松平記p36
翻刻
上り候へハ、合戦をもちたる敵にてハなしと申、元康尤と
納得被成、早々押立無相違兵粮を入給ふ、元康若大将にて
無雙の手がら也と諸軍感じ奉る。
一 同五月十九日、早天に鷲津の城にハ信長之従弟飯尾近江
守、織田隠岐守籠りしを先手を以攻落し、丸根の城に佐久
間大学と云者籠りしを元康衆先手にて攻落、然とも松平
善四郎、高力新九郎、筧又蔵已下岡崎随一の兵あまた討死
しける、城も終に不叶佐久間玄蕃あつかいに致し、城を渡
してのく、凡義元の旗先には飛鳥も地に落る威勢なり。
一 永禄三年五月十九日、昼時分大雨しきりに降、今朝の御合
(戦、御勝にて目出度と、鳴海桶はさまにて昼弁当参候処へ)
現代語
上っているのは、合戦をする気がある敵ではないと言った。元康(徳川家康)は尤もだと納得し、はやばやと兵粮を大高城に入れられた。元康は若いのに無双の手柄を立てたと今川軍の諸将は感心した。
一 永禄3年5月19日、鷲津の城には織田信長の従弟である飯尾近江守、織田隠岐守が立て籠もっていたが、今川軍の先陣がこれを攻め落とし、丸根の城には佐久間大学という武将が籠っていたが、元康が先陣として、これを攻め落とした。しかし、松平善四郎、高力新九郎、筧又蔵以下多くの岡崎随一の武士たちが多く討死をした。城を持ちこたえることもできなくなり、佐久間玄蕃は和議を申し入れ、城を明け渡して退いた。およそ義元の旗先には飛ぶ鳥も落ちる勢いであった。
一 永禄3年5月19日、昼頃に大雨がしきりに降った。今朝の戦いで勝ったのはめでたいことだと、鳴海桶狭間にて昼弁当が届けられた所へ
コメント
桶狭間の戦い、鷲津砦、丸根砦の戦いです。大高城には、先に鵜殿長助(長照)が入れられたとの記事がありました(前回35回)が、この時鷲津砦を攻めたのは朝比奈泰朝のようです。丸根砦は松平元康によって攻め落とされました。松平善四郎は大草松平家6代目当主(大草松平と岡崎松平は親せきのような関係だったので、岡崎衆としてカウントしたのかも知れません)
問題の一つは、織田隠岐守です。「信長公記」では鷲津砦に織田玄蕃、飯尾近江守父子が入れられたことになっています。「織田隠岐守」とは誰でしょうか。飯尾近江守の息子飯尾隠岐守尚清(ひさきよ)も鷲津砦に居たようですが、飯尾近江守の旧姓は織田ですから飯尾隠岐守尚清も織田隠岐守と付けられたのでしょうか。とすれば、織田隠岐守は飯尾近江守の息子飯尾尚清ということになります。この尚清は、桶狭間の戦いで敗走し、天正19年(1591)まで生きたそうです。(ウィキペディア)
つぎに、丸根砦(鷲津砦?)から城を開けて逃げた佐久間玄蕃とは誰でしょう。「鬼玄蕃」で知られる佐久間玄蕃盛政は、天文23年(1554)生まれとされています。桶狭間の戦いの時は6歳です。永禄11年の観音寺城攻めが初陣とウィキペディアでは書かれています。したがって、「鬼玄蕃」としての佐久間盛政のことではないようです。佐久間大学は丸根砦で討死をしていますので、佐久間大学の書き間違いでもなさそうです。玄蕃と言えば、鷲津砦を守った織田玄蕃がいますが、ウィキペディアでは桶狭間の戦いの後、消息不明となっています。もしかしたら、織田玄蕃の間違いかも知れません。