愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

折戸城 日進市

2021年02月04日 09時49分27秒 | 日進市
日進市が続いています。「日本城郭体系9」に掲載されている城を順に巡っているからです。


日進市の位置

日進市は、愛知県の西側で尾張に属しますが、すぐ隣は、みよし市で西三河になります。日進市には、岩崎城があります。岩崎城は、小牧・長久手の戦いで、丹羽氏が池田恒興や森可成と戦ったところとして有名です。岩崎城、折戸城は関係があったようです。

丹羽氏の変遷
以下、「尾張志」の記述をまとめますと、

【吹上城】丹羽郡にいた丹羽和泉守氏従(うじより)が文明3年(1471)に現在の八幡神社辺りにお城を気付いたのが始まりだそうです。吹上城と言っていたそうです。氏従、その子新助氏員(うじかず)と2代続きました。

【折戸城】氏員の時、この八幡社より200mほど西に城が築かれました。これが折戸城です。ただし、吹上城と同じような場所にあり、移動した年月もよく分からないので、城の拡張ではないかと言う人もいます。

【本郷城】文亀3年(1503)丹羽氏員によって折戸城から、移動しました。ここでは、氏員、その子平左衛門氏興(うじおき)、その子若狭守氏清まで3代、36年続きました。

【岩崎城】氏清が、天文7年(1538)、本郷城からこちらに移りました。ここでは、氏清、その子右近太夫氏識(うじさと)、その子右近太夫氏勝(うじかつ)、その子勘助氏次(うじつぐ)まで4代、天文7年から天正12年(1584)まで47年続いたそうです。

これらのことを地図にあらわしますと、以下のようになります。

丹羽氏の変遷 ネット「今昔マップon the web」から「1888年~1898年」の地図に加筆

これは推測ですが、丹羽氏は初め折戸川流域を支配していましたが、勢力を増していき、天白川流域をも支配下に置くようになった、そのために城も天白川沿いに建てられるようになった。本郷城は、低地にありましたので、水害の被害があって、丘の上の岩崎城に引っ越したのかも知れません。(ネット「愛知のお城めぐり」を参考にしました)

吹上城、折戸城
「尾張志」愛智郡に折戸城の記事がありました。それによれば、
「氏神八幡社より一町ばかり西にて民居の北に属る。山城にて西南の方は眼下に見下ろして景色よく、誠に吹上ともいひつべき地形なり。北は山、南は谷にて東西二方に堀ありし形勢(さま)のこれり。東西堀を除いて二十五間、南北十八間ばかりあり。」


氏神八幡社は、あたりの地形では、一番高いところにあり、おそらく吹上城の本丸があったところだと思います。

八幡社(北東から撮影)


吹上城、折戸城関連航空写真(「yahoo地図に加筆」

「尾張志」では、東西に堀跡が残っている旨書かれていますが、確認できませんでした。ただ、東側を県道57号線が走っていますが、八幡社とずいぶん高低差がありましたので、この道の一部が堀だった可能性があります。西側の堀については、何本か道があって、どれなのか分かりませんでした。また、八幡社の西隣の「老人センター」の南側に堀っぽいものがありましたが、これもよく分かりませんでした。

折戸城があったであろう所から、家の合間を縫って、南西方向を見ると、確かに眺望があり、折戸川一帯がよく見えました。いいところに城を造ったと思いました。

梅森城 日進市

2021年01月11日 18時06分36秒 | 日進市
みなさん、あけましておめでとうございます。
昨年は、コロナによって、お城めぐりのやる気を損なわれましたが、今年は「with コロナ」で、感染防止に気を付けて頑張りたいと思います。

2021年、最初の城は石碑だけが立つ梅森城です。梅森城は、北と東と二つあったそうです。
梅森北城
北城は、眺景寺の辺りにあったそうです。なんと岡崎上宮寺佐々木の松平三蔵によって築城されたそうです。

梅森北城があったとされる眺景寺

石碑の裏にそのことが記載されていました。

眺景寺の石碑

石碑の裏の碑文

由緒
此ノ城址ハ天文癸巳2年(西暦1533年)三河国碧海郡佐々木ノ城主松平三蔵ハ此ノ地ニ城ヲ築キ居城トシタコノ城ハ梅森北城ト称サレ東西24間南北32間ト古記録に記サレテヰル(梅森ニ伝ワル邑事細見禄及ビ尾張志等ニヨル)松平三蔵ハ深ク眞宗を信仰シ天文戊戌7年(西暦1538年)3月三蔵ハ菩提寺ナリシ天台宗ニ属スル桃延坊ヲ此ノ地ニ移シ宗ヲ眞宗ニ改メ號を眺景寺トシ次子高照ヲ剃髪セシメ名ヲ道西ト改メ本寺ノ住職トシタ(眺景寺誌ニヨル)
昭和57年2月吉日


どうして岡崎から、この梅森にやってきたのか、不思議です。この松平は、織田方についていたそうですが、三河から尾張にまできています。松平広忠暗殺や三河一向一揆に関係しているようですが、詳しくは分からないので、後日調べて掲載します。
いずれにしても、この頃は三河、尾張の区別があまりなく、けっこう行き来があったようです。

東城
梅森城のもう一つの城は東城です。この東城の場所については、諸説あって、国立東名古屋病院と宝珠寺の2説があるそうです。ネットで、宝珠寺の方が北城の東にあたることと川に囲まれていることから、こっちではないかという意見がありましたが、確かにそのように思えました。

東城の跡と思われる宝珠寺

戦国時代の愛知県は、尾張、三河の区別があまりなく、駿河が本拠の今川氏が尾張の沓掛城や大高城、鳴海城を奪取したり、尾張の織田信秀が安城城を攻め落としたりと、結構入り組んでいたことが分かりました。

岩崎城 日進市

2013年10月30日 07時42分17秒 | 日進市

10月27日、天気がよかったので、岩崎城を訪れました。

岩崎城は丹羽氏のお城
案内掲示板より


岩崎城は、室町時代末の平山城である。織田信秀により享禄年間(1528~1531)に築城され、その後、徳川方に奪われた後、天文七年(1538)丹羽氏清が本郷城から移ったと言われ、以後、氏識(うじさと)、氏勝、氏次の4代にわたって、慶長5年(1600)関が原の戦いの戦功により三河伊保に一万石の小名として転封されるまでの62年間居城しました。
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、織田信雄・徳川家康連合軍の後方攪乱をねらった豊臣秀吉方の先鋒池田恒興隊を阻止して、城代丹羽氏重(傍示本(ほうじもと)城主)以下300余名が討ち死にしたことが織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられています。
 城郭は、本丸、二の丸、東・西曲輪およびそれらを取り囲む堀や土塁等がよく遺存しており、昭和59~61年度までの発掘調査の結果貴重な資料が多数出土しました。



岩崎城案内図

案内図によれば、土塁、土橋、堀などが残っているとのことです。

まず、土塁発見
城に入るとすぐ右横に土塁が築かれていました。けっこう高かったです。


水琴窟(すいきんくつ)

 二の丸の跡に「水琴窟」なるものがあり、水を手前の石のところにたらし、写真中央においてある竹筒でそのたらしたところの音を拾うと琴の音のような音が聞こえるそうです。実際やってみました。すると確かにきれいな音が聞こえました。水の雫が地面の下に埋めてある大きなかめの中に落ちて、きれいな音を出しているそうです。

堀の跡

見事な空掘りがありました。

なんと古墳が

 岩崎城には、なんと古墳もありました。円墳だそうです。岩崎城の発掘調査のときに偶然見つかったそうです。発掘されたときには形も分からなくなっていたので、近くの古墳を参考に復元したそうです。6世紀前葉に造られた豪族の墓のようです。

小牧・長久手の戦いで丹羽氏は家康方に

 本丸のところにお城が復元されていて、中に入れるようになっていました。中には岩崎城にとって大きな出来事であった小牧・長久手の戦いについてのディスプレイがありました。小牧・長久手の戦いは、本能寺の変の後、豊臣秀吉と徳川家康が覇権を争った戦いです。結果は、最終的には引き分けだったようです。

岩崎城の戦いで氏重は討ち死に
 そのディスプレイによると、小牧・長久手の戦いは、はじめこう着状態だったようです。この状態を打開するため、秀吉軍は、小牧から一挙に家康の本拠地である岡崎城を攻めようとしたようです。「中入(なかいり)作戦」と呼ばれるそうです。天正12年(1584)4月9日、秀吉側の「中入作戦」先鋒池田恒興は、岩崎城を守る丹羽氏重(岩崎城主、丹羽氏次の弟。氏次は小牧山に参戦していたようです)、加藤景常(氏次の姉婿)らと戦い、これを討ち死にさせました。

長久手の戦いで秀吉勢敗北
 しかし、秀吉軍の動きを知った徳川軍は、これより先丹羽氏次先導役として、秀吉側の「中入作戦」隊を追撃していました。長久手あたりで、秀吉勢に追いつき、家康軍、秀吉側の「中入作戦」軍との戦いになりました。この戦いに、先に岩崎城を落とした池田恒興も加わりました。
 戦いの結果、秀吉側の武将、池田恒興、子の元助、森長可(ながよし、森蘭丸の兄)らが討ち死にして家康側の勝利に終わったようです。

立体模型
 本丸の横の岩崎城歴史記念館に立体模型がありました。