愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小牧山城見学会 小牧市

2021年11月28日 10時13分49秒 | 小牧市
11月23日、愛教労退職教職員の会の企画で「小牧山城」の見学会がありました。その感想です。


名物ガイド鵜飼さん

先日小牧山城の見学会に参加しました。愛教労退職教職員の会の企画です。十数名の方が参加されていました。その中に、お顔は覚えていましたが、詳しく存じ上げていない方がいらっしゃいました。すると、その方の方から「Kさんをご存知ですよね。私は、Kさんの友人なんです。Kさんから、あなたがいろいろと活躍されていることを伺っておりますよ。」と声をかけられました。Kさんのことはよく知っていましたので、「ああ、そういう繋がりがあったんだ。」と分かり、その後の会話も弾みました。現役のころはあまり会話もなかった方でしたが、こうして退職後に話し合える機会ができて、本当に良かったと思いました。

何回も訪ねている小牧山城ですが、新しい友達もでき、いい思い出になりました。

上末城 小牧市

2021年04月27日 08時01分21秒 | 小牧市
上末(かみすえ)城は、室町時代後期、尾張二宮の祀官(しかん)重松秀村の三男落合勝正が築いたそうです。勝正の子落合安親、孫の庄九郎は小牧長久手の戦いの際、秀吉側につき、池田恒興、森長可らが主導した三河岡崎への急襲作戦に参加したそうです。しかし、この三河岡崎急襲作戦は失敗し、池田恒興、森長可は、この戦いで戦死しました。落合氏はこの後、帰農し、上末城も廃城になったということです。(「日本城郭体系」9)

上末城は、国道155号線の「上末」交差点の南東にあります。周りは市街地です。西の方に小牧山城があります。これまでこのブログで登場した小牧市の城と位置関係を示すと、図のようになります。

小牧長久手の戦いの様子(赤、秀吉軍 青、家康軍)
犬山城から小牧山城まで直線距離で約10kmです


上末城航空写真(グーグルマップ航空写真より、一部加筆)

上末城は、上末交差点の南東にあります。竹藪の中に堀があるというので、入ってみました。

竹藪の中の堀と土塁

西側は段差があり、南北に切岸のようになっていました。しかし、家を建てるため後世削った感じでした。

西側の切岸のような跡

ということで、あまりはっきりしない感じですが、ここに城があったんだという雰囲気は感じました。

南に隣接して陶昌院という落合氏ゆかりの寺があったので、訪れました。
ここには、落合安親の石碑があるということです。

落合安親石碑

なお、この石碑の裏側に「平成二年五月吉日 十四代目落合保夫建立」と彫ってありました。小牧長久手で敗れた落合氏ですが、その後落合安親の孫にあたる落合新八郎が入鹿池の開拓に関わり、そのことで名字帯刀を許されたそうです。14代落合さんはその末裔と思われます。

小牧山城見学会(2) 小牧市

2020年10月30日 06時47分45秒 | 小牧市
曲がりくねった上半分の大手道を行くと、大きくえぐられて、壁になっているようなところに出ました。もともとは石垣が貼ってあり、大手道を登ってきた者に見せる目的で造らせたそうです。ここでも、「見せる」城の遺構がありました。

本丸に造られた石垣の壁の跡

本丸の頂上の方に登っていきますと、模擬天守への階段の脇に石垣の跡がありました。裏込石がそのまま見えています。

露出している石垣の跡

模擬天守の入口に銅像がありますが、その下の大きな石は、花崗岩だそうです。他の石垣の石は、小牧山にあるものを切り出していますが、花崗岩は小牧山にないので、どこかから運んできたものと考えられています。どのようにして運んできたのか、謎になっているそうです。現在は、二つに割られています。

2つに割られている花崗岩

模擬天守ですが、モデルにした建造物は、京都の西本願寺飛雲閣だそうです。名古屋市在住の平松茂(故人)が私財を投じて建設したのだそうです。ので、瓦に平松さんの紋が彫ってあるそうです。

模擬天守瓦の平松氏紋

模擬天守を後にして、下っていきました。途中徳川家康による竪堀がありました。かなり深くえぐってありました。

小牧山中腹の竪堀

また、石垣のために使った石の石切り場もありました。

石切り場

この後、「れきしるこまき」の展示物を見て、見学会は解散しました。

小牧城は、現在発掘調査が継続中で、特に信長の遺構が多く見つかっています。以前は、岐阜攻めの砦のような位置づけでしたが、今は、本格的な城下町をめざしていたこと、また岐阜、安土につながる城づくりの原点であることが判明しつつあるそうです。小牧山城は、目が離せません。

小牧山城見学会(1) 小牧市

2020年10月29日 08時18分40秒 | 小牧市

見学会に参加する桶狭間保存会

10月25日、桶狭間古戦場保存会の主催する小牧山城の見学会に参加しました。小牧山城を案内してくれたのは、名物ガイドと言われる鵜飼公俊さんでした。名物ガイドと言われるだけのことはあり、大変楽しい案内をしていただきました。

最初に訪れたのは、「れきしるこまき」という展示館です。昨年の4月にオープンしたばかりの新しい展示館です。小牧山城は、石垣の発掘など近年発掘調査が盛んに行われています。そうした近年の発掘調査での成果を展示する施設のようです。

「れきしるこまき」


城下町小牧を説明する名物ガイドの鵜飼さん

小牧が、信長によって城下町として整備されていたことを説明していただきました。紺屋町とか鍛冶屋町のように、一箇所に同じ業種の手工業者を集めていたそうです。また、まちのインフラとして下水道が造られていたということでした。

「れきしるこまき」を出た後、小牧山の南側に大きな土塁が見えました。

大きな土塁

この土塁は復元ですが、徳川家康が、豊臣秀吉と初めて戦った「小牧・長久手の戦い」の時に造ったものです。

次は、大手道を登ります。大手道は、はじめ真直になっています。

大手道を中間点から見下ろす

大手道はなぜまっすぐか
ガイドさんに、「大手道はどうして真直なのか?」と質問しました。すると「それはね、見せるためだよ。この道の先に立派な御殿があって、それを城下町の人々に見せることが目的なんだよ」と教えてくれました。

以前読んだ、「信長の城」千田嘉博2003では、このことについて、以下のように述べていました。
「直線的な大手道は防御を考えていないので、戦うことを考慮していなかった宮殿的な城と評価する説があります。そうすると小牧山城も宮殿的な城だったということになります。しかし、城をそのように評価することは間違いです。」

では、どうして真直なのか。
千田氏の説を要約すると、真直な大手道は、山の中腹、山麓に住まわせた家臣たちの連絡道を兼ねていた。また、家臣たちの住居は、中心(信長)に対して防除性が弱く造られていた。これに対して、中心部、つまり信長の居住空間は、大手道がまがりくねり、石垣で固め、かなり防御性の強い空間となっている。信長は、これまでの家臣と信長との関係性を変え、中央集権的な関係を築こうとしたと言います。
「家臣の屋敷があった山麓・山腹では、意図的に防御性の弱い直線道として大手道を建設し、信長がくらした中心部分だけを防御性に富んだ屈曲した大手道にしたのです。」(「信長の城」千田嘉博2003)

しかし、今回のガイドさんの説明で「見せるため」とのことでした。安土城では、確かにそういう要素があったかもしれません。また、天皇行幸を視野に入れて大手道を直線にしたことは考えられます。小牧城の段階で信長にそうした発想がすでにあったのでしょうか。また、直線の大手道の先は竪堀があるだけで、建物はありません。疑問が残りました。

信長は城に住んでいたか
信長が小牧山のどこに居住していたかということでも、あっさり、「麓の信長館でしょう。山頂に住むことは考えにくい。」と、山上での居住は否定されました。この千田嘉博氏の本でも、NHKの番組でも信長は、小牧山城、岐阜城、安土城で山の頂上に暮らしていることになっていたように思います。また、ガイドさん自らが案内してくれた上半分の屈曲した部分の大手道の発掘調査から道に排水溝が設けられていることが分かったそうです。そこから、案内板には、「この調査結果からも長期間の在城を前提として築かれた本格的な城であったことがうかがわれます。」と書かれており、信長が山上の館に住んでいたことがうかがわれます。ガイドさんの説明に疑問が残りました。

大手道の説明版

久保山砦 小牧市

2019年05月23日 06時07分34秒 | 小牧市
そして3つ目は久保山砦です。ここは、蜂屋頼隆と金森長近が守ったそうです。この合戦で秀吉が自らこの砦から全軍を指揮したこともあったそうです。それでこの砦を「太閤山」とも呼ぶそうです。

久保山砦は、岩崎山砦と小松寺砦の中間にあり、どちらの砦もよく見える位置にあります。

久保山砦から見た岩崎山砦

岩崎山砦も現状は熊野神社でした。

久保山砦跡の熊野神社

この神社の後ろに曲輪の跡が広がっていました。ずっと歩いて、東の方に行くと「おやっ」土塁の跡らしきものが見つかりました。でも、どうでしょ、土塁が残っているという話は聞いていないので、たぶん違うと思いますが、一応画像を載せます。

土塁の跡らしきもの

ということで、小牧長久手の戦いの一部を見ることができました。戦いは広い地域で行われていました。ほかの地域も見に行きたいと考えています。