愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

キムタクは悪くないけれど

2022年11月21日 10時01分10秒 | 愛教労 城の会
雨の中、岐阜城を見学

キムタクは悪くないけれど、13日は一日中雨。当初の予定日6日(日)は快晴。6日(日)にキムタクが岐阜を訪れ、信長行列に出演するため、大変な人混みになると予想され、やむなく13日(日)に1週間延期したら、この有様です。
 それでも、当初予定していた人はほぼ参加していただけ、10人で岐阜城見学を実施することができました。今回は「おんさい案内人」というボランティアの方に案内をお願いしました。参加者は退職教職員の会が6人、会員の連れ合い、友人で2人、年金者組合から1人、緑区の歴史サークルから1人と大変バラエティに富んだ顔ぶれでした。
 はじめに発掘調査案内所という建物に入り、金華山麓の「信長館跡」から出土したものを展示している部屋に入りました。そこには屋敷の屋根瓦を飾ったであろう金箔瓦の破片や酒をもてなしたであろうカワラケの皿が展示してありました。特別に案内の方に説明をしていただきました。

発掘調査案内所にて

 つぎに、ロープウェイの右横信長館跡の見学をしました。正面には立派な石垣があり、いかにも信長の宮殿と思わせるものでした。跡地はシートで覆われていたり、埋め戻しがされていたりして、往時を偲ぶものは目につきませんでしたが、滝が流れていたという岸壁は褶曲が美しく、それだけでも見ていて美しく感じました。

信長館の説明をする案内人


滝が流れていたという岸壁

 最後は、おなじみの金華山にロープウェイで上がり、山上の城を見学しました。一の門、堀切、二の門、石垣、さらに天守と結ぶ通路を固めた石垣などを見学しました。また天守閣に入り、信長の具足などの資料を見ました。
 雨の中熱心に見学をしていただきました。これに懲りず、また企画した際も参加の方よろしくお願いします。

松平記(39) 松平記

2022年11月21日 09時20分47秒 | 松平記

松平記p39

翻刻
なれハ、芳情有。浅井と申者をひそかに遣し、義元討死の間
明候て可然と被申候間、元康も早々のき給ふ。
一 鳴海の城にハ岡部五郎兵衛持て有しが、大将討死と聞き
てハ、御供と為、此城にて討死すへしと、諸人持たる城々明
て退候へ共、同廿日迄のかず。尾張衆佐々蔵人先手にて攻
候へ共中々ひるむ事なし。其時駿河衆の大将分達判し使
をこし、早々明渡可然との儀也。岡部猶もこらへ候処に、信
長より大に感し和談に致し扱にて城を渡し、義元の御死
骸並御首を申請て、手勢同心一人もちらさず行形なく引て帰る也。
一 岡部五郎兵衛かりやの城をうかがいけるに城主水野藤

現代文
(水野下野守信元は元康と伯父、甥の関係で)あったので、情けをかけられた。浅井と申す者を密かに遣わし、義元は討死したので城を明けるべきであると話したので、元康も早々に城を立ち退いた。
一 鳴海城には岡部五郎兵衛が籠っていたが、義元が討死をしたと聞き、義元の供をして、この城で討死するまで戦おうと、他の駿河衆が自分の守っていた城を明け渡して逃げて行くのに、5月20日まで鳴海城を退かなかった。尾張衆の佐々蔵人成政が先陣として攻撃したが、なかなかひるまなかった。その時、駿河衆の大将格の武将が使いを出し、早く鳴海城を明け渡すべきだと説得をした。しかし、岡部はなおも戦いをやめなかったが、信長がこのことを大いに褒め、和談とした。岡部は城を明け渡すかわりに義元の亡骸と首を引き取り、手勢、同心など一人も残らず引き帰った。
一 岡部五郎兵衛ガ刈谷の城を通りかかった時に、城主水野藤九郎

コメント
岡部五郎の話です。かれは、後に高天神城の戦いでも登場する戦国時代有名な武将であると言えます。大将である義元が討死した後でも降参せずに戦い続け、ついに義元の亡骸と首をもらうのと交換条件で開城するという有名な話です。
しかし、ここでの疑問は、もっと早くに信長と戦う時があったのではないかということです。信長は、善照寺砦に行ったとき、ようやく2000騎ぐらいの兵になり、一点突破で何とか今川軍を打ち破る兵力を整えます。この兵を整えるまでの間に岡部が鳴海城から攻めるチャンスがあったのではないかと思います。善照寺砦は鳴海城と一つの山でつながっています。東西に細長い丘状の山で、西の端に鳴海城、東の端に善照寺砦があり、間を堀切が掘られ遮断しています。

鳴海城と善照寺砦の位置関係
<地理院地図、陰影起伏図>

この点での記述は、「信長公記」にも「松平記」にも「三河物語」にもありません。不思議な点です。この「松平記」の文では佐々成政の攻撃にも耐え、信長に称賛され、ようやく義元の首と引き換えに城を明け渡したというのですから、戦力的には結構な力を持っていたと考えられます。この力を以て善照寺に着いたばかりの信長を攻撃していたら、きっと大手柄を立て、桶狭間の戦いは違った結果になっていたことでしょう。そして日本の歴史も大きく変わっていたと思われます。

松平記(38) 松平記

2022年11月09日 14時09分55秒 | 松平記

松平記p38

翻刻
一 義元の御馬廻衆も随分働候間、尾州衆の物頭佐々隼人正、
千秋新四郎、岩室長門守、織田佐馬允、一色なんとと申よき
者、数多其場にて討死也。
一 御先衆に打死致したる衆ハ、三浦左馬助、斉藤掃部助、庵原
右近、同庄次郎、朝比奈主計、西郷内蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永
伯耆守、牟札主水、四宮右衛門八、井伊信濃守、松平兵部、温井蔵人、
松平治右衛門、其外六十余人近習一人も不残、其庭にて討死也。
一 諸軍驚き、主のとふらひ軍すへき方角もなく、瀬名、三浦、朝
比奈等、池鯉鮒城皆番手衆明て落行。大高の城にハ松平元
康衆持しか、水野下野守ハ信長衆なれとも、元康と伯父甥

現代語
一 今川義元の御馬廻り衆も随分応戦したので、尾張織田方も部隊長の佐々隼人正、千秋新四郎、岩室長門守、織田左馬允、一色などという立派な武将が、たくさんその場で討死をした。
一 先陣の武将で討死した武将は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同庄次郎、朝比奈主計、西郷内蔵助、富塚修理、松平摂津守、冨永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守、松平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余名、近習は一人も残らず、その場にて討死をした。
一 今川軍は驚き、主の弔い合戦をするてだてもなく、瀬名、三浦、朝比奈等、池鯉鮒城のすべての番手衆みな落ちのびていった。大高城には松平元康衆が持ちこたえていた。水野下野守は信長の味方であったが、元康とは伯父、甥の関係であれば、

コメント
御馬廻り衆とは、いわゆる親衛隊で、一般的に腕に覚えのあるものが仕えていたようです。織田方も損失を受けました。佐々、千秋は別動隊の武将たちです。岩室長門守は、「信長公記」に名がありました。信長がこの日の朝、清須城を小姓たった5騎とともに出陣したのですが、その5騎(岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎)のうちの一人でした。しかし、「信長公記」では、ここで岩室は死んでいません。首巻「於久地惣構へ破るゝのこと」に登場し、ここで討死をしてしまいます。「上総介殿御若衆にまいられ候、岩室長門かうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜しみ大方ならず。」永禄4年(桶狭間の戦いの翌年)6月のことです。織田左馬允については、後に津田盛月と名乗る武将がいます。当然、ここで討死はしていません。文禄2年(1593)に死んだそうです。一色とはだれなのか、分かりません。ということで、織田側の戦死者については、「松平記」の記述は佐々と千秋以外は、はっきりしません。
 今川側の戦死者については、「豊明市史・資料編補2・桶狭間の戦い」に詳しく記載されていましたので、転記します。(p50)

桶狭間の戦いにおける戦死者

驍士(ぎょうし、強い武将の意味)583人、雑兵2500人としています。織田側は、990人余りとの説もあります(ウィキペディア)
今川軍は有力武将が討たれ、総崩れに近い形で東へと逃げ落ちて行きます。逃げ落ちる武将の中に瀬名、三浦、朝比奈の名前が挙がっています。具体的に誰なのか分かりません。

松平記(37) 松平記

2022年11月07日 11時08分18秒 | 松平記

松平記p37

翻刻
戦御勝にて、目出度と鳴海桶はさまにて昼弁当参候処へ、
其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下
候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善照寺の
城より二手になり一手ハ御先衆へ押来、一手ハ本陣のし
かも油断したる処へ押来り、鉄砲を打掛しかハ、味方思ひ
もよらさる事なれは、悉敗軍しさハく処へ、上の山よりも
百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて、義元
を突申候処、義元刀をぬき、青貝柄の鑓を切折り、小平太か
ひさの口をわり付給ふ。毛利新助と云もの、義元の首をと
りしか、左の指を口へさし入、義元にくいきられしと聞へし

現代語
戦に勝ち、目出たいと鳴海の桶狭間にて昼弁当が届けられた所へ、その辺の寺社から酒、肴が進上された。お馬廻りの兵たちが酒を飲み、御馳走をいただいているころ、織田信長が急に攻めてきた。笠寺の東の道を通り、善照寺砦より二手に分かれ、一手は義元の先陣に攻めかかり、一手は本陣の、しかも油断している所へせめ来たり、鉄炮を撃ってきた。味方は思いもかけないことであったので、悉く敗戦し、わめき騒ぐ所へ、山の上の方からも100人程の兵が攻めてきた。服部小平太という武者が長槍を以て義元を突いた。義元は刀を抜き、青貝柄の槍を切折り、小平太の膝を切りつけた。そこへ毛利新助という武者が現れ、義元の首を取った。その時義元の口に左手の指を入れたところ、義元に指を食いちぎられたとのことである。

コメント
前回は主に鷲津砦、丸根砦の攻防でしたが、今回は義元が討ち取られる場面です。
まず、昼弁当のことですが、太田牛一「信長公記」に記載はなく、謡を舞っていたという記述があるだけです。大久保忠教「三河物語」や前野家文書「武功夜話」では昼弁当の記述があります。甫庵「信長記」では酒を飲んでいたという記述があります。「武功夜話」では蜂須賀党がわざと今川軍に御馳走を進上し、油断させ、それを簗田出羽守という武将を使って、信長に知らせ、義元を急襲したというストーリーになっています。これはできすぎだと思いますが、今川軍が昼に酒を含む飲食をしていたという説は、この「松平記」がもとではないかと思います。「信長公記」でも謡をしているとありますので、ある程度は飲食をしていたように思います。時刻もちょうど昼時ですので。
 次に信長軍が二手に分かれて攻めたという記述です。一手目の先陣を攻めたというのは佐々隼人正、千秋四郎の300人程の軍を言い、本陣を攻めたというのが信長本隊で、善照寺砦より東を迂回して義元本陣を急襲したという多くの説と一致しています。戦前の帝国陸軍参謀本部の「日本戦史 桶狭間の役」に書かれた内容です。しかし、現在は否定されていて、迂回説をとらない「信長公記」の正面突破説が有力になっています。また、佐々隼人、千秋四郎の衝突は「信長公記」にも書かれていますが、これを暴発と考える人もいます。(藤本正行)この辺は謎の多いところです。
 信長軍が山の上から100名ほどで義元本陣に攻めかかってきたという記述があります。迂回した結果、信長軍は山の上に上り、そこから下にある義元軍に攻めかかったということでしょうか。この記述から義元本陣が山ではなく、山の下方にある、現在の豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」の一つの根拠になっています。しかし、合戦の常識から山の下、窪地に陣を敷くということは考えにくいため、この説は現在否定されています。「信長公記」のいう「おけはさま山」の頂上か中腹あたりに義元の本陣があったと考えられています。
 服部小平太、毛利新助と義元の攻防は、大変迫力があり、具体的なので本当かも知れません。服部小平太の膝をきられた話は「信長公記」にもあります。本当かも知れません。