さて、再び話を城の会の見学会に戻します。
岡豊城(おこうじょう)
見学会は、二日目午後岡豊城跡へ行きました。岡豊って、「おこう」と読むのですね。初めて知りました。この城は、戦国大名長宗我部元親の居城なのです。長宗我部元親の名前は知っていましたが、詳しくは知らなかったので、大変勉強になりました。
元親像(高知県立歴史民俗資料館パンフレットより)
岡豊城跡の位置
所在地
地図の「S」が岡豊城跡の位置です。高知市の東です。
長宗我部元親
戦国時代の高知県(土佐)は、以下のように武将たちが割拠していました。
岡豊城は、現在の高知市の北東側、南国市にあります。長宗我部氏は、初めは小さな一族でしたが、元親の父国親の代に岡豊城南部、岡豊城東部(山田氏、香宗我部氏等)など着実に支配権を広げていきました。
そして、元親の代に宿敵一城氏を倒し、天正3年(1575年)土佐を統一しました。
参考 高知県立歴史民俗資料館パンフレット「岡豊城跡」
岡豊城の概要
現地でいただいた縄張り図では、「詰」「二ノ段」などという言い方がしてありました。おそらく「詰」とは主郭または本丸、「二ノ段」とは「二の丸」という意味と思われました。
南側を国分川が流れています。この川の名前「国分」とは「国分寺」の国分で、このあたりは昔国府があったところで、土佐国の中心であったところだそうです。ここに城を築いたのは中心地を押さえるということになったことと思います。高知市の辺りは、入り江があり、交通の要衝でしたが、戦国時代のはじめは、まだ中心ではなかったのではないかと思います。
岡豊城の概要図(Yahoo地図に書き込みをしました。)
見学記
まず高知県立歴史民俗資料館を訪れました。
長宗我部元親の像
資料館には長宗我部元親の像がありました。
元親像。この像はゲームで登場している元親をモデルにしたそうで、けっこうイケメンになっているとのことでした。歴女がターゲットのようです。
二ノ段
はじめに二ノ段に上がりました。ここから岡豊の様子が一望できました。400年前の風景と余り変化していなくて、「おそらく、戦国大名が眺めた風景と同じ風景を見れるのはここだけでしょう。」と案内の方がおっしゃっていました。
二ノ段からの眺め。写真では分かりのくいのですが、城下町の町割が分かるそうです。
右側は国分川
周りには土塁跡がありました。
堀切と井戸跡
二ノ段から詰に行く途中に堀切と井戸跡がありました。
詰下段
詰の手前に一段低い段があり、詰下段といわれる遺構がありました。ここには、礎石が残っていたそうです。当時の城の建物は、掘立柱が主流で地面に穴を掘って柱を立て、そこから建物を造っていたので、あまり高い建物や瓦葺の建物は難しいと言われています。しかし、礎石の遺構があるということは、礎石の上に柱を立てたということなので、より高い建物が可能になるということだそうです。瓦葺も可能になるということです。
そういう意味で、礎石の遺構が出たということは、城郭建築の歴史の上では一つの画期をなすということだそうです。
詰下段の礎石遺構
詰
詰にも礎石遺構がありました。
案内の人の説明では、「ここに2階建て以上の建物があった、しかも瓦葺だった」とのことです。資料館のパンフレットでも「近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があったと推定」されると記していました。
三ノ段
詰から下のほうに降りて三ノ段に入りました。ここには、礎石遺構と石積み遺構がありました。
建物が左側の壁いっぱいに建てられていたことが分かります。左側の削ったところは、土が崩れないためでしょうか、石積みとなっています。狭い土地を有効利用していたことがわかりました。
虎口
最後は虎口跡です。
虎口跡。道が左の方に曲がっていて、中が見通せないことが分かります。
敵の侵入を困難にする工夫です。
岡豊城(おこうじょう)
見学会は、二日目午後岡豊城跡へ行きました。岡豊って、「おこう」と読むのですね。初めて知りました。この城は、戦国大名長宗我部元親の居城なのです。長宗我部元親の名前は知っていましたが、詳しくは知らなかったので、大変勉強になりました。
元親像(高知県立歴史民俗資料館パンフレットより)
岡豊城跡の位置
所在地
地図の「S」が岡豊城跡の位置です。高知市の東です。
長宗我部元親
戦国時代の高知県(土佐)は、以下のように武将たちが割拠していました。
岡豊城は、現在の高知市の北東側、南国市にあります。長宗我部氏は、初めは小さな一族でしたが、元親の父国親の代に岡豊城南部、岡豊城東部(山田氏、香宗我部氏等)など着実に支配権を広げていきました。
そして、元親の代に宿敵一城氏を倒し、天正3年(1575年)土佐を統一しました。
参考 高知県立歴史民俗資料館パンフレット「岡豊城跡」
岡豊城の概要
現地でいただいた縄張り図では、「詰」「二ノ段」などという言い方がしてありました。おそらく「詰」とは主郭または本丸、「二ノ段」とは「二の丸」という意味と思われました。
南側を国分川が流れています。この川の名前「国分」とは「国分寺」の国分で、このあたりは昔国府があったところで、土佐国の中心であったところだそうです。ここに城を築いたのは中心地を押さえるということになったことと思います。高知市の辺りは、入り江があり、交通の要衝でしたが、戦国時代のはじめは、まだ中心ではなかったのではないかと思います。
岡豊城の概要図(Yahoo地図に書き込みをしました。)
見学記
まず高知県立歴史民俗資料館を訪れました。
長宗我部元親の像
資料館には長宗我部元親の像がありました。
元親像。この像はゲームで登場している元親をモデルにしたそうで、けっこうイケメンになっているとのことでした。歴女がターゲットのようです。
二ノ段
はじめに二ノ段に上がりました。ここから岡豊の様子が一望できました。400年前の風景と余り変化していなくて、「おそらく、戦国大名が眺めた風景と同じ風景を見れるのはここだけでしょう。」と案内の方がおっしゃっていました。
二ノ段からの眺め。写真では分かりのくいのですが、城下町の町割が分かるそうです。
右側は国分川
周りには土塁跡がありました。
堀切と井戸跡
二ノ段から詰に行く途中に堀切と井戸跡がありました。
詰下段
詰の手前に一段低い段があり、詰下段といわれる遺構がありました。ここには、礎石が残っていたそうです。当時の城の建物は、掘立柱が主流で地面に穴を掘って柱を立て、そこから建物を造っていたので、あまり高い建物や瓦葺の建物は難しいと言われています。しかし、礎石の遺構があるということは、礎石の上に柱を立てたということなので、より高い建物が可能になるということだそうです。瓦葺も可能になるということです。
そういう意味で、礎石の遺構が出たということは、城郭建築の歴史の上では一つの画期をなすということだそうです。
詰下段の礎石遺構
詰
詰にも礎石遺構がありました。
案内の人の説明では、「ここに2階建て以上の建物があった、しかも瓦葺だった」とのことです。資料館のパンフレットでも「近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があったと推定」されると記していました。
三ノ段
詰から下のほうに降りて三ノ段に入りました。ここには、礎石遺構と石積み遺構がありました。
建物が左側の壁いっぱいに建てられていたことが分かります。左側の削ったところは、土が崩れないためでしょうか、石積みとなっています。狭い土地を有効利用していたことがわかりました。
虎口
最後は虎口跡です。
虎口跡。道が左の方に曲がっていて、中が見通せないことが分かります。
敵の侵入を困難にする工夫です。