愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

長久手古戦場(9) 長久手市

2014年05月15日 14時45分52秒 | 長久手市
長久手市大草城(2)

長久手の合戦で破れた池田・森の軍が、ここで家康軍と戦った
 この長久手大草城と長久手の戦いとどんな関係にあるか、「長久手市郷土史研究会」のHPで次のように書かれていました。

 天正12年の長久手の合戦で敗れ、敗走した池田・森の軍兵らが大草城に落ちのびた数は1000人近くもいたという。落ちのびて大草城に入った落ち武者らは、城主福岡新助と、戦場を脱出して来た池田の侍大将伊藤友信らの指揮の下で、徳川勢の攻撃に備えた。家康は、挑むように幟や幡をひるがえす大草城をまのあたりに見て激怒し、ただちに大草城攻撃を命じた。しかし城の守りはかたく攻めあぐむ時、楽田城の秀吉が3万の軍勢で既に楽田を発って進撃して来る、という情報が届き、家康は急遽大草城攻めを中止し、軍勢をまとめて逃げるように小幡城へ引き上げた。

堀切C
 さて、話を大草城「探検」に戻しましょう。
 「曲輪Ⅰ」から南の方に行くと「堀切C」がありました。

「堀切C」は、まるで崖のようでした。今までの他の山城の見学でも「堀切」を見てきましたが、この堀切は、かなり険しいと思いました。

土塁B
 さらに、「堀切C」の南には「土塁」がありました。

これは土塁Bです。画像の左側が盛り上がっているのが確認できると思います。

土塁の西は急な崖
 しかし驚いたのは、この土塁の後ろ側です。地図では西(左)側です。急な崖になっていて、これは土塁などつくらなくても、攻め上れないと思いました。

土塁の上から撮影したものです。はるか下の方に道路が見えます。

 次は、道を挟んで東(右)側です。

地図の「曲輪Ⅳ」を「曲輪Ⅲ」から撮影しました。中央の木の茂みが「曲輪Ⅳ」と思われます。

曲輪Ⅳ
 実際に「曲輪Ⅳ」の辺りに行くと、やはり木の茂みで覆われていました。

この「曲輪Ⅳ」の辺りがこの大草城の中で一番高いので、ここに物見櫓があったのかもしれないと思いました。

堀切D
 いよいよ「堀切D」です。「曲輪Ⅳ」から「堀切D」のほうへ上から見に行こうとしましたが、竹林でよく見えません。


 そこで、ぐるっと永見寺の方の南から東に向けて回り込むようにして見に行くことにしました。
 東の斜面は栄見寺の墓地になっていました。途中、六地蔵もありました。


 おそらく、この竹林が「堀切D」かなと思いました。


家康も攻めあぐむ大草城
 ということで、地図上の曲輪や土塁、堀切を見つけながら大草城の見学を終えました。
大草城は山全体が一つの城になっていて、観音寺城のように曲輪が幾重にもありました。(ただし、後世に畑などのために作られたかもしれません。私には判別ができません。)また、自然の地形を利用した堀切は険しく、容易には攻めきれない城だと思いました。家康が攻めあぐんだ理由も分かった気がしました。

長久手古戦場(8) 長久手市

2014年05月14日 19時22分39秒 | 長久手市
長久手市大草城(1)
 城歩きマンさんのコメントに、「長久手市色金歴史公園の北東に山城がある。大草城という。」とありましたので、出かけることにしました。

大草城縄張り図

 図は、大草城の縄張り図です。『愛知の山城ベスト50』に掲載されている図で、ギリシャ数字が書かれている平地Ⅰ~Ⅳが曲輪の跡です。アルファベットのA・Bは土塁、C・Dは堀切を示すようです。この図を見ながら、「探検」しました。

 図の南の方に「大草中集会所」がありましたので、そこから出発です。

熊野社
 まず、永見寺というお寺があり、そこを左に入っていきました。すると「熊野社」がありました。

 
 この「熊野社」を入っていくと、中に拝殿がありました。

 神社には、本殿の前にこのように拝殿がある神社とない神社があります。どういう違いなのか調べたいと思います。

大草城石碑
 この拝殿を更に左の方に入っていくと、大草城の石碑がありました。


 この石碑の右の支えのところになにやら小さいものが置いてあります。なんだろうかと、よくみてみると、観音様でした。どなたが置いてくれたのでしょう、なんともありがたい気持ちになりました。

 さて、この石碑の裏に大草城が紹介されていました。
 大草城は、「尾張志」に、「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす右城内東西廿間南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之内といふなり」とみえる
平成八年十一月吉日
長久手町教育委員会


 土人というのがすごいですね。三河一向一揆の「松平記」でも「土民」というのがありました。おそらく身分的に低く、名主や作人の更に下の耕作者のことかなと思います。

曲輪の跡
 この石碑をさらに左に行くと南北に道があり、左側に図の「曲輪Ⅲ」が見えました。

「曲輪Ⅲ」は、平坦な草地でした。さらに、左に行くと「曲輪Ⅰ」です。


「曲輪Ⅰ」は、竹林でした。

長久手古戦場(7) 長久手市

2014年05月05日 14時21分51秒 | 長久手市
色金山(いろがねやま)
 御旗山から北東へ少し行くと、色金山があります。色金山は、小牧長久手の戦いで徳川家康が陣を敷いたところです。

色金山を南から望む。右側のお寺は安昌寺といいます。

 小高い丘のような山ですが、歴史公園となっています。管理は長久手市教育委員会のようです。なかには、いろいろな石碑がありました。

八幡社旧蹟碑

 徳川家康が戦勝を祈念してお参りした神社だそうです。

長久手合戦慰霊碑
 しばらく進むと、長久手合戦慰霊碑がありました。碑文によれば、長久手の合戦で3000人が亡くなられたそうです。

長久手合戦碑文、つくった人は長久手郷土史研究会の方々でした。

展望台
 頂上に昔の物見櫓をイメージした展望台がありました。実際の合戦のときにも作られたのかもしれません。



展望台からの景色。遠く煙突のように見えるのは、名古屋東山公園の展望台、通称「ペンシルタワー」です。

家康が腰掛けたという床机石

馬鹿らしいのですが、公園や観光地にはよくあるものです。先ほどの展望台の下に、この床机石に家康が腰掛けて軍に指示をしているところを想像して描いたレリーフまでありました。

首塚
 この色金山歴史公園を降りて道をまたいで向こう側に行くと、「首塚」があります。

 この首塚は、案内板によれば、色金山のふもとにあった安昌寺のお坊さんが作ったようです。

 天正12年(1584年)4月9日、長久手合戦の舞台となった長久手の村々は、野といわず山といわず戦死者の山となりました。この惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は、村人たちとともに屍を集めて埋葬し塚を築いて供養しました。毎年、合戦の日には首塚に香華が手向けられ、村人らによって法要が営まれますがこの法要には遠く名古屋から、尾張藩士らの参詣もありました。
  長久手市教育委員会

長久手古戦場(6) 長久手市

2014年05月05日 12時02分41秒 | 長久手市
御旗山(みはたやま)
 話を少し前に戻します。長久手古戦場の続きです。先回、血の池公園までお話しましたが、その次の話です。

前に掲載した長久手古戦場の史跡めぐりコースです。これによれば、血の池公園の次は、御旗(みはた)山です。

御旗山を南から撮影

家康が着陣
 御旗山は、色金山に着陣した徳川家康が、長久手檜が根で自陣が敗走したのを受けて、救援のために陣を取った場所だそうです。ウィキペディアでは、9000人の兵で陣取ったとあります。秀吉も長久手方面で約9000人の陣を取り、戦いとなりました。この戦いが「長久手の戦い」と呼ばれる戦いだそうです。この戦いで、森長可、池田恒興、池田元助らが戦死しました。

山頂に建てられた浅間神社

御旗山からの眺め

聚楽園(しゅうらくえん)大仏 東海市

2014年05月01日 16時37分27秒 | 東海市
 知多へ遊びに行きました。行き当たりばったりの行楽です。始めに常滑の「タイル館」に行きましたが、時間的にゆとりがないということで、急遽「聚楽園」と言うところに行きました。「知多に大仏があった気がする」というおぼろげな記憶をもとに、スマホとナビを駆使して行きました。

東海市の位置

聚楽園大仏は金持ちの道楽?
 聚楽園には、大仏がありました。しかしお寺もなく、ただこの大仏と仁王様が立っているだけでした。案内板によれば、名古屋の実業家山田才吉という人が、昭和天皇の結婚を記念してつくったものだそうです。高さは、18.79メートルあるそうです。鉄筋コンクリート製だそうです。

東海市の文化財?
 なんと東海市の文化財になっていました。「昭和58年に、万葉の昔の『あゆち潟』に続く『知多の浦』『可家の湊』など東海市古代の海岸線を想起できる地として、境内地を含め東海市の文化財に指定された。」そうです。なんか、言い訳がましく見えるのは私だけでしょうか。