愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

2016年も終わりです

2016年12月23日 17時29分50秒 | 日記
2016年も師走になり、あと10日足らずで大晦日です。
今年を振り返ってみます。

今年は、大きな出来事がありました。

一つは、名古屋城の天守閣木造再建問題です。名古屋市の市政の問題となって、「タウンミーティング」という説明会までありました。私も参加しましたが、その当時は、2020年まで完成させるという案でしたので、財源も含めて賛否両論が出ました。私もこれを機会に名古屋城について勉強させていただいたので、大変有意義でした。現在の状況は、2020年は無理で、いつまでに造るか、予算規模をどうするか等が定まらず、議会でも継続審議中となっています。

タウンミーティングの資料

二つ目は、愛知県(または東海、三河)に皆さんが来ていただけたことです。7月には大学時代のサークルの友人が同窓会として愛知ではありませんが岐阜に来ていただけました。11月には「若越城の会」の皆さんが2泊3日で愛知県の史跡の見学に来ていただけました。また「退職教職員の会」の皆さんがやはり11月に三河一向一揆をテーマに1日バス旅行で来ていただけました。
私の方も張り切って案内しなければということで、下見に出かけたり、史跡のことを学習したりと、ある意味緊張感をもって案内させていただきました。おかげさまで少し自信を持つことができました。

吉良温泉からの朝日

さて反省点として、自分の中にテーマがなかったということがあります。これまでに、桶狭間の戦い、三河一向一揆、鳴海小作争議などを自分なりにテーマを設定して関連する史跡を回るということをしてきましたが、今年はこれといったテーマを設けずに回りました。というのも「愛知の山城ベスト50」の城(全部で67あります)を回るということが暗黙の目当てになってしまい(あと14で達成です)、なんとなく義務感で回っている感じでした。2017年は再度テーマを設定して回るということを意識したいと思っています。
もちろん「愛知の山城ベスト50」もクリアしたいと思います。

それではみなさん よいお年を
来年もよろしくお願いします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽布城址 豊田市

2016年12月23日 12時25分49秒 | 豊田市
アップするのが遅れましたが、12月18日大桑城址を見学した後、羽布城址を見学しました。

大桑城址と羽布城址の位置

城主は川合小兵衛
羽布城は、「日本城郭大系9」で、「赤狐山の山頂が城址。川合小兵衛の居城という。」とありました。

羽布城址イメージ図

さて、郵便局から車で少し山を登ると車の通れる道の左側に標識があり、車を降りて山道を行くと左側にこっそり羽布城の標識がありました。見過ごすところでした。

主郭
この標識から登っていきますが、まったく道らしい道はありませんでした。ただの山肌です。草や木立のある道を当てもなく登っていきますと、ようやく山頂(主郭)につきました。

羽布城主郭

西側平坦地
けっこう広い曲輪でした。そこから西の方になだらかに平坦地が伸びていましたので、進んで行きますと急に崖上になっていました。おそらく見張りだとして使っていたのではないでしょうか。

主郭西側の平坦地

帯曲輪
主郭の周りはぐるっと帯曲輪が回っていました。


内枡形虎口?
主郭の北に虎口のような遺構を感じました。

土塁に囲まれ、少し低くなっていました。私には内枡形の虎口のように見えました。

主郭の東側は堀切がありますが、草が多く写真ではうまく伝えられないので、カットします。

堀切
その東側の堀切をさらに進むと尾根を断つ堀切がありました。こちらは分かりやすかったです。

主郭東側尾根の堀切。南側から撮影。

羽布城址は思ったより広く、大桑城址より広いと感じました。しかし、城址への道がなく、少し難儀しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大桑城址 豊田市

2016年12月18日 19時54分19秒 | 豊田市
12月18日(日)。昨日までの寒さが和らぎ、史跡めぐりには絶好の日よりとなりました。今日は豊田市の下山地区大桑城と羽布城を訪れました。

大桑城
大桑城は「三河国二葉松」に「大桑村古屋敷 河合弥十郎」とだけ記されています。

「愛知の山城ベスト50」では、河合弥十郎がどんな人物か定かではないが、大桑城の城主ではないかとしています。また、「愛知の山城ベスト50」では、河合弥十郎に関して、家康の歴史を記した「東照軍鑑」の記事を紹介しています。

「東照軍鑑」はネットで公開されていましたので、河合弥十郎の関係する文を調べてみますと、以下のようでした。

義元に対抗した大桑城主河合弥十郎
(今川義元被改三州敵味方士事)
「天文十九年庚戌二月上旬今川義元三州敵味方ノ武士改サセ・・・・義元竹千代殿ヘ不従一家ヲ立テ有之衆・・・・大桑弥十郎大桑城主・・・・」


家康の麾下に入った河合弥十郎
大桑弥十郎属幕下事並滝山寺御見物事)
「(永禄八年二月)・・・同廿四日西三河田代大沼へ被出御馬松平飛騨守友貞ヲ以テ大桑ノ弥十郎ヲ引付御帰陣ノ刻・・・・・」


つまり、天文19年今川義元が三河の武将でだれが味方かを調べた時、大桑弥十郎(大桑城主)は義元に従わない武将であること。また、永禄8年に松平貞友が大桑の弥十郎を引き連れて(味方にして)滝山寺を見物したということ

ここから、大桑弥十郎ははじめ今川氏に対抗していたが、義元が死んだあとは、徳川の麾下に入ったことが推測されるということです。

川合さんが多い地域
行ってみて分かったことですが、この辺りには「川合」という方が多いようです。

大桑町の道路に立てられた「カワイ板金」の看板(Googleストリートビュー)

偶然かもしれませんが、道の脇に「カワイ板金」の看板があり、郵便局の近くの家は「川合」さんでした。それにこの近くに「川合」さんという私の友人もいます。

河合弥十郎はどんな人物か分かりませんが、「川合」と関係がある気がしました。

さて史跡は小学校の近くにありました。

小学校の横の駐車場の大桑城案内看板

小学校の脇にきれいに道が整備されていました。その道を登っていきますとすぐに大桑城址にたどり着きました。

大桑城址イメージ図

土橋
まずは立派な土橋がありました。

主郭への土橋

堀切
この土橋の両側には堀切がありました。

土橋東側の堀切

「愛知の山城ベスト50」では箱堀と紹介されていましたが、草が深く確認できませんでした。

主郭
土橋を通り中に入ると、主郭です。主郭から虎口や土塁が見えました。

主郭東側の土塁


主郭西側の土塁

主郭には標識と観音様が祀られていました。

主郭を守る観音様

河合さんという人に関心を抱いた城めぐりでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡城址 岡崎市

2016年12月10日 14時47分04秒 | 岡崎市
寒くなりましたが、いい天気が続きます。今日は岡崎の岡城址を訪れました。

岡城とは
三河国二葉松
『三河国二葉松』では「「額田郡 岡村古城 池野大学 松平蔵人信孝 板倉弾正 永禄4年神君御出陣 河合勘ヶ由左衛門」と端的に紹介されています。

池野大学の築城
池野大学によって築かれたようです。(現地案内板)ただし、池野大学とはだれなのか、築城はいつのことなのか分かりません。

松平信孝が拠点に
松平蔵人信孝は、先日訪れた浄珠院にお墓がありましたが、徳川広忠の叔父にあたる人です。その信孝が天文7年(1548)の小豆坂の戦い(尾張織田信秀と今川勢の戦い)で、織田勢としてここを拠点にして今川勢と戦ったそうです。(『浅野文庫 諸国古城之図の世界』)

板倉弾正 神君御出陣
永禄4年(1561)には、中島の郷で松平主殿助(伊忠)に敗れた板垣弾正(今川家臣)が岡城にこもり、そこに家康が攻めて、板倉弾正は東三河に行ったそうです。(『三河物語』

河合勘ヶ由左衛門
そのあと、家康は岡城を河合勘ヶ由左衛門に守らせたそうです。

岡村御殿
なお、天正13年(1585)には家康は岡村城を岡村御殿と呼ばれる宿所に改修したそうです。したがって現在残っている遺構は宿所としての遺構と思われます。


三河額田 岡村(『浅野文庫 諸国古城之図の世界』)

岡城址は国道1号線の近くにありました。国道1号線は昔の東海道なので、ここに拠点を築いたり、宿所にするというのは頷けました。


岡城址案内板

看板のある所から少し奥に入っていきますと、「史跡 岡城址」の石碑がありました。

岡城址の石碑

立派な土塁
ここを通り過ぎると、左手に立派な土塁がありました。

土塁

この土塁が「古城之図」のどれになるのかずいぶん悩みましたが、

図の赤丸部分に相当するのではないかと、結論づけました。

堀跡
土塁の後ろには堀の跡もありました。

土塁南側の堀

岡城は平地にある城としては開発を免れて土塁や堀などが遺っていて、すごいと思いました。やはり「神君」(家康)の遺したものなので、なかなか手が付けられなかったのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩略寺城址(2) 豊川市

2016年12月07日 15時07分58秒 | 豊川市
本曲輪
本曲輪の北は、土塁を挟んで二の曲輪と分かれていました。

本曲輪の北

枡形虎口
本曲輪の東には虎口がありました。


縄張り図や「愛知の山城ベスト50」では枡形虎口と説明していましたが、はっきりと枡形が分かりませんでした。この地形を見て枡形と判断した人はすごいと思いました。

本曲輪から来た道を戻って本曲輪の西南部に進みました。腰曲輪がありました。

本曲輪西の腰曲輪。奥の方は腰曲輪の土塁

三日月堀
そこから今度は、北西部の方に回りました。三日月堀です。

この堀は丸馬出にある三日月堀ではないそうです。写真の左上は井戸曲輪です。井戸曲輪の防御を強くするためにここを掘ったようです。

食い違い虎口
三日月堀から城の北部をぐるっと回り食い違い虎口のあるところに来ました。

北の食い違い虎口。西の方(城の外側)から撮影しました。

ここから城内に入ることになるわけですが、確かにこの虎口の反対側(東側)はかなり険しい斜面になっていて、登ってくることが困難に思われました。

武者隠し
最後に気になった「武者隠しの横堀」というところに行ってみました。

武者隠しの横堀

大きな木が横たわっていましたが、けっこう深い横堀でした。なぜ「武者隠し」とわざわざ名付けているかは分かりませんが、ここに兵を隠しておいて、敵が来た時に奇襲をかけることはできると思いました。横堀の新しい活用法でしょうか。

岩略寺城は、大変大きくて、「三河部では最大級」と「愛知の山城ベスト50」で紹介されていましたが、たくさんの遺構が遺っていて、大変勉強になりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする