前回、断夫山古墳の被葬者が尾張氏らしいことを書きました。そこで、尾張氏とはどういう人なのか、少し調べることにしました。
古事記における尾張氏
神武天皇の子どもが遠い祖先
古事記で「尾張氏」が登場するのは、「神武天皇」のところです。
「爾八井命、讓弟建沼河耳命曰、吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上。是以汝命爲上治天下。僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。沼河耳命者、治天下也。」
神武天皇が死んだ後に、日向にいたときにできた子タギシミミノ命が、ヤマトでできた3人の子を殺そうとして起こした「反乱」のときに、後の綏靖天皇となる沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)が、兄の八井耳命(カムヤヰミミノ命)に「兄であるあなたがタギシミミノ命を殺してください」といったが、兄は手が震えて殺すことができず、弟が殺すことになった。そして、兄は、「私は手が震えてタギシミミノ命を殺すことができなかったが、あなたは勇敢で殺すことができた。あなたが天皇となって国を治めてください。私はあなたを助けることにします。」ということになったそうです。そして、兄は多くの氏の祖先となったそうです。その氏の中に尾張丹波臣の名前があるのです。尾張氏の遠い祖先は、神武天皇の子カムヤヰミミノ命というわけです。
これは、Wikipediaでも述べていましたが、豪族の出自を権威付けるためのものといえます。
「孝昭天皇」の妻として登場、尾張氏は天皇の外戚
次に登場するのは「孝昭天皇」のときです。
「御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖、奧津余曾之妹、名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命。次大倭帶日子國押人命。二柱故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲。御陵在掖上博多山上也。」
「孝昭天皇」は、第5代目の天皇です。この天皇が、尾張連の祖先である奧津余曾(オキツヨソ)の妹の余曾多本毘賣命(ヨソタホヒメノ命)を妻として生んだ子が、天押帶日子命(アメオシタラシヒコノ命)、大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ命)だそうです。弟のオホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ命は、次の「孝安天皇」になっています。
この記述からは、オキツヨソという人が尾張氏の祖先であることが分かります。先の神武天皇の子のカムヤヰミミノ命とオキツヨソがどういう関係かは分かりません。また、尾張氏が当時天皇家と深い関係を持っていたことが伺われます。
「孝元天皇」の子どもの妻として登場
次は、「孝元天皇」のときです。
「比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘賣、那毘二字以音。生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。」
比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノ命)は、孝元天皇の子どもです。この子どもが尾張氏らの祖先である意富那毘(オホナビ)の妹葛城のタカチナビメを妻として生んだ子が、ウマシウチノ宿禰で、これは、山代内臣の祖先だそうです。
ここでも尾張氏の祖先が登場します。オホナビというそうです。オホナビと、先に出てきた神武天皇の子のカムヤヰミミノ命、孝安天皇の祖父であるオキツヨソとの関係は分かりません。オホナビの妹が皇族と結婚して山代の内臣の祖先となったということが分かります。
「崇天皇」の妻として登場
次は「崇天皇」のときです。
「又娶尾張連之祖、意富阿麻比賣、生御子、大入杵命。」
尾張連の祖先のオホアマヒメを妻として生まれた子は、オホイリキノ命とあります。
オホアマヒメが尾張連の祖先として登場し、崇天皇の妻となって、子どもを生んだということです。このオホアマヒメの子どもオホイリキノ命は、能登国造の祖先になっているそうです。(Wikipedia)
例によって、神武天皇の子カムヤヰミミノ命、孝安天皇の祖父であるオキツヨソ、そして
崇天皇の妻となったオホアマヒメの関係は分かりません。いずれも尾張氏らの祖先ということでしか紹介されていません。
そして「景行天皇」になって、尾張氏の祖先としてミヤズヒメが登場するのです。
尾張氏は天皇と密接な関係を持っていた
以上ヤマトタケルの話にいたるまでに3回、尾張氏について触れられています。おもに天皇や皇族の妻になったことについて書かれています。ミヤズヒメは別格ですが。従って古代において尾張氏が天皇家と深い関係にあったことが伺われます。そのことから強い権力を持っていたことが想像できます。
古事記における尾張氏
神武天皇の子どもが遠い祖先
古事記で「尾張氏」が登場するのは、「神武天皇」のところです。
「爾八井命、讓弟建沼河耳命曰、吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上。是以汝命爲上治天下。僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。沼河耳命者、治天下也。」
神武天皇が死んだ後に、日向にいたときにできた子タギシミミノ命が、ヤマトでできた3人の子を殺そうとして起こした「反乱」のときに、後の綏靖天皇となる沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)が、兄の八井耳命(カムヤヰミミノ命)に「兄であるあなたがタギシミミノ命を殺してください」といったが、兄は手が震えて殺すことができず、弟が殺すことになった。そして、兄は、「私は手が震えてタギシミミノ命を殺すことができなかったが、あなたは勇敢で殺すことができた。あなたが天皇となって国を治めてください。私はあなたを助けることにします。」ということになったそうです。そして、兄は多くの氏の祖先となったそうです。その氏の中に尾張丹波臣の名前があるのです。尾張氏の遠い祖先は、神武天皇の子カムヤヰミミノ命というわけです。
これは、Wikipediaでも述べていましたが、豪族の出自を権威付けるためのものといえます。
「孝昭天皇」の妻として登場、尾張氏は天皇の外戚
次に登場するのは「孝昭天皇」のときです。
「御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖、奧津余曾之妹、名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命。次大倭帶日子國押人命。二柱故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲。御陵在掖上博多山上也。」
「孝昭天皇」は、第5代目の天皇です。この天皇が、尾張連の祖先である奧津余曾(オキツヨソ)の妹の余曾多本毘賣命(ヨソタホヒメノ命)を妻として生んだ子が、天押帶日子命(アメオシタラシヒコノ命)、大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ命)だそうです。弟のオホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ命は、次の「孝安天皇」になっています。
この記述からは、オキツヨソという人が尾張氏の祖先であることが分かります。先の神武天皇の子のカムヤヰミミノ命とオキツヨソがどういう関係かは分かりません。また、尾張氏が当時天皇家と深い関係を持っていたことが伺われます。
「孝元天皇」の子どもの妻として登場
次は、「孝元天皇」のときです。
「比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘賣、那毘二字以音。生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。」
比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノ命)は、孝元天皇の子どもです。この子どもが尾張氏らの祖先である意富那毘(オホナビ)の妹葛城のタカチナビメを妻として生んだ子が、ウマシウチノ宿禰で、これは、山代内臣の祖先だそうです。
ここでも尾張氏の祖先が登場します。オホナビというそうです。オホナビと、先に出てきた神武天皇の子のカムヤヰミミノ命、孝安天皇の祖父であるオキツヨソとの関係は分かりません。オホナビの妹が皇族と結婚して山代の内臣の祖先となったということが分かります。
「崇天皇」の妻として登場
次は「崇天皇」のときです。
「又娶尾張連之祖、意富阿麻比賣、生御子、大入杵命。」
尾張連の祖先のオホアマヒメを妻として生まれた子は、オホイリキノ命とあります。
オホアマヒメが尾張連の祖先として登場し、崇天皇の妻となって、子どもを生んだということです。このオホアマヒメの子どもオホイリキノ命は、能登国造の祖先になっているそうです。(Wikipedia)
例によって、神武天皇の子カムヤヰミミノ命、孝安天皇の祖父であるオキツヨソ、そして
崇天皇の妻となったオホアマヒメの関係は分かりません。いずれも尾張氏らの祖先ということでしか紹介されていません。
そして「景行天皇」になって、尾張氏の祖先としてミヤズヒメが登場するのです。
尾張氏は天皇と密接な関係を持っていた
以上ヤマトタケルの話にいたるまでに3回、尾張氏について触れられています。おもに天皇や皇族の妻になったことについて書かれています。ミヤズヒメは別格ですが。従って古代において尾張氏が天皇家と深い関係にあったことが伺われます。そのことから強い権力を持っていたことが想像できます。