愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

高知城(2)三の丸、二の丸 高知県

2015年11月30日 21時00分51秒 | 高知県
三の丸石垣
階段を登っていきますと、高い石垣が見えました。三の丸の石垣です。

三の丸石垣。高さは13m、野面積みで積まれています。右の方の出っ張りは、横矢掛りといって、石垣を登ってくる敵兵を横から攻撃するために設けられたでっぱりです。どの石垣にもこのような工夫があります。

三の丸の石垣。みごとな曲線です。上の方ほど傾斜がきつくなっているので、登れないです。

鉄門跡
さらに登っていきますと、鉄門跡があります。これは、「くろがねもん」と読むのかと思いましたが、本丸のほうに「黒鉄門」というのがあって、こちらも「くろがねもん」でした。鉄門は、なんと読むのか忘れてしまいました。

鉄門跡 この門の石垣には立派な石が使われていました。

鉄門の石垣 鉄門は枡形になっていました。

詰門

鉄門を通り左に折れますと、詰門があります。本丸へは右手前の石垣の前を通り、詰門の右側から入ります。このまま詰門に行っても本丸へは行けません。

三の丸

三の丸は、雨で水溜りがありました。ここから天守閣がよく見えました。

三の丸からの天守

詰門の中
詰門の内部には部屋がありました。写真には「中老溜間」と書かれています。まさに家臣たちが詰めていたところだったのです。

高知城(1)大手門付近 高知県

2015年11月28日 07時30分26秒 | 高知県
2日目は高知県です。
高知県は初めてです。

南国土佐 高知市
高知市には電車が走っていました。

高知市の市電。ローソンの広告をしていました。

さらに高知城に近づくと道路の中央分離帯にソテツの木が並んでいました。こんな光景見たことありませんでした。「南国土佐だ。」と思わず叫びそうでした。

ソテツが並ぶ高知市の道路。

高知城
いよいよ高知城に到着しました。

高知城マップ(現地パンフレットより)マップの赤い線に沿って見学しました。

山内一豊
まず、出迎えてくれたのは、山内一豊の像です。


高知城を案内していただいたボランティアの方です。

そのボランティアさんが一押しで勧めるビューポイントです。

高知城。右手前が大手門、中央奥が天守閣です。大手門と天守閣が一望に見えるので、ここが一番のポイントだとおっしゃっていました。

板垣退助
大手門をくぐると板垣退助の像がありました。高地県は有名人が多いですね。「板垣死すとも自由は死なず」という言葉が個人的には好きなので、その言葉を思い出しました。

板垣退助の像

石どい
石垣には、「石どい」がありました。ここから水が流れ落ちます。

高知城の石どい。松山城のものより長く外に突き出ています。これは、雨水が直接石垣があたらないようにという、雨の多い高知ならではの工夫だそうです。(現地案内板より)

山内一豊の妻千代と内助の功
階段を登っていきますと、右手にこんどは山内一豊の妻千代の像がありました。

千代の像。夫である山内一豊が織田信長に仕えた頃、「馬揃え」といって、戦いの前に家臣たちの馬を信長が調べるために、一堂に馬を集めたそうです。一豊は、この馬揃えのために、ほしい馬があったのですが、高くて買えません。そこで、妻の千代が、嫁入りのときに父から「何かあったときに」と渡されていた10両をぽんと出したそうです。一豊はそのおかげで、信長に認められたということです。10両とは、今のお金で250万円くらいだそうです。
ボランティアガイドさんに教えていただいた有名な内助の功の話です。

湯築城跡(2) 愛媛県

2015年11月25日 14時15分28秒 | 愛媛県
湯築城跡には午後4時30分ごろに着きました。このごろは日が落ちるのが早く、雨も降っていましたので、少し気持ちがせっていました。

湯築城跡全景

湯築城跡航空写真(現地パンフレットより、文字等は加筆しました。)中央の山が私には古墳に見えてしまい、「もしかしたら元は古墳ではなかったのか」と秘かに思っていました。しかし、古墳ではなかったようです。


案内板。湯築城跡は国指定の史跡です。

外堀

外堀。すぐに見えました。きれいに整備されていました。

搦手(からめて)

搦め手。城の裏手になります。今は表玄関になっていました。これは城の中から写した画像です。これもきれいに整備されていました。小高い堤防は外側の土塁です。湯築城は、堀と土塁で防備を固めていました。

武家屋敷と土塀

画像の左側が武家屋敷。右が土塀と門です。今、お金持ちの家として建っていてもおかしくないような家です。発掘では、この下から屋敷の礎石が見つかり、部屋の間取り等も分かったそうです。


屋敷の中には、当時の武士たちの様子が人形にして展示してありました。左奥の人だけ帽子(烏帽子)を着けていません。そしてなにか考えています。服装も他の人と異なっている気がします。何者でしょう。坊さんでしょうか。


こちらは、台所の様子です。お盆に湯飲みが5つ並んでいます。人のすぐ前には、茶釜があります。今から客人にお茶を出すところでしょうか。茶釜の横には、饅頭らしきものがあります。また、この人も烏帽子が無く、頭が坊主です。この頃の下人の一般的な姿でしょうか。


庭園借景

湯築城跡は、大変きれいに整備されていて、ちょうど朝倉遺跡のようでした。朝倉遺跡はもっと大規模でしたが、湯築城跡は、松山市民が気軽に歴史に触れることのできる公園だと思いました。

湯築(ゆづき)城跡 愛媛県

2015年11月24日 08時59分09秒 | 愛媛県
松山城の次は、湯築城です。
所在地 松山市道後公園

湯築城跡は、松山城から東へ約2キロから3キロぐらいの距離です。道後温泉のすぐ近くでした。

関係する武将
河野氏 湯築城は、伊予国の守護河野氏の拠点として栄えました。南北朝期に河野通盛がここに本拠を置いてから約250年間戦国時代まで河野氏が拠点としていたそうです。その後近くの細川氏の侵入や一族間の抗争がありましたが、戦国期に豊臣秀吉が四国攻めを行った際、秀吉軍の小早川隆景に河野通直(牛福丸)が敗れ、河野氏の伊予支配は終わりました。

全国に広まる河野氏
河野氏は、全国に広まっているそうです。

中世河野氏の諸国への広がり(現地資料館の資料より)

この図を見ると、愛知県にも織田信長の家臣として河野氏(通勝)がいたことが分かります。親鸞に帰依したそうです。信長は真宗とは激しく対立しましたが、河野氏は家臣としてうまくやっていけたのでしょうか。

福井県 河野村
さて、河野といえば、先日福井県の右近家を訪れましたが、右近家のあるところも旧河野村と言いました。

福井県 旧河野村 右近家

ウィキペディアでは、以下のように河野氏とのつながりを記しています。

越前国の河野村は、南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦に破れ、流浪の末に築いた村といわれる。現在も河野家と同じ家紋を瓦に残している。

一遍上人も河野氏
また、踊念仏で有名な一遍上人も河野氏ゆかりの人でした。

一遍上人は、源平合戦で源氏側についた河野通信の孫に当たります。

若越城の会 見学会 松山城 愛媛県

2015年11月22日 07時44分42秒 | 愛媛県
11月13日(金)から11月15日(日)、「若越城の会」の見学会に参加しました。
コースは、以下の通りです。

13日(金)伊予松山城、同湯築城(資料館)
14日(土)高知城、岡豊城(高知県立歴史民俗資料館)
15日(日)香川栗林公園、高松城

福井県からバスで回りました。コースも宿も食事も、旅行会社ではなく、会の方が考えたもので、大変有意義なものとなっていました。

13日
朝は、大変早かったです。コースの中の湯築城資料館に間に合わせるために朝早く出発しました。最近オープンした「舞若道路」を通り、岡山県を縦断し、瀬戸大橋を渡って、四国に入りました。

吉備サービスエリアにいた桃太郎。

松山城
最初の見学地は、松山城です。以前に訪問したことがあります。
そのときの記録は、こちらから 松山城 愛媛県

しかし今回の見学では、こんなことも発見しました。

石垣の雨どい

石垣の表面に色が違っている部分があります。上の方に「とい」のようなものがあります。城の排水溝です。水はけをよくするために、石垣のなかに設置されていました。ここから雨のときに水が下に流れるので、その水の通り道だけ周りの石垣と色が違っているのです。

戸無門(となしもん)の柱

この柱に継ぎ足した跡がありました。松山城は、天守閣が現存する12のうちの一つですが、こうして昔の姿を今に伝えているのだと感心しました。なお戸無門は、国の重要文化財です。

天守閣

松山城の天守です。今は3階建てですが、築城者の加藤嘉明が建てたときは、5層6階だったそうです。縮小改修を行ったのは、松平定行と言う大名ですが、幕府に対する遠慮ではないかといわれているそうです。

天守閣でもう一つ気がついたことは、石垣が下のほうとぜんぜん違う事です。下のほうの石垣は、わりと粗く造られていましたが、天守の石垣は、ぴったり石と石がかみ合うように積み上げられていました。

天守の石垣

一つの城でも場所によって石垣の積み方が違っていました。これは、天守を立派にするためなのか、それとも築城年代が違うからなのか、どちらだろうと思いました。