愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

古城 西尾市岩瀬文庫

2023年03月05日 05時15分36秒 | 西尾市
古文書の会の方から、「岩瀬文庫で山城の企画をやってるよ」という情報を得て、さっそく行ってきました。

企画の案内チラシ

絵図や古文書に残る古城の記録を展示するものです。

西尾市岩瀬文庫(2013年撮影)

江戸時代の古城に関する情報は、尾張地方は天野信景ほか「尾州古城志」(18世紀初め)、三河地方は佐野知堯ほか「三河国二葉松」(18世紀中葉)をネットで検索していました。また、絵図は、浅野文庫「諸国古城之図」の冊子(公益財団法人、広島城発行)を利用していました。この企画では、岩瀬文庫が持っている文献や取り寄せた文献などが紹介されていました。

写真撮影がOKでしたので、気に入ったものを紹介します。

諏訪原城

こちらは、広島城「諸国古城之図」の諏訪原城です。


微妙に違っています。

鳴海城です

「尾州鳴海古城之図」
パンフレットの解説文によれば、「斜面が茶色に塗られている。城の左上が北。所々に間数を注記する。南側の曲輪から伸びた道の先に家の屋根が連なって描かれているのは、東海道と鳴海宿であろう。」

この図を基にもう一度鳴海城を見てみる必要があると思いました。
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加藤嘉明生誕の地(1) 西尾市

2020年05月18日 09時18分31秒 | 西尾市
「参河国二葉松」幡豆郡を読み進めていきますと、「永良村(ながらむら)古屋敷」とあります。コメントは「加藤三之亟息左馬助嘉明出生加藤主殿同心也」とあります。

加藤嘉明の父、三之亟教明
加藤嘉明の父は三之亟(教明)と言います。ウィキペディアによれば、徳川家康の家臣でしたが、永禄6年(1563)の三河一向一揆で一揆側についたため子の嘉明ともども流浪の身となりました。

秀吉に拾われる 松山城を築城
しかし、近江の国で豊臣秀吉に拾われ、家臣になったようです。(はじめは豊臣秀勝の近習だったようです)以下秀吉に従軍し、たくさんの手柄を立てます。特に賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として有名になります。その後は秀吉に従軍して大きな手柄を立て、伊予の国の大名になります。そして、あの松山城を築城します。

加藤嘉明像(松山城にて)2015年11月撮影


松山城(2015年8月撮影)中央は松山城マスコットキャラクターの「よしあきくん」

その加藤嘉明が三河国で生まれたということです。場所は現在の西尾市上永良町です。そして、代表して宮東の神明社に「生誕の地」の石碑が建てられています。

加藤嘉明生誕の地石碑

国の天然記念物 大きな椎の木
この神社には他に面白いことが二つありました。一つは、大きな椎の木があるということです。案内板によりますと、樹高8m、根回り20m、樹齢1000年で県下最大の古木だそうです。昭和7年に国の天然記念物となっています。

大椎の木

広田川に向いている神社
もう一つは、常夜灯が川の近くにあるということです。

神明社、常夜灯、広田川の位置関係(グーグル地図より作成)

神明社の建物と2つの常夜灯の真ん中を結ぶと川に行きあたってしまいます。だいたい常夜灯は神社の入口近くか本殿の近くにあります。つまり、2つの常夜灯に照らされて、本殿に進み、お参りをするというわけです。この神社の常夜灯が川の近くにあるということは、川の方から本殿に進むということになります。鳥居は、常夜灯や本殿の向きとは全然違った道路沿いにあります。
本殿が南東の方を向いているので、それに合わせて常夜灯を置いたように思います。では、なぜ神明社が南東の方、つまり広田川の方を向いているのでしょう?なにか向きに理由があるのかも知れません。とても不思議でした。
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正法寺古墳 西尾市

2020年05月15日 14時54分40秒 | 西尾市
正法寺古墳
幡豆にまで来たついでに気になっていた古墳を見ることにしました。正法寺(しょうぼうじ)古墳です。全長約94mの西三河最大の前方後円墳で、古墳時代中期初頭(5世紀初頭)に築かれたと推定されています。国の史跡に指定されています。平成13・14年の発掘調査によって三段の階段状の葺石や島状遺構が確認され、円筒埴輪のほか、家や蓋(きぬがさ)などの形象埴輪が出土したそうです。さきの中之郷古墳もそうでしたが、被葬者は伊勢湾の海上交通をつかさどった人物だと考えられています。

正法寺古墳の形・大きさ(ウィキペディアより)

この図でも明らかなように主軸線と前方部の端の線が直行しないのがこの古墳の特徴です。また、「島状遺構」というものが発見されています。

正法寺
現在この地は古墳公園になっています。古墳の名前の元になったお寺正法寺もすぐ横にあります。

正法寺

しかし、これ自身が一つの史跡のようになっていました。曹洞宗のお寺のようですが、つっかい棒があり、今にも倒れそうな感じでした。このお寺の横が古墳公園になってました。

古墳

古墳公園入口 
公園は、草が生え、歩きにくい状態になっていました。これから草刈り等が予定されているのでしょう。


正法寺古墳全景
古墳は海の方が前方部、北の方が後円部になっていました。


前方部から見た後円部 
登ってみると、結構高いことが分かりました。それにとても大きく感じました。西三河一ということが実感できました。

海と古墳

古墳から海を臨む

また、古墳からは海が見えました。向こうに島が見えました。佐久島でしょうか。ここから海が見えるということは、海からもこの古墳が見えていたということです。昔この辺りは海で、この古墳は半島状の地形に築かれていたそうです。

正法寺古墳の位置(地理院地図の陰影起伏図で作成しました)

今の一色、吉良、幡豆のあたりは海で、その海に東の方から半島状に山が突き出しています。その突き出した半島のちょうど先端のあたりに、島に浮かぶように正法寺古墳があります。古代の人はこの古墳を見て、目を見張り「大きな力を持った王がいる」と思ったに違いありません。
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中之郷古墳 西尾市

2020年05月13日 15時15分12秒 | 西尾市
幡豆の小笠原家
三河の南に一色町、吉良町、幡豆町という3つの町がありました。今は西尾市に合併してしまいましたが、それぞれ歴史のある町でした。その中の幡豆町に戦国時代、小笠原氏が住んでいました。幡豆小笠原氏というそうです。幡豆小笠原氏は2系統ありました。

幡豆小笠原氏
小笠原安芸守(寺部城) 定正-広政-重広-信元-信重・・・
小笠原摂津守(欠城)  安元-安次-広勝・・・

この小笠原氏は、はじめ今川氏についていましたが、桶狭間の戦い(永禄3年1560)の後、徳川氏につくようになりました。永禄6年(1563)の三河一向一揆では家康側に付いて戦います。永禄7年から11年(1564~68)にかけては、今川氏に対抗するために遠江との国境の船形山城を守ります。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは小笠原安元の弟と孫の安広が戦死し、三男の安勝も歩行困難になる重傷を負うなど小笠原氏は大きな被害を被ります。その後小笠原家は家康に従い、子孫は関東で旗本になっています。

欠城
さて、寺部城は城跡としてしっかり残っていて、見学にも行きましたが、「欠城」にはまだ行っていません。そこで、行ってみることにしました。なお、欠城は「参河国二葉松」では「寺部掛村古城」として記載されていました。最初は違う城かと思いましたが、「かけ」が同じ発音なので同じ城だと分かりました。しかし、現在は「中野郷」「市場」「貝吹」などの地名になっていて「掛村」に関係する地名は残っていないようです。

参考 ネット「みかわこまち」より「小笠原広重と小笠原安元」
  本ブログ「幡豆寺部城(1) 西尾市」「船形山城跡 豊橋市」

中之郷古墳
現地には「穴観音」と呼ばれるお社がありました。この観音のあたり一帯が欠城のあった場所だそうです。

穴観音

穴観音とは、この墳丘が「中之郷古墳」と言われる古墳であり、その石室の中に観音様をお祀りしたので、穴の中の観音様、穴観音と呼ばれるようになったのだと思います。

中之郷古墳の説明版

説明板によれば、被葬者は、「海上交通を掌握し、近畿や九州地方とも交流を持った人物」と考えられるそうです。ネットでは「奈良朝時代の豪士三宅民部足信盛を安置奉った」と古人の言い伝えがあるとの情報もありました。
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幡豆寺部城跡(2) 西尾市

2017年10月05日 14時16分42秒 | 西尾市
本丸には、お堂が建てられておりました。また、案内掲示板がありました。

本丸

そして本丸東側には、大きな土塁が残っていました。

土塁跡

この土塁には、「諸国古城之図」に注意書きがありました。
「此土イ高ク他ノ山ヨリ城内見エズ」
当時はよっぽど高い土塁だったのでしょう。

また本丸からは三河湾が大変よく見えました。

本丸から三河湾を臨む

そして、案内板に小笠原氏と海との関係についての説明がありました。
・三河時代は徳川の船手衆(ふなてしゅう)として活躍
・関東移封後は江戸湾を守る御船手(おふなて)をつとめる
・関ヶ原の戦いでは、師崎の城を守り、九鬼水軍の押えを果たす
・大坂の陣では、三浦半島の三崎と走水(はしりみず)の番をつとめる

なるほど、小笠原氏は海賊だった可能性が濃厚です。もともとは、信濃の豪族だったというから、不思議でした。

さて、登城道をもとに戻り、入口より西のほうを見てみると大きな竪堀がありました。

二の丸からのびる竪堀 下から撮影

その堀の右側は土塁になっていて、さらに三の丸跡になっています。(案内板では畑と表示)
そこで、もう一度二の丸に上がり、上から確認しました。

三の丸跡・土塁・竪堀

寺部城は、海に面したお城になっていて、以前蒲郡で見た上之郷城跡を思い出しました。
小笠原氏は、三河湾を制して水軍として活躍したのだろうということがイメージとして描くことができました。
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