愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

尾張氏とは

2013年04月29日 18時27分48秒 | 歴史史料
前回、断夫山古墳の被葬者が尾張氏らしいことを書きました。そこで、尾張氏とはどういう人なのか、少し調べることにしました。

古事記における尾張氏

神武天皇の子どもが遠い祖先

古事記で「尾張氏」が登場するのは、「神武天皇」のところです。

「爾八井命、讓弟建沼河耳命曰、吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上。是以汝命爲上治天下。僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。沼河耳命者、治天下也。」

神武天皇が死んだ後に、日向にいたときにできた子タギシミミノ命が、ヤマトでできた3人の子を殺そうとして起こした「反乱」のときに、後の綏靖天皇となる沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)が、兄の八井耳命(カムヤヰミミノ命)に「兄であるあなたがタギシミミノ命を殺してください」といったが、兄は手が震えて殺すことができず、弟が殺すことになった。そして、兄は、「私は手が震えてタギシミミノ命を殺すことができなかったが、あなたは勇敢で殺すことができた。あなたが天皇となって国を治めてください。私はあなたを助けることにします。」ということになったそうです。そして、兄は多くの氏の祖先となったそうです。その氏の中に尾張丹波臣の名前があるのです。尾張氏の遠い祖先は、神武天皇の子カムヤヰミミノ命というわけです。

これは、Wikipediaでも述べていましたが、豪族の出自を権威付けるためのものといえます。

「孝昭天皇」の妻として登場、尾張氏は天皇の外戚

次に登場するのは「孝昭天皇」のときです。

「御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖、奧津余曾之妹、名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命。次大倭帶日子國押人命。二柱故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲。御陵在掖上博多山上也。」

「孝昭天皇」は、第5代目の天皇です。この天皇が、尾張連の祖先である奧津余曾(オキツヨソ)の妹の余曾多本毘賣命(ヨソタホヒメノ命)を妻として生んだ子が、天押帶日子命(アメオシタラシヒコノ命)、大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ命)だそうです。弟のオホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ命は、次の「孝安天皇」になっています。

この記述からは、オキツヨソという人が尾張氏の祖先であることが分かります。先の神武天皇の子のカムヤヰミミノ命とオキツヨソがどういう関係かは分かりません。また、尾張氏が当時天皇家と深い関係を持っていたことが伺われます。

「孝元天皇」の子どもの妻として登場

次は、「孝元天皇」のときです。

「比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘賣、那毘二字以音。生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。」

比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノ命)は、孝元天皇の子どもです。この子どもが尾張氏らの祖先である意富那毘(オホナビ)の妹葛城のタカチナビメを妻として生んだ子が、ウマシウチノ宿禰で、これは、山代内臣の祖先だそうです。

ここでも尾張氏の祖先が登場します。オホナビというそうです。オホナビと、先に出てきた神武天皇の子のカムヤヰミミノ命、孝安天皇の祖父であるオキツヨソとの関係は分かりません。オホナビの妹が皇族と結婚して山代の内臣の祖先となったということが分かります。

「崇天皇」の妻として登場

次は「崇天皇」のときです。

「又娶尾張連之祖、意富阿麻比賣、生御子、大入杵命。」

尾張連の祖先のオホアマヒメを妻として生まれた子は、オホイリキノ命とあります。

オホアマヒメが尾張連の祖先として登場し、崇天皇の妻となって、子どもを生んだということです。このオホアマヒメの子どもオホイリキノ命は、能登国造の祖先になっているそうです。(Wikipedia)
例によって、神武天皇の子カムヤヰミミノ命、孝安天皇の祖父であるオキツヨソ、そして
崇天皇の妻となったオホアマヒメの関係は分かりません。いずれも尾張氏らの祖先ということでしか紹介されていません。

そして「景行天皇」になって、尾張氏の祖先としてミヤズヒメが登場するのです。

尾張氏は天皇と密接な関係を持っていた

以上ヤマトタケルの話にいたるまでに3回、尾張氏について触れられています。おもに天皇や皇族の妻になったことについて書かれています。ミヤズヒメは別格ですが。従って古代において尾張氏が天皇家と深い関係にあったことが伺われます。そのことから強い権力を持っていたことが想像できます。
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断夫山古墳 名古屋市熱田区

2013年04月14日 19時18分06秒 | 名古屋市熱田区
4月14日(日)名古屋市熱田区の断夫山古墳に行きました。
東海地方で一番大きい古墳
断夫山古墳は、東海地方で一番大きい古墳だそうです。
ウィキペディアによると、以下のようなデータとなっています。

全長 151メートル
前方部の幅 116メートル
後円部の直径 80メートル
前方部の高さ 16.2メートル
後円部の高さ 13メートル

大きさを熱田球場と比べると・・・

ほぼ同じくらいであることが分かります。
やはり大きいです。

尾張氏の墓?
また、この墓の被葬者については、古事記に書かれたヤマトタケルの妻であるミヤズヒメという言い伝えがありますが、現在は、この地方の豪族尾張氏のものではないかという事になっています。

古事記の中のミヤズヒメの話
ヤマトタケルは、西国を討ち大和に戻ったが、すぐに今度は東国に討伐に行けと天皇に命じられます。伊勢神宮におまいりに行ったとき、「天皇はわたしに死ねといっているのだ」と悲しい思いになっているところにヤマトヒメノ命が草薙の剣と袋を授け、「もしものときはこの袋を開けなさい」といって励ましたそうです。
ヤマトタケルは、尾張の国に入り、ここでミヤズヒメと結婚の約束をして東国に討伐に行ったそうです。
(東国での活躍は省略します)
無事東国を征伐したヤマトタケルは尾張に帰ってきました。そしてミヤズヒメと結婚しようとしたのですが、食事のときにミヤズヒメの着ている着物のすそに月のものが着いていることを見つけてしまいます。そして歌を詠みます。

ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひわぼそ) 撓(たわ)や腕(かいな)を 枕(ま)かむとは 我(あれ)はすれど さ寝(ね)むとは 我(あれ)は思えど 汝(な)が 著(け)せる 襲(おすい)の裾(すそ)に 月立ちにけり

<意味>天の香具山の上を鋭くやかましく鳴きながら渡っていく白鳥よ その白鳥の頸(くび)のようにか弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいとわたしは思うけれども、あなたとともに寝たいとわたしは思うけれども、あなたの着ておられる襲(おすい)の裾(すそ)に月が出てしまったことよ。

それを受けてミヤズヒメが歌で返します。

高光る 日の御子(みこ) やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来(き)経(ふ)れば あらたまの 月は来(き)経(え)ゆく 諾(うべ)な 諾(うべ)な 君待ちがたに 我が著(け)せる 襲(おすい)の裾に 月立ちなむよ

<意味>日の神の御子よ 我が大君よ、年がたって過ぎていけば 月も来て過ぎていきます。いかにもいかにも、あなたのおいでを待ちきれなくて、私の着ている襲おすいの裾に月が出てしまったのでしょう。

結局ヤマトタケルはミヤズヒメと結婚して、草薙の剣をミヤズヒメの元において伊吹山の神を討伐しに出かけます。しかし、草薙の剣を持たなかったせいでしょうか、ヤマトタケルは、このあと力が弱くなり、ついには死んでしまう。そして、白鳥となって大和・河内の方に飛んでいったということです。

参考文献 次田真幸 「古事記(中)」 昭和55年 講談社学術文庫

断夫山古墳
断夫山古墳には電車で行きました。「神宮西」駅を降りて北の方へ歩いていくと左手に古墳が見えました。

古墳の西南方向の角です。堀は新しく造られたようです。本当の堀はもう一回り大きかったようです。古墳を囲む石垣が折れ曲がっていることからここは、前方部分であることが分かりました。

この写真は、前方部分を写したものです。少し分かりにくいですが、2段になっていました。

この写真は後円部です。ただの盛り土ですけど・・・
中にも入れました。入って写真を撮りましたが、ただの山の写真なので割愛します。
看板も見つけました。


白鳥古墳
次は、白鳥古墳です。ヤマトタケルの墓ということになっていますが、古事記には、ヤマトタケルが尾張に飛んできたと書いてありません。どうして愛知県にヤマトタケルの墓があるのか不思議と思っていってみると・・・

厳重に鍵がかかっていて、中には入れませんでした。

そして横の看板には、「白鳥御陵」と書いてありました。「御陵」というのは、どこかで聞いたことがあります。前に京都の天智天皇のお墓に行ったときにも「御陵」と書いてあった気がしました。天皇の墓が「御陵」なのでしょうか。とすれば、ヤマトタケルは天皇の扱いということになります。ということが分かりました。

熱田神宮
ついでなので、熱田神宮にも寄っていきました。
ここでの不思議発見は、「紋」です。
多分本殿だと思いますが、

このようなたれがかかっていました。細くて青い部分に「紋」が記してありました。小さくてわかりにくいので、大きなものも掲示します。

「桐」のような「紋」になっています。
ところが、本殿のちょうちんには菊のご紋がしっかりとありました。熱田神宮は天皇家と深い関係があるのだということが分かりました。
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朝日遺跡 清須市

2013年04月07日 21時13分35秒 | 清須市
4月7日(日)清須市、朝日遺跡に行ってきました。

朝日遺跡とは
住所:清須市~名古屋市西区にまたがる遺跡
時代:縄文晩期~弥生時代~古墳時代初期
<遺構>
・住居跡、朝鮮に起源を持つ「松菊里(しょうきくり)型住居」とよばれるものだそうです。今は、清須ジャンクションの  下です。
・玉作工房跡、勾玉や管玉を作ったと思われる建物の跡があったそうです。今は清須ジャンクションの下です。
・大型方形周溝墓、四方に溝を掘った大型のお墓の跡があったそうです。先の勾玉などとあわせて考えると、身分の高い人がいた可能性があります。
・貝塚、資料館の横に貝殻貝塚という貝塚の跡がありました。
・やな、川でさかなを取る仕掛けです。この跡があったそうです。今はジャンクションの下です。
<出土品>
・円窓付土器、横っ腹に穴の開いた土器です。何に使うものか分かっていないそうです。
・パレス・スタイル土器、赤く塗られた大変綺麗な土器です。
・巴形土器、まるで忍者の使う手裏剣のような形をしたものです。何に使うのか分かっていません。
・そのほか、大量の土器や石器、木製農工具などが出土しています。
  
貝殻山貝塚資料館

写真は、「貝殻山貝塚資料館」といいます。
近くに貝殻山貝塚があり、その資料館という意味だと思いますが、内容はほとんど朝日遺跡に関するものでした。

貝殻山貝塚

案内板

住居跡

駐車場を出るとまず目に付いたのは、「住居跡」でした。「カヤを抜かないでください」という注意書きがあったので、屋根がかやぶきであることが分かりました。弥生時代の住居跡です。中に入りましたが柱もしっかりしていて、頑丈そうでした。また、けっこう広くて10人くらいは住めるかなと思いました。瓜郷遺跡とは違い、玄関にひさしがありました。また、中は方形になっていました。

資料館の中へ
資料館の中に入っていきました。今日は日曜日でしたが、お客さんは少なくまばらでした。「もっと若い人とか、子連れでくればいいのに。」と思いましたが、冷静に考えて若い人や子連れが来るとは思えません。自分が若いときに知っていても絶対に来ないと思ったからです。

円窓付(まるまどつき)土器

有名な円窓付き土器です。なんに使ったのか分かりません。お祈りか、お祭りでつかったようです。中がよく見えるので、何かを焼くときに使うと便利かもしれないと思いました。

人骨

吉胡貝塚に行ったときにもありましたが、ここ朝日遺跡にも人骨が発見されていました。小さく手足を曲げていました。思わず合掌をしてしまいました。

木製農工具

朝日遺跡は主に弥生時代の遺跡ということでコメ作りなどに使った木製の工具が出土しています。写真は、石の斧に木で柄をつけているときの様子を再現したものです。「ああこんあふうに組み合わせていたんだ」ということが分かりました。

かわった土器

変わった土器を発見しました。写真の右側の土器です。「手焙型土器」ということです。中に炭か何か入れて、手をあぶったのでしょうか、もしかして古代のストーブなのでしょうか。

勾玉

憧れの勾玉をはじめてみた気がします。やっぱりきれいですね。女性のアクセサリーとして十分なものと思いました。きっと身分の高い女性がこの遺跡にいたのだと思いました。
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