愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

田辺城(2) 三重県いなべ市

2021年12月10日 06時34分23秒 | 三重県
再び本丸近くまで戻り、今度は本丸の西にある曲輪です。なんとなく両側が盛り上がっていて、虎口と言えば虎口だなあという感じです。

西曲輪の虎口(内側から写しました)

右側(北)は、土塁のようなものが残り、しばらく歩くと右側に櫓台のような盛り上がりがありました。


西の曲輪の櫓台

櫓台を過ぎてさらに西に進むと、急に眺望が開けてきました。どの辺りを見ているのか、初めてのところなので、分かりませんが、下の様子がよくわかる場所でした。

西の曲輪の突端

さて、案内書では、この田辺城は本丸と西の曲輪の外に北の方にいくつかの遺構が残っているとのことでした。
北の方に小さな屋敷跡があるはずでしたが、いくら探しても見つかりません。おそらく藪の中ではないかと思います。


屋敷跡があるだろう藪

道の右側は曲輪や水の手があることになっていますが、ごらんの「工事現場」でしたので、確認することもせずに、帰ってしまいました。先の方で確認できたのかも知れません。

曲輪跡や水の手があるだろうと思われる「工事現場」

さて、こうやってせっかく来たのに、遺構が見れないというのは、大変残念なことです。実は田辺城、高速道路がかすめていくということで(特に北の部分はしっかり高速道路が通過するようです。)慌てて発掘調査をしたようです。「高速道路なんか作らなくていいのに。だいたい、自分も新四日市から大安まで高速を飛ばしてきましたが、車の影はほとんどありませんでしたよ。平日だったからかも知れませんが。需要はないでしょ、ただ土建屋さんが儲かるだけでしょ。」と言いたいのですが、かく言う私自身が高速道路の恩恵をしっかり受けている(かなり短い時間で現地まで行けた)ということも紛れもない事実です。「いや、造るから利用しちゃうんだよ。造らなきゃ、下道で行ったよ。」いやいや、これは屁理屈で、本当に反対なら、一切利用しないで全部下道で行くべきですよね。
難しい問題です。

田辺城 おしまい

田辺城(1) 三重県いなべ市

2021年12月09日 17時25分44秒 | 三重県
ガソリンが高いです。160円なんて許せないです。コロナの次はガソリンの高値です。城めぐりをどれだけ妨害したら気が済むのかと言いたい気持ちです。しかし、なんとか家族を説得し、自身節約も宣言し、ようやく三重県いなべ市に行きました。田辺城です。

田辺城は案内板によると、以下のようです。

田辺城案内板

この城跡は、木造城、戸木城(今の久居市)の城主であった木造左衛門佐長政が天正14年(西暦1586年)7月21日北畠(織田)信雄から1万2百70貫300余(約1万石)の領地を与えられて、この地に移り約4年間居城した。
本丸は、二重の壕と土塁で囲まれ、いくつかの館跡が残され、中世城館の遺構としては、北勢地方で有数の大規模なものである。
外曲輪は、猪土居と天然の谷に囲まれ、当時の城としては、地形的に恵まれた場所であったようである。
城主の木造氏は、その後天正18年織田中納言秀信の家臣となり、岐阜に移って1万5千石を領したと伝えられている。
昭和55年 5月 北勢町


織田中納言秀信というのは、調べたら「清須会議」で羽柴秀吉が、織田の後継者はこの方であると持ち上げた三法師(織田信忠の嫡男)でした。それにしても昭和55年(1980年)は古いです。北勢町も2003年からは、他の市といっしょに「いなべ市」になっています。是非とも新しい看板が立ってほしいと思いました。

城跡の入口は門になっていました。面白いですが、田辺城と何か関係があるのか知らせてくれるとありがたかったです。ついでに狸も。中に入るといきなり堀が左右に見え、しかも食い違い状になっていました。奥へ進むと草ぼうぼうで、左へ進みやすかったので、左に進みました。本丸を囲む二重土塁の外側の土塁が見えました。なんと石垣がありました。

本丸北西、外側土塁(石垣が?)

この石垣はこの部分にしかありませんでした。他の土塁は土でできていました。

本丸の西側を歩くと、北西の土橋がありました。やや細かったです。

本丸北西土橋

土橋は細いですが、両脇の掘は深かったです。本丸の中に入り、北端を見ると見事な櫓台がありました。

本丸北端の櫓台

櫓台から土塁沿いに右回りでまわっていくと、東南の虎口が見えました。

東南虎口から北に続く堀と土塁

ここで竪堀があることを思い出して戻りました。

本丸北端から東に延びる竪堀

「三重の山城ベスト50」の図を見ると、この竪堀は道を隔てて、さらに下まで延びていました。そこで、道を横切り探索することにしました。すると、ありました、竪堀の続きが。

道の下に続く竪堀(画像の左下から中央上へ)

もう一本延びていて、それも確認することができました。

田辺城 つづく

長島城跡 三重県桑名市

2014年03月22日 16時17分10秒 | 三重県
長島とは
 3連休、天候にも恵まれ、念願の長島に行ってきました。


 長島は、三重県桑名市にあります。というより、「長島スパーランド」といったほうが分かりやすいかもしれません。この地で、450年ほど前一向一揆があり、多くの人が亡くなられているのです。いわゆる「長島一向一揆」です。

長島城は、今中学校に
 長島一向一揆は、最終的には長島城に農民たちがこもり、織田信長によって攻められ、2万人もの人々が焼け死んだそうです。長島城は、今は長島中学校の敷地になっています。その中学校の門は、城を意識したしゃれた門になっていました。

長島中学校の門

 中学校のすぐ南には、長島中部小学校がありました。その間ぐらいに長島城の案内掲示板がありました。

 
 長島城は、一向一揆のときに落城しますが、江戸時代には増山という藩主が居住していたようです。城の縄張り図は、江戸時代の城でしょうか。まわりには、侍屋敷や町屋敷が並んでいます。また、田んぼも整然としています。


 この城の大手門が蓮生寺という寺の山門として残っているというので、行って見ました。案内板によると、縮小されて再建されているそうです。明治9年に移築したそうです。

蓮正寺山門(長島城大手門)

一向宗の拠点 願證寺
 長島城が戦いの拠点なら、この願證寺は一向宗の拠点でした。ただし、もともとの願證寺は、杉江というところにあり、今は長良川の川底になっているそうです。現在の願證寺は、もともとの願證寺の流れを受け継いでいますが、はじめ誓来寺といい、あとで願證寺と名乗ったそうです。また、願證寺は他にも名古屋にもその流れがあり、現在の本願寺名古屋別院となっているそうです。

 江戸時代に、この「願證寺」が建てられたのですが、行ってみると寺がとても低いところにありました。長島の当たりは、土地が低く台風や大雨で何度も洪水にあっている地域です。他の民家は、石垣で高くして家が造られているのですが、この願證寺は、田んぼの中にあり、低いところに建てられています。今まで洪水の被害にあわなかったのでしょうか。なぜこのような低いところに建てたのか、ふしぎです。

 願證寺には、「長島一向一揆殉教の碑」がありました。碑の裏に碑文があり、頼山陽の「日本外史」にも惨状が詳しく記されているとありました。