愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

文殊山城址 新城市

2016年11月13日 22時49分25秒 | 新城市
今日は秋の紅葉めぐり(パート2)ということで、再び山城を目指しました。

目的の城は文殊山城(もんじゅやまじょう)と塞ノ神城(さいのかみじょう)です。この二つは、新城市の作手というところにあり、三河高原です。紅葉が期待できます。また、近くにありますので、二ついっぺんに周ることにしました。

文殊山城
文殊山城は、案内掲示板には以下のように書かれていました。

「この城跡は亀山城主の奥平氏の砦城で、元亀年間(1570~72)に武田氏との和睦の証として塞ノ神城とともに築く筈であったが、延引したため武田氏より強談に合い奥平氏が一夜にして築いたので、一夜城とも言われる。(後略)」

武田信玄は三河攻めの最中に病死したとされています。元亀4年ごろです。したがって、武田勢としてはあせって「早くしろ」と急き立てたのでしょう。信玄の死後、この城がどのようにつかわれたのか、知りたいところです。

お城は駐車場のすぐ上にありました。

文殊山城縄張り図(現地案内板に書き込みました。)

主郭
主郭に入るとすぐに文殊堂がありました。

文殊堂。中に文殊菩薩の石の座像がありました。

その横には宝篋印塔(ほうきょういんとう)がありました。

宝篋印塔

物見櫓
また主郭の西南には櫓台が建てられていました。なかなか雰囲気を出していました。

櫓台

土塁
主郭西側の虎口跡は分かりにくかったのですが、その右側から主郭北の土塁が残っていました。

主郭北の土塁

横堀
この土塁の下には横堀がありました。

主郭北の横堀

虎口
この横堀をずんずん進んで行きますと、帯曲輪になり、やがて東側の虎口に到達します。

Ⅰ郭西側の虎口。横にかなり古そうなブナの大木がありました。

土橋 堀切
この虎口を出てすぐに小さな曲輪があり、さらに東に進むと土橋があって、その両側は堀切になっていました。

土橋と堀切(東側から見る)

紅葉
最後に物見櫓に登りました。

物見櫓からの景色。作手の様子が一望のもとに見えました。紅葉もきれいでした。やったあ。

設楽城址 東栄町

2016年11月06日 07時56分42秒 | 東栄町
秋もだんだん深まってきました。山の方では紅葉が進んでいるだろうと今日は、東三河の奥に行きました。東栄町の設楽城址です。

紅葉はまだ
愛知県は、西は平野部が多いですが、東は三河高原で山が多いです。したがって三河の方の山城を見学に行けば、この時期紅葉を見ることができるというわけです。

しかし、結論から言いますと、まだ紅葉は始まったばかりでちょっと残念な結果でした。

途中のコンビニから写した東三河の山

しかしそれでも、谷川に沿って走っていくと真っ黄色に染まったイチョウなど部分的にはきれいな景色も楽しめました。

設楽城とは
さて、肝心の設楽城ですが、築城は設楽氏のようです。設楽氏とは、鎌倉時代ごろにこの設楽地方を支配していた豪族です。正和元年(1312)にこの設楽郷から設楽重清が写ったという記録があるそうです。(現地案内板)戦国期には設楽貞道が、今川氏に属し菅沼貞則の娘を妻として川路あたりに住んでいました。その後今川義元が戦死すると徳川氏に属しました。戦国末期になると長篠菅沼家の家臣である伊藤氏が居城したそうです。(「愛知の山城ベスト50」)

「三河国二葉松」には、「設楽村古屋敷 伊藤左京隠居の地也と云う」と紹介されていました。


設楽城の概要(現地案内板)

案内板では、
・ぐるっと山を取り囲む川や断崖は、城を守る最高の地形
・地続きの南方には、土塁や堀切を作って守りを強化
・湧き水は、長期間敵に囲まれた時の籠城にも有利
との説明がありました。

全くその通りで、箇条書きにしてあり大変分かりやすかったです。

二の丸の堀切
案内板に従って坂を登っていくとすぐに大きな堀切が見えました。

二の丸南の堀切(左が二の丸)

この写真にもあるように遺構には標識が建てられており、私のような初心者でもよく分かるようになっていました。

二の丸の土塁

二の丸南の土塁

写真ではわかりにくいですが、半円形をしていました。その土塁の下に堀切があるので、ちょうど二の丸は馬出のようでした。

本丸の土塁
本丸の東側には土塁が残っていました。その土塁の上に「設楽城址」の石碑と祠が立っていました。ちょうどよい高さだったのでしょう。

本丸東の土塁

本丸の石碑
本丸の北側には大きな石碑が2つありました。

おそらく明治以降の戦没者の忠霊塔だと思いますが、判読できませんでした。

戦国時代から生きる大黒杉
また、本丸の東には戦国時代からという杉がありました。大黒杉というそうです。

大黒杉

今も現役の湧き水
本丸を東の方に降りていくと湧き水がありました。井戸の跡があるのかと思って行ってみると、なんと現役で水が湧き出ていました。


がんばる学生
ここは「元気城山」と名付けられた公園になっていますが、その散策路を愛知大学の学生たちが協力をして作ったという看板もありました。すばらしい。

学生の活動を伝える看板

なお、二の丸南の堀切よりさらに南の方は高まりになっていて、その奥には小さな堀切がありました。


ということで、設楽城は東栄町という愛知県でも最東に位置する場所で、しかも標高294メートルという高地にある城でしたが、案内板も遺構の標識も充実しており、しかも駐車場のすぐそこという近さもあり、素人にはうってつけの城でした。

城下町西尾市(3) 西尾市

2016年11月03日 07時05分06秒 | 西尾市
総構えの土塁
さて、追羽門跡の次は、西の方に回りました。総構えの土塁があるというのです。ということは、西尾市も小田原市のように総構えの城下町だったということです。

弥生町というところにその土塁がありました。

土塁の跡を示す石の標識


土塁

右側の道は堀の跡だそうです。そういえば、今まで門の跡を見てきましたが、全て門には土塁と堀が描かれていました。西尾城は総構えの城だったことが絵図でも分かりました。

大手門跡
さて、土塁跡から東南に道を進んで行きますと、追羽門の南に大手門跡があります。

大手門跡。左の人形はなんでしょうか。よく分かりませんでした。


大手門絵図

絵図を見ると、先ほどの追羽門よりさらに厳格になっていることが分かります。手前の門と奥の立派な門の間が枡形になっています。外枡形です。奥に見える門はかなり立派です。手前の門の脇には、左側に小さな建物が見えます。中にはなにか御触書みたいなものも見えます。宿場町の高札のようなものでしょうか。ここが西尾城の正面であることが分かります。

なお、一の門と二の門は同じ向きですが、まっすぐではなく、微妙にずれていることが分かります。これは中を見通せないようにさせるためだそうです。その名残が現在の道になって残っているそうです。

ヤフー航空写真から

大手門跡の石碑がある交差点から南へ進む道があり、それが西尾城へとのびていた大手道です。交差点から少し西の方に道がずれていることを確認することができます。

大手門跡の空き地


大手門の二つの門がずれていることの名残。道が右手(西)に少しずれています。

ということで、ぐるっと西尾の市内を門跡を中心に回ってきました。絵図があると、想像が膨らみ、とてもよかったと思いました。また、ところどころに土塁の跡などもあり、城下町西尾市の様子を堪能することができました。
おしまい

城下町西尾市(2) 西尾市

2016年11月02日 22時08分44秒 | 西尾市
天王門跡
丁田門からぐっと北の方に足を延ばしますと、天王門跡があります。天王門はマップでは街の北東にあり、「東海道藤川宿から小島橋を渡り西尾郷へ通じる主要道路が城下に入り、その入口に位置する門」(現地案内)だそうです。

天王門跡

追羽門跡
そこから進路を西の方に向けますと、追羽門跡があります。

追羽門跡

説明や絵図では「追羽」門ですが、ネットで「追払」門と表示しているものもありました。城の正面に「追手門」、城下の北端に「追払門」。まさにぴったりの名前だなあと感心しました。

絵図を見ると今までの門とは少し違っていました。

追羽門の絵図

今までの門のように簡単なつくりではありません。二階建てです。しかも二階には狭間があります。ここから侵入してくる敵を攻撃できるようになっています。扉も頑丈そうです。門の両側には柵があります。両側の土塁からの侵入を防ぐためだそうです。

さらに奥の方には二の門らしき門が見えます。二の門は一の門と直角に曲がっています。「西尾城物語③」によれば、枡形の門だったそうです。かなり厳重な門です。
二の門の奥には屋根が見えます。武家屋敷だそうです。この門を警護する武士が居住地を兼ねて詰めていたのでしょうか。
想像が膨らみます。

城下町西尾市(1) 西尾市

2016年11月01日 17時22分27秒 | 西尾市
石川浩治さん
西尾市を訪れる前に、西尾城をネットで調べていたところ、西尾市教育委員会石川浩治さんという方の文を発見しました。

歴史探訪 西尾城物語③ 西尾城の遺構を訪ねる

石川浩治さんという名前をどこかで見た覚えがありました。「愛知の山城ベスト50」の執筆者だったのです。一色山城(瀬戸市)、松平城山城(豊田市)、則定椎城(豊田市)、孫根城(豊田市)などたくさんの山城を紹介している人でした。「愛知の山城ベスト50」では「中世城郭研究会」という肩書だけでしたが、西尾市の教育委員会に所属している方だということが分かりました。

その方の紹介では門等の遺構があるので、「西尾城下町歴史小径散策マップ」を手に歩くとわかりやすいということでした。

西尾城下町歴史小径散策マップ

PDFで配信しています

さて、二の丸と本丸をぐるっと一周した後さっそくこの地図を見ながら散策に行きました。

最初の東の丸太鼓跡に行こうとするとさっそく標識がありました。いいですね。

東の丸太鼓門跡
東の丸太鼓門は、今の西尾小学校の入り口付近にあったようです。

太鼓門櫓跡の説明(2013年9月)


太鼓門櫓跡の絵図(2013年9月)

上の絵図を見ると、本丸の丑寅櫓が描かれていて、感覚的に位置関係が分かりませんでした。どう考えても本丸丑寅櫓はこの絵図では手前に位置すると思うのですが…。

ま、それはそれとして、これから門めぐりをしますが、どの門にもこのように説明と絵図があり、遺構としてはほとんど残っていませんが、雰囲気を味わうことができました。

三の丸新門跡
太鼓門跡を東にまっすぐ行きますと、三の丸新門跡があります。

三の丸新門跡説明版

この門は、内枡形の門だそうです。この門の向かいには枡形の名残の土塁の跡がありました。

新門の名残の土塁跡

丁田門跡
新門跡の次は本町通りを北上し、中央通りを東に折れて「丁田門跡」です。

丁田門跡の説明版と絵図

丁田門は、城下の東の出入り口だったようです。

丁田門の絵図

絵図を見ると門の外に広い空間があり、まるで馬出のようになっていました。実際は、ここで出入りのチェックが厳重に行われていたのかもしれません。広場の外は川になっています。「歴史小径マップ」の「みどり川」が昔はここを流れていたのかもしれません。橋は、土橋ではなく板のようなもので作られています。戦になれば、この橋を壊して敵の侵入を防いだのでしょうか。想像が膨らみます。

奥の方には役人の番所みたいな建物もあります。建物の横にさす股など武具が掛けられているので、盗賊や謀反人が通れば、これで捕まえたのでしょうか。想像が膨らみます。

三河の小京都
西尾市は「三河の小京都」と呼ばれていますが、街並みを見ると江戸時代のような家並みがあり、なるほどなと思いました。

肴町通りの古い家並み

つづく