日進市が続いています。「日本城郭体系9」に掲載されている城を順に巡っているからです。
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日進市の位置
日進市は、愛知県の西側で尾張に属しますが、すぐ隣は、みよし市で西三河になります。日進市には、岩崎城があります。岩崎城は、小牧・長久手の戦いで、丹羽氏が池田恒興や森可成と戦ったところとして有名です。岩崎城、折戸城は関係があったようです。
丹羽氏の変遷
以下、「尾張志」の記述をまとめますと、
【吹上城】丹羽郡にいた丹羽和泉守氏従(うじより)が文明3年(1471)に現在の八幡神社辺りにお城を気付いたのが始まりだそうです。吹上城と言っていたそうです。氏従、その子新助氏員(うじかず)と2代続きました。
【折戸城】氏員の時、この八幡社より200mほど西に城が築かれました。これが折戸城です。ただし、吹上城と同じような場所にあり、移動した年月もよく分からないので、城の拡張ではないかと言う人もいます。
【本郷城】文亀3年(1503)丹羽氏員によって折戸城から、移動しました。ここでは、氏員、その子平左衛門氏興(うじおき)、その子若狭守氏清まで3代、36年続きました。
【岩崎城】氏清が、天文7年(1538)、本郷城からこちらに移りました。ここでは、氏清、その子右近太夫氏識(うじさと)、その子右近太夫氏勝(うじかつ)、その子勘助氏次(うじつぐ)まで4代、天文7年から天正12年(1584)まで47年続いたそうです。
これらのことを地図にあらわしますと、以下のようになります。
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丹羽氏の変遷 ネット「今昔マップon the web」から「1888年~1898年」の地図に加筆
これは推測ですが、丹羽氏は初め折戸川流域を支配していましたが、勢力を増していき、天白川流域をも支配下に置くようになった、そのために城も天白川沿いに建てられるようになった。本郷城は、低地にありましたので、水害の被害があって、丘の上の岩崎城に引っ越したのかも知れません。(ネット「愛知のお城めぐり」を参考にしました)
吹上城、折戸城
「尾張志」愛智郡に折戸城の記事がありました。それによれば、
「氏神八幡社より一町ばかり西にて民居の北に属る。山城にて西南の方は眼下に見下ろして景色よく、誠に吹上ともいひつべき地形なり。北は山、南は谷にて東西二方に堀ありし形勢(さま)のこれり。東西堀を除いて二十五間、南北十八間ばかりあり。」
氏神八幡社は、あたりの地形では、一番高いところにあり、おそらく吹上城の本丸があったところだと思います。
八幡社(北東から撮影)
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吹上城、折戸城関連航空写真(「yahoo地図に加筆」
「尾張志」では、東西に堀跡が残っている旨書かれていますが、確認できませんでした。ただ、東側を県道57号線が走っていますが、八幡社とずいぶん高低差がありましたので、この道の一部が堀だった可能性があります。西側の堀については、何本か道があって、どれなのか分かりませんでした。また、八幡社の西隣の「老人センター」の南側に堀っぽいものがありましたが、これもよく分かりませんでした。
折戸城があったであろう所から、家の合間を縫って、南西方向を見ると、確かに眺望があり、折戸川一帯がよく見えました。いいところに城を造ったと思いました。
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日進市の位置
日進市は、愛知県の西側で尾張に属しますが、すぐ隣は、みよし市で西三河になります。日進市には、岩崎城があります。岩崎城は、小牧・長久手の戦いで、丹羽氏が池田恒興や森可成と戦ったところとして有名です。岩崎城、折戸城は関係があったようです。
丹羽氏の変遷
以下、「尾張志」の記述をまとめますと、
【吹上城】丹羽郡にいた丹羽和泉守氏従(うじより)が文明3年(1471)に現在の八幡神社辺りにお城を気付いたのが始まりだそうです。吹上城と言っていたそうです。氏従、その子新助氏員(うじかず)と2代続きました。
【折戸城】氏員の時、この八幡社より200mほど西に城が築かれました。これが折戸城です。ただし、吹上城と同じような場所にあり、移動した年月もよく分からないので、城の拡張ではないかと言う人もいます。
【本郷城】文亀3年(1503)丹羽氏員によって折戸城から、移動しました。ここでは、氏員、その子平左衛門氏興(うじおき)、その子若狭守氏清まで3代、36年続きました。
【岩崎城】氏清が、天文7年(1538)、本郷城からこちらに移りました。ここでは、氏清、その子右近太夫氏識(うじさと)、その子右近太夫氏勝(うじかつ)、その子勘助氏次(うじつぐ)まで4代、天文7年から天正12年(1584)まで47年続いたそうです。
これらのことを地図にあらわしますと、以下のようになります。
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丹羽氏の変遷 ネット「今昔マップon the web」から「1888年~1898年」の地図に加筆
これは推測ですが、丹羽氏は初め折戸川流域を支配していましたが、勢力を増していき、天白川流域をも支配下に置くようになった、そのために城も天白川沿いに建てられるようになった。本郷城は、低地にありましたので、水害の被害があって、丘の上の岩崎城に引っ越したのかも知れません。(ネット「愛知のお城めぐり」を参考にしました)
吹上城、折戸城
「尾張志」愛智郡に折戸城の記事がありました。それによれば、
「氏神八幡社より一町ばかり西にて民居の北に属る。山城にて西南の方は眼下に見下ろして景色よく、誠に吹上ともいひつべき地形なり。北は山、南は谷にて東西二方に堀ありし形勢(さま)のこれり。東西堀を除いて二十五間、南北十八間ばかりあり。」
氏神八幡社は、あたりの地形では、一番高いところにあり、おそらく吹上城の本丸があったところだと思います。
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八幡社(北東から撮影)
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吹上城、折戸城関連航空写真(「yahoo地図に加筆」
「尾張志」では、東西に堀跡が残っている旨書かれていますが、確認できませんでした。ただ、東側を県道57号線が走っていますが、八幡社とずいぶん高低差がありましたので、この道の一部が堀だった可能性があります。西側の堀については、何本か道があって、どれなのか分かりませんでした。また、八幡社の西隣の「老人センター」の南側に堀っぽいものがありましたが、これもよく分かりませんでした。
折戸城があったであろう所から、家の合間を縫って、南西方向を見ると、確かに眺望があり、折戸川一帯がよく見えました。いいところに城を造ったと思いました。