愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

彦根城(5)西の丸から玄宮園 滋賀県彦根市

2015年10月27日 14時12分42秒 | 滋賀県
西の丸
天守閣は、人が多く流れ作業のような見学になりました。天守閣を出ると、その奥に西の丸がありました。

西の丸から見た天守閣。

西の丸の突端には、西の丸櫓がありました。


内堀・黒門橋
西の丸から内堀沿いに歩きました。

内堀。西の丸側は石垣が積んでありました。その石垣の内側は、空堀がありました。

しばらく歩いていくと、「黒門橋」がありました。楽々園、玄宮園へ行く門です。

黒門橋。石垣が両側にありました。石垣の上には櫓がおそらくあったのでしょう。

楽々園・玄宮園

楽々園の建物

楽々園から引き続き玄宮園にいけます。玄宮園から天守閣を見る事ができました。

玄宮園から天守閣を見る。

彦根城をぐるっとひとまわりましました。天守閣だけではなく、天秤櫓など見るものもけっこうありました。満足の一日でした。

彦根城(4)本丸 滋賀県彦根市

2015年10月26日 05時11分34秒 | 滋賀県
太鼓門
天秤櫓を過ぎ、太鼓門をくぐると天守閣が見えてきます。

太鼓門

本丸
ただし、天守閣は人がいっぱいで入城するのに待ち時間が設けられていました。

本丸。人がいっぱいでした。

佐和山城
天守閣に登る途中に佐和山城が見えました。


天守閣からの眺め
天守からの眺めは大変よかったです。

天守閣から彦根市内を望む。


天守閣から琵琶湖を望む。

彦根城(3)天秤櫓(てんびんやぐら) 滋賀県彦根市

2015年10月23日 16時12分59秒 | 滋賀県
大堀切
大手山道を登りつきますと、高いところに橋のある谷底みたいなところに出ます。ここは、大堀切だそうです。橋の左側が天守閣方面です。この橋を落とせば、天守閣へ攻め入ることがかなり困難になります。

大堀切

天秤櫓(てんびんやぐら)
堀切の右側から橋へと続く道がありました。橋の向こうは、天秤櫓という建物でした。ちょうど、櫓が天秤のように左右両方にあります。航空写真で見るともっとはっきりします。

大手山道・大堀切・天秤櫓

天秤櫓が上空からは、コの字を寝かせたように見えています。この形が天秤ばかりに似ていることから、そう呼ばれたようです。

両替天秤(ヤフオクのサイトから。なお、このオークションは終わっているそうです)


天秤櫓を正面から。

左右対称じゃない
しかし、この2つの櫓、よく見ると違っていました。右の櫓が木の陰になっているので見にくいですが、少なくとも櫓の向き、石垣の積み方が違っていました。

彦根市の教育委員会の解説シートによると、「右手の高石垣が、越前(現在の福井県北部)の石工たちが築いたと伝える築城当時の『牛蒡積み』。そして、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の『落し積み』です。」

井伊直政も登場

橋の上では井伊直政公が記念撮影のお手伝いをしていました。

彦根城(2)大手門橋から大手山道 滋賀県彦根市

2015年10月20日 17時20分22秒 | 滋賀県


大手門橋から大手門へ
さあ、いよいよ登城です。駐車場が大手門駐車場だったので、大手門から入ることにしました。大手門橋をわたると石垣に囲まれ、道は左に折れるようになっています。おそらく石垣の上に建物があり、その中から、矢や鉄砲を敵に向かって撃ったのでしょう。これも城を守るための工夫だったのだと思います。


大手門橋


大手門。左側に矢倉台のような石垣があります。おそらく城を守るための建物が建っていたのではないでしょうか。

大手門の裏側

石垣の裏に回ってみました。階段状に石垣が積んでありました。敵に反撃をするときに、すぐに登れるためなのかと思いました。

まわりは全部石垣じゃない

大手門の矢倉台の石垣をたどっていきますと、途中から土を盛り上げて堤防のようにした土塁になっていました。内堀は全部石垣で囲まれているのかと思いましたが、西側は土でできていました。

大手山道

大手山道。大手門をしばらく行きますと、右に折れる坂道があります。大手山道です。石垣との境目に排水路がありました。(当時のものかどうか分かりません)

大手山道はなぜ直線か
さて、この大手山道は直線です。なぜ、直線なのでしょうか。直線は、攻められやすいと思うのですが。

権威を示すための城だから?
まず、考えられることは、彦根市教育委員会が作成した彦根城の天守閣についての資料に次のような文があることです。

「戦争とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦争を経験することなく、平和な江戸時代を迎えました。江戸時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑(かっちゅう)などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根城の象徴という役割を担っていたようです。」

つまり、江戸時代には軍用としてではなく、権威を示すものとしてお城が機能していたというのです。だから、大手山道が直線であることは、あまり問題ではないと考えることができます。

家臣たちの守りを弱めるため?
二つ目は、小牧山城の話です。愛知県小牧市にある小牧山城の大手道も下半分は直線になっています。上半分、つまり天守につながる道は、曲がりくねっています。下半分の大手道のまわりには家臣たちの屋敷がありました。「信長の城」で千田嘉博氏は、以下のように説明しています。

「個々の家臣の屋敷に独立した防御機能を発揮させないという、信長の強い意思の表れでした。」

つまり、信長にとって家臣たちが守りの堅い家に住んでいるのはよろしくない、信長に反逆したときに、その家臣を攻めることができない、堅い守りが必要なのは信長とその一族だけで十分だ、家臣たちの家の中を通る大手道はまっすぐでよいということです。ただ、この話は大手道の周りに家臣たちの屋敷がないと話が成立しません。彦根市教育委員会が公開する文化年間の古地図を見ても、それらしい形跡が見られないので、関係ない話かもしれません。

彦根城(1)プロフィール 滋賀県彦根市

2015年10月19日 12時29分32秒 | 滋賀県
連休の11日は、彦根城に行きました。

彦根城天守閣

はじめに、せっかく滋賀県に来たということで、近江牛を味わうことにしました。

近江牛の「千成亭」というお店を車のナビで探し、行くことにしました。食べたのは、ランチメニューでしたが、なかなかおいしいお店でした。

所在地 
彦根市金亀町1-1

彦根は中山道(地図の赤い線)、北国街道(地図の青い線)の交差するところにあり、交通の要衝です。以前石田三成の佐和山城に行ったことがありますが、同じ理由で豊臣秀吉は重臣の三成をここに配しました。江戸期にはやはり幕府の重臣である井伊家が代々彦根城に居住しました。

関係する武将
井伊直政(いいなおまさ)
徳川家康の家臣で、徳川四天王(本多忠勝、榊原康政、酒井忠次)の一人です。
もともと井伊家は、浜名湖の北に本拠があったようです。菩提寺は、龍潭寺です。直政の父は今川氏に仕えていました。しかし、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、今川氏は衰え、紆余曲折があって井伊直政は、徳川家康に見出されることになりました。

なお、このとき直政の父である直親の正室で、幼い直政を養育し、井伊家を救った女性頭首井伊直虎(いいなおとら)が2017年度のNHK大河ドラマとなるようです。

直政は、徳川家康の下で力を発揮し、上記徳川四天王と評されるまでになりました。関が原の戦いの後に近江国に入りました。石田三成の佐和山城に入城しました。菩提寺である龍潭寺もこちらに移転しました。佐和山城の近くに龍潭寺があるのは、そのためです。

滋賀県の龍潭寺についてはこちらをご覧ください。
佐和山城見学会(龍潭寺)滋賀県

のちに琵琶湖に近いところに城を移す計画を立てましたが、慶長7年(1602年)関が原の戦いで被った傷等で、死去してしまいました。

彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」は、井伊直政に由来したキャラです。かぶっているのは、井伊直政の「赤備え」の兜です。「彦根お散歩まっぷ」表紙より

井伊直継(いいなおつぐ)後に直勝(なおかつ)
井伊直政の長男で、居城を佐和山城から彦根城に移しました。しかし、彦根城は弟の直孝が継ぎ、直継は関東の上野安中藩を領有しました。

井伊直弼(いいなおすけ)
有名な江戸幕府の大老です。アメリカの開国要求に対して、それを認め日米修好通商条約結んだ人です。このことで日本の幕末の動乱が増し、江戸幕府の倒壊へと動いていきました。

井伊直弼、彦根市のパンフレットより