愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(36) 松平記

2022年10月31日 11時30分12秒 | 松平記

松平記p36

翻刻
上り候へハ、合戦をもちたる敵にてハなしと申、元康尤と
納得被成、早々押立無相違兵粮を入給ふ、元康若大将にて
無雙の手がら也と諸軍感じ奉る。
一 同五月十九日、早天に鷲津の城にハ信長之従弟飯尾近江
守、織田隠岐守籠りしを先手を以攻落し、丸根の城に佐久
間大学と云者籠りしを元康衆先手にて攻落、然とも松平
善四郎、高力新九郎、筧又蔵已下岡崎随一の兵あまた討死
しける、城も終に不叶佐久間玄蕃あつかいに致し、城を渡
してのく、凡義元の旗先には飛鳥も地に落る威勢なり。
一 永禄三年五月十九日、昼時分大雨しきりに降、今朝の御合
(戦、御勝にて目出度と、鳴海桶はさまにて昼弁当参候処へ)

現代語
上っているのは、合戦をする気がある敵ではないと言った。元康(徳川家康)は尤もだと納得し、はやばやと兵粮を大高城に入れられた。元康は若いのに無双の手柄を立てたと今川軍の諸将は感心した。
一 永禄3年5月19日、鷲津の城には織田信長の従弟である飯尾近江守、織田隠岐守が立て籠もっていたが、今川軍の先陣がこれを攻め落とし、丸根の城には佐久間大学という武将が籠っていたが、元康が先陣として、これを攻め落とした。しかし、松平善四郎、高力新九郎、筧又蔵以下多くの岡崎随一の武士たちが多く討死をした。城を持ちこたえることもできなくなり、佐久間玄蕃は和議を申し入れ、城を明け渡して退いた。およそ義元の旗先には飛ぶ鳥も落ちる勢いであった。
一 永禄3年5月19日、昼頃に大雨がしきりに降った。今朝の戦いで勝ったのはめでたいことだと、鳴海桶狭間にて昼弁当が届けられた所へ

コメント
桶狭間の戦い、鷲津砦、丸根砦の戦いです。大高城には、先に鵜殿長助(長照)が入れられたとの記事がありました(前回35回)が、この時鷲津砦を攻めたのは朝比奈泰朝のようです。丸根砦は松平元康によって攻め落とされました。松平善四郎は大草松平家6代目当主(大草松平と岡崎松平は親せきのような関係だったので、岡崎衆としてカウントしたのかも知れません)
問題の一つは、織田隠岐守です。「信長公記」では鷲津砦に織田玄蕃、飯尾近江守父子が入れられたことになっています。「織田隠岐守」とは誰でしょうか。飯尾近江守の息子飯尾隠岐守尚清(ひさきよ)も鷲津砦に居たようですが、飯尾近江守の旧姓は織田ですから飯尾隠岐守尚清も織田隠岐守と付けられたのでしょうか。とすれば、織田隠岐守は飯尾近江守の息子飯尾尚清ということになります。この尚清は、桶狭間の戦いで敗走し、天正19年(1591)まで生きたそうです。(ウィキペディア)
つぎに、丸根砦(鷲津砦?)から城を開けて逃げた佐久間玄蕃とは誰でしょう。「鬼玄蕃」で知られる佐久間玄蕃盛政は、天文23年(1554)生まれとされています。桶狭間の戦いの時は6歳です。永禄11年の観音寺城攻めが初陣とウィキペディアでは書かれています。したがって、「鬼玄蕃」としての佐久間盛政のことではないようです。佐久間大学は丸根砦で討死をしていますので、佐久間大学の書き間違いでもなさそうです。玄蕃と言えば、鷲津砦を守った織田玄蕃がいますが、ウィキペディアでは桶狭間の戦いの後、消息不明となっています。もしかしたら、織田玄蕃の間違いかも知れません。

松平記(35) 松平記

2022年10月28日 16時16分47秒 | 松平記

松平記p35

翻刻
ハ手にたつものなし。急き尾州へ馬を出し、織田信長を誅
伐し、都へ切て上らんとて、永禄三年五月、愛智郡へ発向す。
先たつて沓掛城を攻落し、義元則着陣し、大高城をも攻落
し、鵜殿長助を籠給ふ。然とも此城に兵粮なくして難儀成
し程に、其夜松平元康に申付、兵粮を入らるる。敵陣の間を
通りて兵粮入る事大事也とて、元康、鳥居四郎左衛門、石川
十郎左衛門を物見にこし給ふ。両人申は中々成間鋪候、敵
近所に備たり、押とられハ事無念也と申。松浦八郎五郎見
て来り、いやいや苦しからす、早々入給へ。子細ハ敵味方のは
たを見て、山の上なる敵、山よりおろすへき事成に、次第に
(上り候へハ、合戦をもちたる敵にてハなしと申)

現代語
(そうなので東の方に)は、手向かうものはない。急いで尾張に兵を出し、織田信長を誅伐し、都に攻め上ろうと永禄3年5月、愛智郡に向けて兵を動かした。それに先立ち沓掛城を落し、義元が着陣し、大高城も攻め落とし、鵜殿長介(長照)を入れた。しかしながらこの城には兵粮がなく、難儀をしていたので、その夜松平元康に申し付け、兵粮を入れさせた。敵陣の中を通っての兵糧入れは一大事であるので、元康は鳥居四郎左衛門(忠広)、石川十郎左衛門を物見として派遣した。この二人が言うには、「なかなか難しいことである。敵が近くに見張っていて、兵粮を取られてしまえば残念なことになる」と。(そこへ)松浦八郎五郎が「いやいや大丈夫である。早々に兵粮を入れられよ。詳しく言えば、敵味方の旗を見よ。山の上にいる敵は、(戦う気があれば)山より兵を降ろすであろう。しかし、上に上っている。これは戦う気がある敵とは言えない」と申した。

コメント
いよいよ桶狭間の戦いです。まず、桶狭間の戦いの冒頭に「織田信長を誅伐し、都へ切りて上らん」と今川義元の意図を示しています。現在の歴史家の意見では上洛の意図はなく、砦に囲まれて身動きができない大高、鳴海両城の封鎖解除が目的であろうということになっています。せいぜい清須を落して尾張を手に入れるぐらいがこの闘いの目的だったと言われています。しかし、ここにはっきり「都に切りて上らん」と書かれていることや「信長公記」に都から使用が許されていた輿に載っていたことなど、都を意識した戦いでもあったのではないかと思います。
また、愛智郡に向けてというのも面白いところです。大高は知多郡にありますので、義元の軍を起こした目的地が大高城ではないことが分かります。愛智群なので、おそらく鳴海城だと思います。鳴海を足掛かりにして、熱田そして清須へと軍を進める意図が感じられました。
さらに、沓掛城ですが、はっきりと義元が着陣したとあります。一部の論者に「これは今川軍であることを見間違えたので、義元は沓掛城ではなく、大高城に行った」という事を言う人がいますが、「松平記」では沓掛城説を取っているようです。
つぎに有名な徳川家康の大高城兵糧入れの話です。鳥居四郎左衛門は関ケ原の戦いの前哨戦伏見城の戦いで戦死した鳥居元忠の弟です。石川十郎左衛門は三河一向一揆の時に一揆側に寝返って家康を討とうとした時、娘婿の内藤正成に両ひざを射抜かれたことで有名です。
杉浦八郎五郎は、勝吉と思われます。「松平記」のこの文だけでは何が言いたいのか文意が読み取れませんでした。「寛永重修諸家譜」に勝吉の記事があり、これで、何が言いたいのかやっとわかりました。ただし、この記事では永禄2年のこととし、大高兵糧入れと同時進行で寺部・梅坪の放火を行い、そのすきに兵粮を入れたとあります。寺部の戦いは、「松平記」では永禄元年の戦いとし、大高城兵糧入れの話は出てきません。この「寛政重修諸家譜」の記事が何を元にして書かれたのか知りたいところです。

寛政重修諸家譜「杉浦勝吉」の項

西高木家陣屋跡 岐阜県大垣市

2022年10月24日 16時47分42秒 | 岐阜県
絶好の秋晴れ。久しぶりにドライブしました。目的地は「西高木家陣屋跡」。

西高木家陣屋とは
高木家とは美濃南部駒野・今尾周辺(現・海津市)に勢力を張った土豪でした。関ヶ原合戦の功により、石津郡時・多良郷に4300石を与えられ入部し、江戸時代を通じて同地を旗本として支配しました。西家2300石、北家・東家各1000石の3家からなり、「交代寄合(こうたいよりあい)美濃衆」として大名と同等の格式を許され、知行地に常時居住しながら江戸屋敷を有し、参勤交代を行いました。領地は美濃・伊勢・近江の3国が接する軍事・交通の要衝で、特に上方の非常事態に備えました。また、川通(かわどおり)御用の役儀を担い、ほぼ江戸時代を通じて木曽川三川の治水行政にあたる水行(みずゆき)奉行を努めました。


西高木家陣屋跡の図
太い破線が伊勢街道です。高木家は街道をまたぐように3家が位置しています。

上石津資料館
平日だったこともあり、他の観光客はゼロ、やったあと思って資料館に入ろうとしましたら、「休館日」。毎週火曜日は休館日でした。残念。


上石津資料館

この資料館の入口の脇に「多良中学校」の碑がありました。


多良中学校の碑

陣屋がなくなった後に中学校ができたんだと分かりました。それも今はないということです。


長屋門

資料館の右奥に長屋門がありました。この門は、嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築したものだそうです。資料館と長屋門から入った敷地が西高木家の屋敷があった場所のようです。そこから下の方に降りていきます。

高木陣屋跡の石垣

河岸段丘の壁に沿って造られている石垣

ここから下に降りていく道に沿って石垣がびっしりと造られていました。




坂道の石垣から埋門にかけての石垣

埋門は右と左で、微妙に違っていて、向かって右側がより傷んでいる感じがしました。孕みがあったり、雑草が食い込んでいる状態が目につきました。修復が急がれると思いました。

埋門

伊勢街道と日向松
西高木家を後にして、北高木家、東高木家を巡り、伊勢街道を少し北へ進みました。(高木家は伊勢街道を挟んで西家と東家があり、曲がった道の曲がり角に北家が位置しています。(前の地図参考)すると街道の東側に大きな松の木がありました。これは、高木家の紹介でも述べた「川通役儀」で、「宝暦治水」に関わった証拠として植えられた松だそうです。

日向松

以下説明版のコピーです。
「宝暦治水の日向松」
この松は江戸時代の宝暦年間に行われた御手伝普請(宝暦治水)を終えた薩摩藩士たちが、水奉行を務めていた高木家の陣屋に、薩摩から取り寄せて植えたと伝えられ、千本松原に植えられているものと同じ種類の「日向松」です。目通り幹周囲、約3.3m、樹高約30mあります。以前は松並木になっていましたが、今は一本のみ
残されているもので、当時を偲ぶことのできる貴重な松です。
大垣市上石津文化財保護協会
大垣市観光協会


なお、宝暦治水の記事がこのブログにもありますので、参考までにリンクを張っておきます。
治水神社 岐阜県海津市

またこの向かいには戦争の碑と共に「多良小学校」の石碑もあり、上の中学校と下の小学校で、この辺りが多良地域の文化の中心地だったのだろうなと思いました。(多良小学校は、現在いくつかの小学校を統合し、他の場所に移転しています)

多良小学校の碑

江戸時代から明治・大正・昭和にかけてこの地域がとても賑わっていたんだろうなあと推測されました。

松平記(34) 松平記

2022年10月23日 11時14分48秒 | 松平記
松平記は第2巻に入りました。

松平記p34

翻刻
松平記巻二
一 駿河今川義元ハ駿遠二ヶ国の兵を以三河へ切に働き、一
門なれとも吉良殿、尾州と御一味被成、ややもすれハ駿河
と御手きれ有とて、吉良殿を取巻、去弘治年中に西條殿を
はせめころし、東條殿をは駿河へよび越、やふ田と云処に
置申。其御弟を東條にうつし置、三河一国手にたつものな
く、甲斐の信玄も彼旗下被成加勢有、小田原氏康も此比ハ
無事と有て、子息助五郎を駿河へこし給ふ。されは東方に

現代語
一 駿河今川義元は、駿河と遠江2か国の兵を以て三河に出陣する。今川一門であるけれど、吉良殿は尾張織田の一味となられ、ややもすると駿河今川と絶縁し敵同士となるかも知れないので、吉良殿を取り囲み、さる弘治年中に西條殿を責め殺し、東条殿を駿河に呼び寄せ、薮田という所に置いた。そしてその弟を東条城に移し置いた。三河一国に歯向かって蜂起するものもなく、甲斐の武田信玄も旗下になられ、援軍を送られた。小田原の北條氏康もこの頃は今川氏を安全と見て、子息助五郎氏規を駿河へ移住させられた。そうなので、東方に

コメント
今川氏が三河において織田氏に付きそうであった吉良氏をおさえ、今川側とし、東は武田氏、北条氏といわゆる甲相駿三国同盟を結び、東からの脅威を取り除き、いよいよ西に向かって支配力を拡張しようとしていく様子が語られています。
北条氏の娘早川殿が今川氏真に嫁入りすることで北条と今川の同盟が結ばれることになっていますが、早川殿がまだ小さかったため、人質として北條助五郎氏規が今川に送られたようです。ただし、早川殿と今川氏真の婚姻が成立(天文23年1553)してからも駿府に居たようです。小田原に戻ったのは、桶狭間の戦い以降のようです。(ウィキペディア)

お城ブームは中学生、小学生にも 日記

2022年10月02日 14時12分46秒 | 日記
10月2日の中日新聞投稿欄です。

中学生の投稿

出だしが素晴らしいです。「城を見て、皆さんは何を感じられますか」もうすでに城の専門家の雰囲気が漂っています。そして天守閣や石垣の話を縷々述べられて、最後に「城は見た目が美しいだけでなく、いにしえを現代に伝える大切な証人でもあるのです」と、城の歴史的価値を立派に述べられています。中学生にして、ここまでお城を深められているとは驚きでした。また、名前からすると女性の方でしょうか。ひと昔前は、城めぐりは隠居したおじいさんの趣味のように思われていましたが、城ブームの広がりは目を見張るばかりです。「城ガール」は若い?女性の方でしたが、今は小学生、中学生まで広がりを見せています。私も城めぐり愛好家としてがんばらないと、と思いました。


金ヶ崎城見学会にも小学生の城マニアが参加していました。