愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

毛利元就の墓所 広島県安芸高田市

2014年11月29日 07時21分07秒 | 広島県
郡山城
 「御里茶屋」でお昼を食べたら、いよいよ郡山城に登城です。一番高い本丸の櫓台が標高389.7m比高は、約200mだそうです。以前登った佐和山城や観音寺城のようなかんじでした。


郡山城案内地図(黄色の矢印の道で登りました)

大通院谷遺跡
 登ってすぐのところに駐車場があり、そこから公園となっている大通院谷遺跡が見えました。

この遺跡から郡山城の一部と見られる堀や屋敷跡、たくさんの遺物が発見されたそうです。現在は公園となっています。

また、この公園の一角に「復原中世風建物」がありました。

毛利元就墓所
 大通院遺跡を過ぎると、毛利元就の墓所がありました。

元就の墓所には、一本の木が墓標として植えられていました。今は枯れています。


毛利氏一族の墓
 元就の墓所の一段下に毛利家の墓所がありました。墓所はきれいな紅葉に包まれていて、幽玄な面持ちでした。

 毛利時親以来歴代一門の墓が、明治2年(1869年)ここに改葬されたそうです。関が原の合戦の後、西軍(豊臣側)の総大将だった毛利輝元は、戦いに敗れたことで、安芸国から長州に移動させられます。その後毛利氏は、萩が拠点となります。ところが毛利氏の子孫たちが、長州から出向いてこの墓を守っていたそうです。それで、今も残っているとのことです。墓の右側に大きな団子がありました。元就が団子が好きだったので、その形になっているそうです。
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安芸高田市歴史民俗博物館 広島県安芸高田市

2014年11月26日 16時07分23秒 | 広島県
「若越城の会」バスツワー2日目の後半は安芸高田市の郡山城です。
郡山城は、戦国大名毛利氏の居城です。有名な毛利元就がいた城です。元就の孫の毛利輝元が広島城に移るまで毛利氏の拠点の城でした。

はじめに安芸高田市の歴史民俗博物館を見学しました。

安芸高田市歴史民俗博物館

この博物館及び郡山城については、研究員のOさんに案内していただきました。毛利氏は、はじめは安芸国の一国人でしたが、元就のときに高橋氏、大内氏や尼子氏を滅ぼし、吉川氏と小早川氏に養子を送り込み、中国地方全体を治める大大名に成長したことを、たくさんの資料で教えていただきました。

博物館見学の後に「御里茶屋」というところで昼食をいただきました。昼食は「元就弁当」というもので、元就が実際いただいものを現代風にアレンジした弁当だそうです。元就は酒を飲まなかったので、甘いものが好物だったようです。おはぎが付いていました。また、お吸い物はお品書きにあるように毛利氏の家紋をかたどってありました。

元就弁当

元就弁当のお品書き

また、「御里茶屋」には元就公の像がありました。
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広島城 広島県広島市

2014年11月25日 16時05分35秒 | 広島県
 「若越城の会」バスツワー2日目です。2日目は広島城と郡山城です。はじめに広島城を見学しました。広島城は、今年8月に訪れましたので、2回目です。

二の丸表御門
 先回は裏門より入りましたが、今回は表門より入城しました。二の丸表御門というそうです。二の丸表御門は、原爆により消失してしまいました。そこで、平成3年に築城400年記念事業として二の丸表御門を再建したそうです。平成3年に完成しました。とても立派な門で感動しました。

二の丸表御門

鉄砲狭間
この二の丸表御門に鉄砲狭間、矢狭間がありました。

城内から見た鉄砲狭間、矢狭間

 この狭間を近くで見ると窓に角度がついていました。矢、鉄砲の先は堀の水面に延びていました。なるほど、ここから城に近づく船や泳いで攻めてくる兵をめがけて攻撃するのだとわかりました。

中央の窓から見える緑色の部分は堀の水面です。

太鼓櫓
 本丸の中から太鼓櫓が見えました。これも再建されて大変美しかったです。

朝の光に映える太鼓櫓

天守閣
いよいよ天守閣です。

天気もよく青空に美しくそびえていました。

 天守閣から見た広島市。左側の丸い屋根の建物は県立体育館のようです。


諸国古城之図の世界
 さて広島城では企画展として「浅野文庫 諸国古城之図の世界」をやっていました。諸国の古城の縄張り図を江戸時代に記録として遺しておいたものが浅野さん(江戸時代に広島城に居住していた大名)の蔵書の中にあって、それを展示していました。よく見ると愛知県のお城もけっこう出ていましたので、この企画店の冊子が出来きましたらくださいと、注文をしてきました。


昭憲皇太后御座所跡
もう一つ、本丸跡に旧日本軍の営舎の跡地のようなものがありました。

史跡広島城址マップ(「広島城ホームページ」より)

 その時は何かわかりませんでした。後で調べましたら、「昭憲皇太后御座所跡」ということでした。昭憲皇太后とは、明治天皇の皇后です。御座所とは居室とあったので、ここに住んでいたことがあったのかもしれません。多分ふだんは江戸城にいたと思われますが。
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新聞の記事になった越前大野城

2014年11月24日 11時29分40秒 | 福井県
中日新聞です。
11月23日、日曜特集で越前大野城が掲載されました。
天空の城ということで竹田城と並び称せられているようです。

愛知県からも多くの城愛好家、カメラ愛好家が訪れているのかもしれません。
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草戸千軒遺跡(広島県立歴史博物館) 広島県福山市

2014年11月23日 07時52分23秒 | 広島県
草戸千軒町遺跡
 この福山城公園の一角に歴史博物館がありました。中世都市の遺跡草戸千軒の発掘成果を展示・保存しているところだそうです。草戸千軒遺跡は有名なようですが、私は全く知りませんでした。

広島県立歴史博物館

日本のポンペイ遺跡―川底に沈んだ草戸千軒町遺跡
 実際の遺跡は福山市草戸町で発見され、発掘されました。今は川(芦田川)の川底になっています。


 現在の遺跡は、グーグル航空写真では中洲が小さくなっています。


発掘のあゆみ
 この遺跡は地元の人々によって「草戸千軒」として、昔ここに町があったという伝説として存在していたようです。それが大正15年(1926年)に芦田川の工事によって石塔などが発見され、発掘のきっかけとなったようです。
 本格的な発掘調査は昭和36年(1961年)から始まり、昭和48年(1973年)には草戸千軒町遺跡調査所が設けられ、以後平成6年(1994年)まで調査が続けられたそうです。
 そして、その発掘調査の成果が県立歴史博物館に収められているということです。

発掘当時の草戸千軒町遺跡(1986年)博物館パンフレットより

中世商人町草戸千軒町
 博物館に入ると草戸千軒町が復原されていました。

博物館パンフレットより

 草戸千軒町は中世の民衆の町です。中世にはこの近くまで海岸線が入り込んでいて、ここは港町だったようです。草戸も古くは「草津(くさいず)」と呼ばれていたようです。「津」は湊という意味です。

 中世の町といえば城下町朝倉遺跡を思い出しました。朝倉遺跡は朝倉氏の城下町ですが、この草戸千軒町は港町です。商人たちの商売の様子がよく分かりました。
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