愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

高浜かわら美術館(2) 高浜市

2017年09月27日 13時59分37秒 | 高浜市
また森前渡船場跡公園には「だるま窯」という窯が展示してありました。

だるま窯
今から50年ほど前までは、この「だるま窯」と呼ばれる山のような形の窯で、手作業で瓦が造られていたそうです。

そしてその奥には、いかにも窯の跡らしい「赤窯」という建物がありました。

赤窯の建物

自由にお入りください。塩焼瓦窯(通称赤窯)をガイドボランティアがご案内します。(入場無料)

との看板がありましたが、その日は開いていませんでした。(残念)

さて、この美術館の近くに郷土資料館があるということなので、そこにも足を運びました。
そこに戦前瓦工場で賑わった様子の写真がありました。

戦前の高浜町瓦工場の賑わい

この瓦を焼く薪はおそらく三河の割木だったと想像できます。
(高浜かわら美術館 おわり)
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高浜かわら美術館 高浜市

2017年09月26日 18時01分19秒 | 高浜市
9月18日、高浜かわら美術館に行きました。渡辺政香「鴨の騒立」のなかで、「割木騒動」というのがありました。矢作川下流域の瓦産業や陶器産業で、その割木が使われていて、三河から矢作川を下って運ばれているということでした。下流域の瓦産業を調べていると、「三州瓦(さんしゅうがわら)」というものがありました。なんと、日本三大産地の一つだそうです。あとの2つは、石州瓦(せきしゅうかわら)=島根県石見地方、淡路瓦=兵庫県淡路島です。そういえば、CBCラジオで「一富士、二鷹、三州瓦」と宣伝をしていました。地元でも、名前が売れているようです。

この三州瓦は、江戸後期から明治にかけて生産が盛んだったということですので、天保4年の「割木騒動」は時代がぴったり一致します。

ということで、三州瓦について、どんなものか見てみることにしました。


高浜かわら美術館

美術館に入ると、さっそく三州瓦の説明パネルがありました。


三州瓦の産地

三州瓦は、高浜市を中心に碧南市、半田市、刈谷市、安城市、西尾市周辺だそうです。その理由は、瓦に適した粘土「三河土」が採れたことと海のそばで瓦を船で運ぶのに適していたからだそうです。
もう一つ、私的に付け加えるなら、矢作川が近くに流れていて、瓦を焼く割木を三河の山から運び入れるのに、適していたからでしょうか。
さて、美術館で目に留まったものを紹介します。


押え瓦 
糸車の重しとして使われたもので、かつては嫁入り道具だったそうです。「三河木綿」の産地と密接に結びついていることがうかがわれます。


高浜湊図絵馬
この絵は、春日神社で見ることができる絵馬を映した絵です。 春日神社の絵馬は、天保14年(1843)に17人の船主によって奉納されたものです。江戸時代の高浜村の海辺の賑わいが分かります。

美術館の外は。「森前公園」になっていました。ここは、「森前渡船場跡」です。衣浦大橋ができるまでは、高浜と知多の間は、船で往来をしていました。案内掲示には、「江戸時代刈谷藩は、この渡船場を重視し、浦役を庄屋に命じて船の出入りを取り締まり、年貢五百石を免じていた」そうです。
ちょうど上の絵馬にあるような光景が広がっていたのでしょう。

森前渡船場跡
(つづく)
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木曽川鵜飼 犬山市

2017年09月22日 13時58分18秒 | 犬山市
9月16日(土)、愛教労(愛知県教職員労働組合評議会)の企画する木曽川鵜飼見物に参加しました。鵜飼と言えば、長良川鵜飼が頭に浮かびますが、木曽川でも行われています。
ネット「木曽川うかい」のサイトで紹介していましたので、それを記載します。

鵜飼は、美濃国では702年(大宝2年)の各務郡中里の戸籍「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」の記述が最も古い資料です。この資料から木曽川うかいの起源は、今より1300年前と考えられています。犬山では、今から340余年前に犬山城3代目城主成瀬正親公が御料鵜飼として始められ鵜匠を保護したと言われています。昔は漁として行っていたため、満月・水の濁ったときは鵜飼をとりやめていましたが、明治42年頃より観光を取り入れて行っているため、増水・台風時以外のときは行われています。

当日は台風が沖縄・九州に来ていて雨模様でした。しかし、木曽川には犬山城があり、犬山城を木曽川から見上げながらの鵜飼は、また格別でした。


船から見た鵜飼舟乗船場


見物の船ででた弁当。鮎づくしでした。おいしかったです。


木曽川から見る犬山城。白く光る点は、雨です。安物のデジカメなのできれいに写りませんでした。


鵜飼の様子

鵜飼は間近まで近づいて見ることができました。10羽ぐらいの鵜をひも(綱?)で操り、鵜が魚を飲み込むと、その鵜だけひもで船の中に入れ、魚を吐き出させていました。
暗い中で、鵜はどうして魚が分かるのか、鵜飼は10羽の鵜の中から、魚を飲み込んだ鵜がどうしてわかるのかとても不思議でした。鵜が魚をお腹まで飲み込まないのは、首の根元をひもの輪っかで止めているからだそうです。

これは名人業であると思いました。人間国宝にしてもいいくらいに思いました。
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加茂一揆(4) 石亀坂集会

2017年09月20日 05時57分28秒 | 加茂一揆
渡辺政香「鴨の騒立」第3回 石御堂への動き

 又加茂郡松平村に隆蔵というものがおった。これも知恵が働き、口のうまい男だったが、千蔵・繁吉の元に行き、
「騒動の話があるが、我等のような者では、頭となって計画をすることは難しい。願わくはご両人(千蔵・繁吉)が指図をしたほうがよい。」
と頼んだ。はじめからそのつもりであった二人だったので、さっそく隆蔵の意見に同意し、この企てを起こすことにした。
 一説に、大田村信光寺で集まりがあり、そこでこの騒動を企てたという説もある。
 また一説に、徒党三十人あまりが松平村隆蔵宅に相談に行った。しかし、隆蔵は下河内村辰蔵の宅に行っており留守であった。留守の女房が言うところでは、
「お前様方大勢が来ていただいたが、亭主は留守です。相談することがあれば、他でしてください。私の家では相談することはやめてください。」
と断ってきた。徒党の衆は、もっともだと、羽明村石御堂に集まり相談したそうである。
  一説に、石御堂は滝脇村にあるという説もある。
 
いよいよ一揆の計画段階になります。
「鴨の騒立」では、要約すると以下のように話が広がり、石御堂へと動いていったようです。
①松平村の隆蔵が、九久平村の千蔵・繁吉に「指図」を依頼する。
②の1 大田村信光寺で、会合、一揆へ
②の2 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、場所を変えて羽明村石御堂で会合した。
②の3 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、滝脇村石御堂で会合した。

しかし、これらの記述は豊田市史では採用されず、中間に石亀坂での会合などがあったとされています。

以下、豊田市史の内容を要約します。
①9月16日、下河内村の辰蔵の家で、松平郷の柳助(隆蔵)、九久平村菅沼の繁吉が会合
②9月20日、松平郷の柳助の家に関係者が集合する。しかし柳助が集会の会場となることを拒否。一同は茅原村石亀坂へ移動する。参加者、下河内村の辰蔵、松平郷の柳助、勇、九久平村菅沼の繁吉、九久平村山中の吉蔵、北川向村の文六、仙蔵、平吉、林添村の弥平、切二木村の吉右衛門、三平など
③9月21日、石御堂に集結

なお、人物の名が食い違っています。
「鴨の騒立」松平村の隆蔵=「豊田市史」松平郷の柳助
   九久平村の千蔵=     九久平村菅沼の仙吉

松平郷の柳助が自分の家で集会をやることを拒んでいますが、松平は領主松平太郎左衛門の屋敷があるところですから、そのお膝元で、このような物騒な集会をやったら、すぐに見つかりますし、ただでは済みません。また、一揆そのものも潰されてしまいます。そういうことを考えると、柳助またはその女房が、場所を変えてくれと言ったのは、もっともです。


石亀坂集会の主な参加者(豊田市史「天保4年割木騒動をめぐる村々」に加筆しました)

また、石亀坂集会では、何を、だれに、どのように要求するのかが話されています。(参考「豊田市史」)

要求する事柄(対象)
・米価を1両につき6,7斗にすること(米屋・酒屋)
・頼母子講を2年間休会すること(役所?)
・諸色(物価)を引き下げること(米屋・酒屋)
・年貢金納相場を1両につき、6,7斗にすること(役所)

頼母子講とは、一般に民間での金融的な組織となっていますが、松平地域では領主の松平太郎左衛門が親で、村単位で行っていたようです。領主財政が厳しくなり、借金が返せなくなるほどになっていたようで、頼母子講で得た金を財政の赤字に充てていたようです。また、これに高利貸しが加わり、利益を得ていたようです。頼母子講は、定期的に開催され、その都度百姓が掛け金をとられる仕組みだったので、2年間休会せよとは、飢饉、物価高騰の時節柄、頼母子講に出す金はないということからだと思います。

要求実現の方法(主張者)
・米屋・酒屋を打ち壊すと流言して、六所山で集会を持つ。仲裁・調停に応じる(辰蔵)
・酒屋・米屋と交渉する。交渉に応じない場合は役所に願い出る(柳助)

一揆の組織づくり
・内通者が出ないように、役所に「遠見」(見張り)を雇う
・内通者は、直ちに家を打ち壊す
・人数が少ないので、各村々に2~3人の参加者を募る(廻状を回す)
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加茂一揆(3) 九久平

2017年09月19日 05時06分16秒 | 加茂一揆
割木騒動の舞台は九久平です。

九久平の地図(Googleマップより作成)
Googleマップを検索していると、発見が2つありました。
一つは「港橋東」という交差点です。当然この交差点の橋の名は港橋ということになります。つまりここに港があったという名残だと思います。

実際、橋がありました。写真の右側が九久平で左側が岩倉・平古です。

港橋

近くの松平交流館に寄って資料を探していますと、ご年配の職員の方が親切に「このパンフレットを持っていくといいよ」と教えてくれました。

パンフレット「松平のむかし話と言い伝え」

このパンフレットによると、「巴川水運の川港の近くに架けられたので、港橋と呼ばれるようになりました。」と明記してありました。
なお、この橋は明治3年に架けられ、明治8年に洪水で流されました。洪水のたびに流されるので、「流橋」(橋の横板が針金やロープでつないであり、洪水で流されると拾い集めて、また橋にした)になっていました。昭和7年に死者が出る事故があり、新しい橋の建設が始まりました。財政難で難儀したそうですが、昭和10年に鉄筋の橋になったそうです。そして平成9年、現在の橋にリニューアルしました。

二つ目は、「(資)鍋嘉商店」というお店です。割木騒動で騒動の対象となった問屋の一つが「鍋屋嘉兵衛」という材木問屋です。ほかの資料でも九久平の代表的な材木問屋として鍋屋嘉兵衛の名が載っています。「鍋嘉」とは「鍋屋嘉兵衛」の短縮形ではないだろうか。このお店はもしかしたら鍋屋嘉兵衛のお店ではないだろうかと思いました。
実際その看板がありました。

「鍋嘉商店」

しかも近くに材木置き場があり、まさに「材木問屋」のようでした。しかし、お話を聞こうにも人影がありませんでしたので、ちょっと離れたところにあったお菓子屋さんを訪ねました。「志満屋(しまや)」というおしゃれな和菓子屋さんです。

お菓子屋「志満屋」(Googleストリートビューより)

「この近くに鍋嘉商店というのがありますけど、昔は材木問屋だったのでしょうか。」
お菓子屋さんの若いおかみさんに聞きました。しかし、分からないということでした。ご主人さんにも出ていただきましたが、分からないということでした。ただ、「加茂一揆」については、娘さんの小学校で学芸会の演目になっていたとか、子どもたちが裏山にある辰蔵さんの墓を見学に来ているなどのお話をしていただけました。
「志満屋」はとても感じの良いお店でした。
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