は名物かつおのたたき、右上は、帆立貝をあしらったかまぼこ。おいしかったです。

もちろん近くには「はりまや橋」がありました。

はりまや橋

坊さんがかんざしを買ったお店はない?
「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」

という歌詞を思い出して、近くにかんざしなど装飾品を売っているお店はないか歩いてまわりましたが、ありませんでした。「かんざし屋」はつぶれていたようです。(本当にあったかどうか分かりませんが)

高知城(3)本丸、天守閣 高知県

2015年12月01日 15時25分37秒 | 高知県
いよいよ本丸です。
すぐ目の前に天守閣が入ってきました。

高知城天守閣。外観四層(内部三層六階)で、高さ18.5mの望楼型天守だそうです。(現地パンフレット)右手前の建物は、本丸御殿です。天守の残る12の城の中で、本丸御殿が残っているのは、高知城だけだそうです。(現地パンフレット)

黒鉄門

黒鉄門。

儀式のときに藩主が出入りするのに用いられたそうです。(現地パンフレット)本丸に入るためにここを通るのは分かりますが、どこから来るのでしょう?二の丸、三の丸とは反対側にあるので、不思議に思いました。

本丸御殿、天守閣
いよいよ、高知城に入場です。


天守閣の中は、高知城に関わるいろいろな展示物があり、とても勉強になりました。その中で、面白かったのは、築城時の様子をジオラマ化したものです。写真の左下に騎馬の武将が何人かおりますが、誰だか分かりますか?実は山内一豊とその影武者たちです。誰が本物か分からないように、みんな同じ装束だったようです。

高知城、築城時のジオラマ


天守最上階からの眺め



二の丸方面を眺める。画像中央二の丸の奥に見えるくぼ地は、長宗我部元親時代の石垣の跡だそうです。


詰門辺りを眺める。右に出ているのが詰門、手前が東多門、左奥に伸びているのが、廊下門。


黒鉄門辺りを眺める。

雨が降っていましたので、「晴れていたら・・・」と思わずにはいられませんでした。

高知城(2)三の丸、二の丸 高知県

2015年11月30日 21時00分51秒 | 高知県
三の丸石垣
階段を登っていきますと、高い石垣が見えました。三の丸の石垣です。

三の丸石垣。高さは13m、野面積みで積まれています。右の方の出っ張りは、横矢掛りといって、石垣を登ってくる敵兵を横から攻撃するために設けられたでっぱりです。どの石垣にもこのような工夫があります。

三の丸の石垣。みごとな曲線です。上の方ほど傾斜がきつくなっているので、登れないです。

鉄門跡
さらに登っていきますと、鉄門跡があります。これは、「くろがねもん」と読むのかと思いましたが、本丸のほうに「黒鉄門」というのがあって、こちらも「くろがねもん」でした。鉄門は、なんと読むのか忘れてしまいました。

鉄門跡 この門の石垣には立派な石が使われていました。

鉄門の石垣 鉄門は枡形になっていました。

詰門

鉄門を通り左に折れますと、詰門があります。本丸へは右手前の石垣の前を通り、詰門の右側から入ります。このまま詰門に行っても本丸へは行けません。

三の丸

三の丸は、雨で水溜りがありました。ここから天守閣がよく見えました。

三の丸からの天守

詰門の中
詰門の内部には部屋がありました。写真には「中老溜間」と書かれています。まさに家臣たちが詰めていたところだったのです。

高知城(1)大手門付近 高知県

2015年11月28日 07時30分26秒 | 高知県
2日目は高知県です。
高知県は初めてです。

南国土佐 高知市
高知市には電車が走っていました。

高知市の市電。ローソンの広告をしていました。

さらに高知城に近づくと道路の中央分離帯にソテツの木が並んでいました。こんな光景見たことありませんでした。「南国土佐だ。」と思わず叫びそうでした。

ソテツが並ぶ高知市の道路。

高知城
いよいよ高知城に到着しました。

高知城マップ(現地パンフレットより)マップの赤い線に沿って見学しました。

山内一豊
まず、出迎えてくれたのは、山内一豊の像です。


高知城を案内していただいたボランティアの方です。

そのボランティアさんが一押しで勧めるビューポイントです。

高知城。右手前が大手門、中央奥が天守閣です。大手門と天守閣が一望に見えるので、ここが一番のポイントだとおっしゃっていました。

板垣退助
大手門をくぐると板垣退助の像がありました。高地県は有名人が多いですね。「板垣死すとも自由は死なず」という言葉が個人的には好きなので、その言葉を思い出しました。

板垣退助の像

石どい
石垣には、「石どい」がありました。ここから水が流れ落ちます。

高知城の石どい。松山城のものより長く外に突き出ています。これは、雨水が直接石垣があたらないようにという、雨の多い高知ならではの工夫だそうです。(現地案内板より)

山内一豊の妻千代と内助の功
階段を登っていきますと、右手にこんどは山内一豊の妻千代の像がありました。

千代の像。夫である山内一豊が織田信長に仕えた頃、「馬揃え」といって、戦いの前に家臣たちの馬を信長が調べるために、一堂に馬を集めたそうです。一豊は、この馬揃えのために、ほしい馬があったのですが、高くて買えません。そこで、妻の千代が、嫁入りのときに父から「何かあったときに」と渡されていた10両をぽんと出したそうです。一豊はそのおかげで、信長に認められたということです。10両とは、今のお金で250万円くらいだそうです。
ボランティアガイドさんに教えていただいた有名な内助の功の話です。