愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

八事興正寺 名古屋市昭和区

2015年01月24日 19時19分54秒 | 名古屋市昭和区
以前この寺の近くに住んでいました。なので、この寺の前の道(国道153号線)は、何回も通っていました。しかし、この寺に五重塔があること、しかも道から見えることにほとんど気付きませんでした。今回、守山城に行く道すがらふっと見上げたら、そこに五重塔が見えたのです。興味がない、関心がないということは目まで暗くしてしまうものだと痛感しました。
さっそく、守山城の帰り道に立ち寄りました。



なかなか立派な五重塔でした。五重塔といえば法隆寺ですが、わざわざ修学旅行で行かなくても名古屋にありました。塔の前に大仏がありました。昨年の9月にできたそうです。私的には要らないと思いました。

守山城址 名古屋市守山区

2015年01月24日 18時13分58秒 | 名古屋市守山区
守山崩れ
守山城といえば、「守山崩れ」。徳川家康の祖父松平清康が、家臣阿部正豊に暗殺された事件です。松平家は清康の時代に勢力を拡大し三河を治め尾張にその勢力を伸ばそうとしていました。しかし、この事件で清康が亡くなると、松平家は衰退の危機にさらされることになりました。

守山城址概要図「愛知の山城ベスト50」より

宝勝寺
さて、守山城は宝勝寺というお寺になっていました。宝勝寺は真言宗のお寺でした。出かけたときにお墓参りの方がちらほらと見えました。

宝勝寺山門

土塁跡?
このお寺の裏手に史跡がありました。まずは、土塁らしきものの跡です。上記概要図のAです。

右側の小高い土手みたいなものです。手前が駐車場でちょうど車がおいてあり、高さがわかりやすいです。「愛知山城ベスト50」では「たかまり」としていて、土塁とは表記していませんでしたので、土塁ではないかもしれません。

この高まりに石碑がありました。


堀の跡
さらに、その土塁らしきもののすぐ南側にかなり深い堀がありました。

写真では、ただの竹やぶですが、けっこう深かったです。「ベスト50」では深さ7メートルとしています。それくらいはありそうです。

切り岸?
そして、ぐるっと回って西のほうのD地点(概要図で赤くDと書いてあるところです)を見てみました。D地点は平らになっており、現在は畑でした。しかし、その西側が急な崖になっており、城の遺構の一部ではないかと思いました。切り岸かな?

D地点を西のほうから見たもの、かなり急な崖になっていました。

末森城 名古屋市千種区

2015年01月18日 16時08分37秒 | 名古屋市千種区
絶好のいい天気。太平洋側は快晴です。日本海側や東北、北海道地方は雪が降っていると思われます。大変申し訳なく思いますが、今日は風もあまりなく穏やかな日でした。

ということで、史跡めぐりをしました。今日は末森城です。

去る程に、備後殿、古渡の城破却され、末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。
(「信長公記」巻主)


天文17年(1548年)、備後殿(織田信秀=織田信長のお父さん)は、古渡の城を破却し、ここに移りました。信秀の居城です。
案内板では、「守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのため」だそうです。その頃の三河は今川氏が勢力を張っていたようです。織田信秀は、天文21年(1552年)にこの城で病死し、三男の信行がこの城の城主となったそうです。しかし、信行は、稲生原の合戦で信長に敗れ、永禄元年(1558年)清須城で謀殺されたそうです。

城山八幡宮
末森城址は、街の中にあります。したがって、あまり遺構は残っていないだろうなあと思って出かけました。しかし、以外にもしっかり残っていました。(案内板によると、八幡宮の境内になって保護されたためとありました。)

末森城正面(南から)といっても、城山八幡宮の鳥居と木が見えるだけですが・・・


末森城概要図(「愛知の山城ベスト50」より)


南から入っていくと、鳥居が見えました。これは、二の鳥居です。
Ⅰ郭は、駐車場でした。

Ⅱ郭(八幡宮本殿)
駐車場を進んでいくと、城山八幡宮の本殿があります。今日は日曜日とあって、お参りに来ている人がたくさんいました。中には、昨年のお札やお守りを持参している方も見えました。初詣?


この本殿の参道辺りに丸馬出が存在していたらしいです。城山八幡宮のホームページに蓬左文庫の古城絵図が掲載されていて、それを見ると見事な馬出が描かれていました。

埋められた空堀(概要図A)
Ⅰ郭とⅡ郭の土橋の両側に空掘が本当はあるはずでしたが、一部埋め立てられていました。写真上部の常夜灯の見える辺りがⅠ郭とⅡ郭をつなぐ土橋のあったところです。

反対側の空掘も一部分埋め立てられていました。何か事故でもあったのでしょうか。遺構がなくなるのは、残念です。

馬出状Ⅳ郭
本殿西側にはⅣ郭があり、「愛知の山城ベスト50」では「丸馬出状の」という説明つきで紹介されていました。

なにやらブルーシートの山がありましたが、その向こうには深い堀がありました。

空掘(概要図B)
Ⅲ郭およびⅡ郭の南側には大きな空掘がありました。空掘りの中を歩けるようになっていましたので、しばらく散策を試みました。空掘りからⅠ郭を見上げてみましたが、大変急勾配で、これでは登り切れないなと実感することができました。





Ⅲ郭
Ⅲ郭は「旧昭和塾堂」という建物が建っていました。


都会の中の城址ということでしたが、堀の跡が特にしっかり残されていて、その迫力に感動しました。

福谷(うきがい)城 みよし市

2015年01月11日 16時07分17秒 | みよし市
みよし市
今日は、方向一転。みよし市に行きました。みよし市とは、旧西加茂郡三好町です。人口が増えて、市政に移行するときに、「三好市」が既に徳島県にあったので、やむなくひらがな表記にしたようです。私なんかは、三好町といったほうがぴんと来るのですが、2010年「みよし市」となりました。
みよし市に、あまり有名な史跡は聞いたことがありませんでした。そこで、「愛知の山城ベスト50」を開いてみたら、「福谷城」が見つかりました。「ふくたに」ではなく、「うきがい」と読むそうです。
さっそく、近場でもあるので、行ってみることにしました。

福谷城
城主は後に徳川四天王の一人と言われた酒井忠次、地元の土豪原田氏重の名が伝えられ、尾張、三河が緊張関係にあった16世紀中葉には、柴田勝家を将とする織田方と激しい攻防があり、多数の死傷者があったと伝えられています。(現地案内板より)
確かにみよし市は尾張と三河の境目にあります。刈谷の水野氏もそうでしたが、尾張の織田、三河の今川、松平との間に立って大変だったことがうかがわれます。


南のほうから福谷城を見る


現地案内板より

Ⅰ郭
さて、福谷城は大きく分けて、Ⅰ郭とⅡ郭からなります。(小さな郭を入れると、5つあるそうです。)Ⅰ郭はきれいに整備されていました。

Ⅰ郭北側の土塁です。なだらかに盛り上がっていました。その奥の赤い屋根は城山保育園の屋根です。

また、Ⅰ郭には、土坑と呼ばれる遺構もありました。(しかし、土坑とは何なのか不明です。「ベスト50」に説明がないのでわかりません。)

細いあぜ道のような者が十字形にありました。


土坑という名で紹介している「ベスト50」の図。

Ⅱ郭
次は、Ⅱ郭を探検しました。なんとⅡ郭に建造物がありました。しかも廃屋のようです。ネットでは、神社になっているとありましたが、もう使われていないようです。

Ⅱ郭にあった建物


竹が自由に生い茂るⅡ郭

どっちにしても、Ⅱ郭は全体が竹やぶで、およそ遺構を確認することはできませんでした。私有地なのでしょうか。それとも行政の怠慢でしょうか。Ⅰ郭がきれいに整備されていましたので、Ⅱ郭のほったらかしは、すこし驚きました。(Ⅱ郭のほうが主郭というのに)

石垣の遺構?

Ⅱ郭の土塁

これは、Ⅱ郭の土塁です。よく見ると、石垣のようなものが見えます。でもこの時期に石垣で土塁を作ったことは考えられないと思いますが、神社を作ったときのものでしょうか。また、「ベスト50」では、この土塁が昔は古墳と考えられていたが、調査の結果福谷城の土塁であるとわかったと記してありました。

ところが「ベスト50」で、「城門か」と書いてあるところに、また、石垣らしきものがありました。

本当に、福谷城の石垣だったらおもしろいです。

さて、この城の近くに福谷寺というお寺があったので、行ってみました。真宗大谷派です。その由緒を読んでいたら、偶然知人と同じ名前を発見してしまいました。感動でした。

大垣城 岐阜県大垣市

2015年01月10日 16時08分36秒 | 岐阜県
妖刀あざ丸のこと
2015年、初めての史跡めぐりは大垣城です。大垣城に行こうと思い立ったのは、「信長公記」です。
「信長公記」巻首に「景清あざ丸刀の事」という一説があったからです。

景清あざ丸刀の事
去る九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝つて申す様に、尾張者はあしも腰も立つ間敷候間、大柿を取り詰め、此の時攻め干すべきの由にて、近江のくにより加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。
爰に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれなり。此の刀、陰山下掃部助求めさし候て、西美濃大柿の並び、うしやの寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、さん転の悪き弓にて、木ぼうをもつて、城中より虚空に人数備への中へくり懸け侯へば、陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす、其後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来なり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ。此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり。


 景清とは平景清らしいです。平景清とは源平合戦の頃の武将で、大変勇猛だったようです。ので、各地に伝説が多く残っておるそうです。「信長公記」の一説もその伝説の一つを記録したのかもしれません。熱田神宮に行ったとき、たくさんの刀が展示してありましたが、その中にきっとあったのでしょうね。その時は知らなかったので、見過ごしてしまいました。

大垣城

大垣城は、大垣公園の北東部に位置しています。再建された主な建造物は天守閣、戌亥櫓、丑寅櫓です。

大垣城天守閣 四層四階建てです。四を嫌う風習があるので、めずらしいと思いました。

戌亥櫓です。

丑寅櫓です。

城の東側および北側を流れる水門川、昔は大垣城の水掘りでした。

初代藩主戸田氏鉄(うじかね)の像。戸田といえば、渥美半島の戸田氏を思い起こしますが、なんか関係があったのでしょうか。

関が原の合戦に関わるお城
 さて、大垣城ですが、行ってみると、「関が原の戦い」を一つのテーマにしていました。というのは大垣城が西軍石田三成の本拠となっていたからです。天守閣の中では「関が原の合戦」の映像が流されていました。おかげで、関が原の合戦の大要を学ぶことができました。

大垣郷土館
この城の近くに大垣市郷土館というのがあって、共通チケットでしたので、行ってみることにしました。

郷土館の中は関が原合戦屏風図などいろいろなものがありましたが、びっくりしたのは、大垣際という祭礼の山車に朝鮮山車というものがあったということです。

(パンフレットより)

朝鮮山車
江戸時代に朝鮮通信使が長崎から江戸に何回か行っていますが、大垣はその旅路の宿泊所だったのです。当時の人がめずらしいということで、彼らの服装などを複製して山車として祭りに献上したらしいのです。しかも「猿田彦大神」の幟が一緒に展示してありました。猿田彦と朝鮮には何か関係があるのでしょうか。明治になって禁制となり、今ではその遺品が残されているだけのようです。

(パンフレットより)