愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

四間道(しけみち) 名古屋市西区

2016年03月20日 07時47分27秒 | 名古屋市西区
四間道というのは、もともとの意味は幅が四軒の道という意味です。江戸時代、四軒の幅があった道沿いに多くの商家が立ち並んでいた商業地の跡を「四間道」と呼んでいるようです。
以前中日新聞に「四間道(しけみち)」についての記事が出ていました。要は市の指定を受けているが、けっこう古くなったので、建て替えをしたいという持ち主が多いというものです。
それまでこの四間道という史跡についてまったく知らなかったので、一度どんなところか行ってみたいと思っていました。

ちょうど、その日は名古屋に用事がありましたので、ついでに訪れることにしました。
四間道は、名古屋城から延びる堀、堀川に沿っていました。

四間道の所在地。名古屋城の西側の外堀、堀川沿いに延びています。

堀川を渡る端に「五条橋」というのがあって、そこに四間道についての案内がありましたので、全文を転記します。

五条橋。西側から写す。


五条橋
1610年(慶長15年)尾張の首府が清須から名古屋へ移されることになった。「清須越」といわれ、翌年にかけて名古屋城築城、城下町建設資材や、生活物資搬入のため堀川が開削された。五条橋はそのとき架けられた「堀川七橋」の一つで、擬宝珠に慶長七年壬刀六月吉日(1602)の銘があり、清須から移された橋である。「清須越」では城・石垣・橋・寺社・家屋・町名まで移された。現在の橋は1938年(昭和13)にコンクリート製で復元されたもの。
 五条橋の西詰を南北に通る道は歴史街道「美濃路」である。東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ官道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため「美濃路」と呼ばれた。江戸時代、京・大坂と江戸を結ぶ重要な街道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。清須越の折、名古屋の美濃路は現在の位置に定められた。
 堀川西岸美濃路に面し、西側に清須越商人の主屋が建ち並び、その裏側に裏蔵が建ち、美濃路と堀川の間には表蔵が並び、城下の物流を担った清須越商家の豪壮な町並みが形成されていった。1700年(元禄13)このあたり一帯が焼失し、堀川を越え延焼した大火があった。その後、城下への延焼を防ぐため、美濃路の西側裏道を4間へ拡幅し、その東側を石垣積で盛土し、塗籠造りの土蔵を奨励した。そのため「四間道」といわれるようになり、東側に河戸石の石垣上に土蔵群、西側に町屋が並ぶ現在の景観がこのとき生まれた。
 堀川の両岸には、いたる所に共同物揚場が設けられた。ここ五条橋では橋の四隅を石畳とし、護岸と道路を結んだ。舟運により350年にわたり繁栄したこの地域も、1960年代から始まる車社会への移行に伴い、物流の役割を終え、清須越の面影を残した町並みも失われつつある。五条橋は名古屋開府以来、この町を見守り続けている。
四間道・那古野界隈まちづくり協議会


ということで、大体の様子は知ることができました。しかし、個々の建物がどういう建物なのか、分からなかったので、以下スナップ風に画像で紹介します。

秋葉神社。商家群の南のほうに位置していました。大火があったということなので、火災から守るために建てられたのでしょうか。


四間道の案内石柱。


商家っぽい建物


蔵っぽい建物


建て替え工事をしている家。新聞記事になった家なのでしょうか。


有名な「四間道ガラス館」


商家っぽい建物


「円頓寺銀座」の入り口。往時の繁栄をしのぶことができました。
コメント
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