愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(12) 松平記

2022年01月31日 16時54分33秒 | 松平記

松平記p12

翻刻
勝れたり、但シ阿部大蔵か子清康を討申たるやつの親に家
老を御させ候事を常に申たる間、大蔵めが讒言にて有へし
と色々御申しわけ有しかとも、終に不叶して御浪人被成、今
川殿へ御越候て色々なけき被成候間、今川殿岡崎の年寄
本多平八、酒井雅楽助、石川安芸守、安部大蔵丞、植村新六郎
を呼、かハるがわるに蔵人儀被仰候而、是非和平にと御申候へ
共、三知行御横領の事色々申たて、終に蔵人殿を追出申候
蔵人殿も是ひなく敵に成、酒井左衛門尉、松平三左衛門な
んとと一味し、尾張衆へ内通し敵に成玉ふ、内藤甚三ハ蔵
人殿の衆なれとも敵にならん事を悲しミ、大久保甚四郎

現代語
(忠節は人に)まさっている。阿部大蔵の息子が清康を殺害したその親に家老をさせている事を常々言っているが、阿部大蔵の讒言でこうなったに違いないと申し開きをした。しかし、ついに言い訳はかなわず、蔵人信孝は浪人の身となってしまった。そこで今川義元殿の所へ行き、色々言い訳話をしたので、今川義元殿は岡崎の年寄、本多平八、酒井雅楽助、石川安芸守、安倍大蔵丞、植村新六郎を呼び、かわるがわる蔵人信孝のことを述べられ、ぜひとも穏便にと求められたが、蔵人信孝による三知行地の横領を申し立て、ついには蔵人信孝を追放してしまった。蔵人信孝は松平の敵となった。酒井左衛門尉、松平三左衛門などと仲間になり、尾張織田と内通し、敵となった。内藤甚三は、蔵人信孝の衆だったが、敵になる事を悲しみ、大久保甚四郎・・・

コメント
 松平蔵人信孝は、言い訳むなしく、今川の力も借りましたが、岡崎から追放の身となります。この間の出来事で、今川は清康、廣忠を支援してきました。廣忠を追放した内膳信定は、織田派のように思われます。蔵人信孝は今川か織田か、どっちに着くのか、中間的な立場であったように思います。今川に信孝が支援を求めに行ったことで、今川は廣忠をとるか、信孝をとるか選択を迫られたように思います。そして信孝を切ったと考えられます。
 今川に切られた信孝は、当然にも織田に与するしかなくなり、織田派になっていったように思います。
 今川に呼び出しを受けた各部将は、本多平八はかの有名な徳川四天王の本多平八郎の父の本多平八郎忠高、酒井雅楽助は、先に石川安芸守とともに、酒井左衛門尉から切腹をすべきだと言われています。(松平記(9))ここでは、廣忠の年寄となっています。安部大蔵は、阿部大蔵の間違いではないかと思います。植村新六郎は、清康が阿部大蔵の息子弥七に切られたとき、その弥七を切った人です。息子との敵と同席して年寄として活動するのは、できるものかと思いますが、今川に一緒に呼ばれています。
 酒井左衛門尉は、(松平記(9))で、廣忠に対して謀反を起こしたとありましたが、大原左近右衛門や今村伝次郎と共に、佐々木松平三左衛門忠倫と仲間になったようです。それに今回松平信孝が新しく加わったということです。
 内藤甚三は、忠郷といい、三河一向一揆で一揆側に付いた内藤清長の弟でした。

松平記(11) 松平記

2022年01月28日 09時43分05秒 | 松平記

松平記p11

翻刻
(御)一門衆にあまり大名ハいやなる事也。蔵人殿今ハ殿へ御
如在ハなけれとも十郎三郎殿御死去の上ハ、御一人にて
末には多分岡崎をとらんと惣領を御心掛給ふべし。御隠
居も御果、十郎三郎殿も無御座、蔵人殿一人か様に大名に
て御座候事、気遣千万にて御座候間、何とそ追出申御知行
を此方へ取候ハんと評定し、其年正月廣忠御病気にて蔵
人殿廣忠の御名代に駿府へ御越候跡にて御屋鋪を追捕
し番衆を置、御帰候得共中々近所へ寄不申候。御知行も半
此方より代官を申付候間にせす。蔵人被申ハ是ハ何と申
たる事にて候哉、我等廣忠に少も御如在無之忠節ハ人に

現代語
松平御一門衆に、あまり大名がいることはよくないことだ。蔵人信孝殿、今は殿に手抜かりなく忠節をしているが、十郎三郎康孝殿が亡くなり、お一人でいくいく岡崎を乗っ取り、宗家をめざしている。御隠居松平長親も亡くなり、十郎三郎康孝殿も亡くなり、蔵人信孝殿一人がこのような大名になっていることは心配でならない。なんとか信孝を追出し、その知行地をこちら(廣忠)に取ってしまおうと相談した。其の年の正月廣忠は病気なので蔵人信孝殿が廣忠の名代として駿府へ行った後に、屋敷を襲い、見張り番を置き、信孝が帰ってきても中々近くには寄せ付けず、知行地も半分くらいはこちら(廣忠)から代官を派遣した。蔵人信孝が申されることには、これは何ということだ、我等廣忠に少しも手抜かりなく、忠節は人に(勝っている)

コメント
「大名」という言葉が出てきますが、名はこの場合、田んぼとか領地とかいう意味でしょうか。「大名」とは大地主のような意味だと思います。先回も廣忠の家臣たちが蔵人信孝の領地横領で、廣忠より大きな地主になっていることを憂慮しているという記事がありました。
今回も同じ記事があり、そこから信孝の領地を取り上げてしまおうという所に話が進んでいます。戦国時代にこういう話が実際あったとは思いますが、「何とそ追出申御知行を此方へ取候ハんと評定し」ということを記録として残していいものかどうか、疑問に思いました。というのも、これでは「信孝が横領した」と非難していることを、自分たちもやっていることになり、自分たちの正当性が失われるからです。
しかし、それは実行されます。姑息にも廣忠を病にし(多分仮病?)、その名代として信孝を駿河に向かわせたというのです。これは新年のあいさつでしょうか、なにか駿河に御機嫌を伺う必要があったのだと思います。本来は一門の当主が行うことになっていたのでしょう。(ということは、「松平記」の筆者は廣忠が当主であり、信孝はあくまでも代理ということを前提として話をしています)
信孝追放の具体的措置は、屋敷を抑える(見張り番を置く)、知行地(領地)に代官を派遣する(つまり横領)の二つでした。領地の農民はちょっとびっくりすると思います。年貢の納める先がコロコロ変わるわけですから。
信孝は、怒ります、これはどういうことかと。私は忠節をしっかりとつくしているんだと。
こうした弁解が通用するか、次回のお楽しみです。

松平記(10) 松平記

2022年01月18日 12時17分57秒 | 松平記

松平記p10

翻刻
一 御一門岩戸殿御死去被成、其跡可継御子なくして御知行
蔵人殿横領被成、板倉已下岩戸衆皆蔵人殿に付申候。蔵人
殿廣忠へ大忠被成候間、是程の御加増ハ有ても大事なし
とて岡崎御年寄中かまハす又無程蔵人殿御弟十郎三郎
殿御死去被成、是も御子なくして御知行蔵人殿横領被成
阿部大蔵ハせかれ清康を討申たる者とて蔵人殿御にく
ミ有。又内々御家老中相談致しけるハ蔵人殿御知行に両
跡目を合せて御支配被成候得ハ、同心被官合て岡崎衆に
少なくてハ、不違〇清康御幼少の時伯父内膳殿大勢にて
岡崎の為に代々しやくの虫と成給ひし事にこりたり。御

現代語
一 御一門である岩戸殿(岩津松平家)が亡くなられたが、その跡を継ぐべき子がなく、松平蔵人信孝殿が、是を横領した。板倉以下岩津衆は松平蔵人信孝殿に異議を申したが、蔵人信孝は、「廣忠に大きな恩があるので、これぐらいの加増は問題がない」といって、岡崎の年寄りたちに耳を貸さなかった。またほどなく蔵人信孝殿の弟十郎三郎康孝殿も亡くなり、これも子どもがなく、知行地を蔵人信孝殿が横領した。阿部大蔵に対しては、せがれが清康を討ったことで、蔵人信孝殿は憎んでいた。また内々で御家老衆が相談するには、蔵人信孝殿が岩津と弟保孝殿の両知行地を合わせて支配することになれば、同心・被官を合わせても岡崎衆は少なくなり、先に清康が幼少の時伯父の松平内膳信定が大勢になって、岡崎にとって「癪の虫」(禍の源)となったことの再現である。

コメント
9ページで問題にした酒井左衛門尉忠次の謀反の話は途中で切れて、松平信孝の横領事件の話になります。
この信孝は、廣忠が岡崎に帰る際に手助けをしたようです。そのことを恩に着せて所領を横領したという話です。元々信孝は、清康の弟ということもあり、清康が森山で横死した後、松平内膳信定を抑えて、廣忠の岡崎帰還に一役買っていたようです。しかし、領地が廣忠より大きくなったため、廣忠の家臣たちが内膳信定の再現とかなり問題視していたことが分かります。

星崎城 名古屋市南区

2022年01月16日 07時33分44秒 | 名古屋市南区
花井右衛門尉兵衛は信長の家臣か、山口左馬助の同心か
桶狭間の戦いの前に、山口左馬助が謀反を起こし、織田から今川に寝返ったという話があります。山口左馬助は、鳴海の城に息子の山口九郎二郎を入れ、笠寺に砦を築き、かづら山、岡部、三浦、飯尾、浅井の5人を置き、中村に砦を拵え、そこに立て籠りました。(「信長公記」)。「豊明市史(桶狭間の戦い)」を調べていると、この件で織田信長が反撃のため、天文24年2月5日に山口に同心した星崎、根上の者の領地没収のための調査を命じる文書が掲載されていました。

星崎根上之内、今度鳴海江同心之もの共、跡職、悉為欠所上者、堅可遂糾明者也、仍如件
天文廿四     上総介
二月五日      信長(花押)

  一雲軒
  花井右衛門尉兵衛殿


この文書は、宛名が花井右衛門尉兵衛となっています。つまり、花井は信長の家臣であったわけです。信長は、花井に領地没収の調査を命じているのです。

ところが、この花井を調べていくうちにウィキペディアで「星崎城」の項目があり、「鳴海の豪族だった花井右衛門兵衛がここを居城にした。山口教継(左馬助」の謀反により、花井右衛門兵衛の領地が織田信長に没収され、岡田直教が城主になった。」とありました。脚注に名古屋市南区のHPがありましたが、そのHPに花井の記述はありませんでした。また、参考文献として「尾張名所図会第5巻星崎古城」とありましたが、そこにも花井の記述はなく、どちらも星崎城は岡田直教からの記述になっていました。
ということは、ウィキペディアの、上記史料の誤読かもしれないと思いました。

松平記(9) 松平記

2022年01月14日 15時56分50秒 | 松平記

松平記p9

翻刻
平三左衛門(松平忠倫)ハ、弾正(織田信秀)と一味ゆへ、いまた岡崎へ別心にてつ
くも(わ?)り渡りと云所に取手を取、岡崎へ向て合戦有。さる程
に御一門衆も日来内膳殿と入魂の衆ハ面目をうしなひ
座鋪へ出ても末座に居、今度骨折仕て殿を引入申たる大
久保、阿部大蔵なんとハ出頭し、各々物いひ出来て、酒井左
衛門尉(忠次)ハ御縁者なれとも此頃殿に恨出来、大原左近右衛
門、今村伝次郎と御同道被成登城有。御訴訟有しハ石川安
藝守、酒井雅楽助に切腹被仰付可給、此両人に恨有と御申
候得共、廣忠用給ハす、是により両三人御逆心被成、三左衛
門殿一味被成候也

現代語
佐々木松平三左衛門忠倫は、織田信秀の味方なので、未だに岡崎に反抗し、つくもり渡りという所に砦を作り、岡崎(広忠)と合戦をした。さて、松平一門衆の中でも日頃松平内膳信定と仲よくしていた者は面目を無くし、座敷でも末席に座った。今度骨折って廣忠殿を岡崎に引き入れた大久保や阿部大蔵などは、おおいに物を言うようになった。酒井左衛門尉は親戚であるが、この頃恨みを持ち大原左近右衛門や今村伝次郎と一緒に登城している。家臣内で訴訟があり、先の三人は石川安芸守清兼、酒井雅楽助正親の切腹を廣忠に要求したが、廣忠は受け入れなかった。これにより、先の三人は広忠に逆心し、佐々木松平三左衛門忠倫の一味になった。

コメント
佐々木松平忠倫は、本文にあるように織田信秀と通じていたようです。「つくもり渡り」というのがよく分からないのですが、佐々木は矢作川のすぐそば(西岸)ですので、矢作川にかかる「渡り」ということだと思います。松平家臣団の中で、大久保。阿部らの発言権が増し、酒井左衛門尉、大原、今村らの意見が通りにくくなっている様子が描かれています。酒井左衛門尉と酒井雅楽助は同門でありますが、ここでは切腹を要求するなど、かなり対立が深まっていたようです。「松平記」は酒井左衛門尉ら三人が逆心したという展開になっています。松平家は大変な状況になっているようです。酒井左衛門尉は同一人物かどうか分かりませんが(父かも知れません)、後に徳川四天王の一人として家康を支える酒井左衛門尉忠次のことかも知れないのです。謀反を起こしていたのですか。