愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

寺部城址 豊田市

2015年02月22日 08時16分51秒 | 豊田市
昨日は豊田市に用があったので、ついでに寺部城址を見学しました。

寺部城の歴史
15世紀、文明年間に鈴木重時によって築城
天文2年(1533年) 鈴木重教、松平清康と戦う。
永禄元年(1558年) 鈴木重辰、松平重吉、元信と戦う。
          松平元信(徳川家康)の初陣。
永禄9年(1566年) 織田氏家臣佐久間信盛に攻められ、落城。
慶長15年(1610年)渡辺守綱、尾張徳川の家老として入封。
以降、明治まで渡辺家が居城。

三河の鈴木氏
戦国時代に三河には鈴木氏という有力な勢力がありました。足助、酒呑、古瀬間、小原、寺部等々に鈴木氏がいたようです。これらの鈴木の元は、平安時代末源平合戦も終わりの頃に鈴木重善(しげよし)という人が今の矢並町に土着したのが始まりといわれているそうです。その後、室町時代に上記のように勢力範囲を広げていったようです。先日紹介した小原市場城の鱸氏も元はこの鈴木氏で、関係がありました。

渡辺半蔵守綱の居城
渡辺半蔵守綱は、三河一向一揆で一揆側に味方して戦った武将です。永禄7年1月11日の岡崎針崎の戦いで、父高綱とともに家康側と戦い、父高綱は致命傷を負い、立て籠もっていた針崎勝鬘寺で亡くなってしまいます。しかし、この一揆が平定されると渡辺守綱は家康に許されて、その後の家康の天下取りに大きな働きをしました。そして、尾張徳川の家老として、この寺部に居住するようになったというわけです。

寺部城址の概要
寺部城址は、渡辺家の屋敷跡になっていて、土塁跡、堀跡、そして書院、母屋、土蔵、茶席、井戸などの礎石が残っていました。航空写真で土蔵跡が確認できました。その外の礎石は、中央付近にあります。


航空写真から


井戸跡、他に2つありました。


母屋跡


土蔵跡、写真左奥も土蔵跡です。


書院跡、左奥の石が置いてあるところは茶席の庭のように感じました。


茶席跡


仏間跡


史跡西側に残る土塁跡。案内板では幅5.1m、高さ2mということです。また、土塁の外側は堀ということです。


土塁の外側を降りていくと、コンクリートで固められた川のような施設がありました。この施設は史跡の西北を囲むように流れていました。おそらく堀の跡にできた川ではないかと思いました。

渡辺家菩提寺守綱寺
守綱の菩提寺が守綱寺というのはすごいです。そのままです。守綱はこの寺部の地では仏様に近い存在になっていたのかもしれません。

守綱寺正面


渡辺家の墓所が守綱寺の奥にありました。正面の奥が守綱の墓です。その横に歴代渡辺家の当主の墓が並べられていました。
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田原城 田原市

2015年02月14日 10時44分05秒 | 田原市
田原城築城は戸田宗光
豊橋市に用がありましたので、ついでに田原城を見学しました。
田原城は、文明12年(1480年)ごろ、戸田宗光の築城です。戸田宗光は戦国時代に東三河で活躍していた武将です。その頃戸田氏は渥美半島、知多半島の一部を支配し、豊橋の牧野氏と争っていたようです。戸田宗光は、田原城のほかに二連木城(豊橋市)も築城しています。

三河一向一揆でも登場した戸田氏
三河一向一揆では、戸田三郎右衛門尉(忠次)が心ならずも一揆方に味方して佐々木上宮寺に籠もっていましたが、家康に忠義を尽くすために、家康軍を佐々木上宮寺に引きいれ外曲輪を焼いたと「三河物語」に記録されています。
宗光と忠次の関係は、以下のようです。(参考ウィキペディア)

忠次は宗光から5代後の人です。忠次の子孫が田原戸田家を継いだようです。

田原城関係年表(参考ウィキペディア)
文明12年(1480年)頃 戸田宗光築城
天文16年(1547年)戸田康光が今川の人質松平竹千代を織田に売ったため、今川に攻められ、落城。以後今川氏の代官が居城
永禄7年(1564年)本多広孝親子が入城。
天正18年(1590年)池田輝政の持ち城となり、伊木忠次が入城。
慶長6年(1601年)戸田尊次が入城。
寛文4年(1664年)三宅氏が入城。

さて、前段が長くなってしまいました。田原城は以下のように整備されたようです。

田原城整備の経過(「愛知の山城ベスト50」より)
明治23年、旧藩士全体の発起で三の丸公園として整備される。その後、渡辺崋山などの石碑が立てられる。
昭和9年、田原城の遠祖とされる児嶋高徳を祀る巴江(はこう)神社が建立される。
昭和33年、二の丸櫓跡に櫓風の文化財収蔵庫が整備される。田原城のシンボルとなる。
平成5年、田原城博物館が建設される。桜門、土塀等を復興する。桜門は写真及び江戸時代の渡辺崋山が描いたスケッチをもとにした。

田原城全体図。

桜門
はじめに見たのは桜門です。


この門の左右に堀がありました。

袖池

二の丸櫓
門をくぐると、二の丸櫓がありました。

二の丸櫓は、文化財収蔵庫となっています。

空掘
二の丸櫓から本丸跡(巴江神社)には土橋があり、その右側(東側)は、空掘りになっていました。戦国期の面影がありました。


巴江神社
本丸跡は巴江神社です。


この神社の境内の西側(写真の左側)を注意してみると土塁の跡がありました。

石灯篭の奥(写真の右側)です。

さらに、この神社の裏手には稲荷社が祀られておりました。その祠が最も高い位置にありましたが、私には、「物見櫓」がここにあったのではないかと思わせました。


画家としての渡辺崋山
最期に田原市博物館に入りました。田原城で忘れてはいけないのが渡辺崋山です。渡辺崋山といえば、「蛮社の獄」「慎機論」などで有名ですが、田原藩の家臣であったことは知りませんでした。また、それだけでなく画家でもあったようです。
彼が教科書にも出てくる「寺子屋」の絵を描いていたとは知りませんでした。6年生の社会科の学習で明治時代の学校と寺子屋を比較する授業で寺子屋代表がこの崋山の絵だったのです。

田原市博物館パンフレットより
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飯野八兵衛を祀る神社  豊田市

2015年02月14日 06時58分22秒 | 豊田市
先日小原の方に用がありましたので、その途中の飯野というところによりました。飯野は、以前お伝えした豊田市舞木町「永田清左衛門」を首謀者の一人とする「飯野八兵衛事件」のあった場所です。

飯野秋葉神社にある飯野八兵衛の石碑

飯野八兵衛は、宝暦2年(1752年)に百姓の窮状と挙母藩の悪政を訴えるために挙母藩江戸屋敷に陳情を起こした百姓一揆の中心人物です。
飯野八兵衛を祀っている秋葉神社の案内板には、この事件について次のように記しています。


 八兵衛さんは、享保11年(西暦1726年)7月3日、三州飯野村に生まれた。母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った。重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わった。
その頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だった。けれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した。彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1,241人の中より305人を引き連れて、宝暦2年(西暦1752年)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった。
 江戸に於ける彼の活動は凄まじかった。恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げその上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れた。かくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた。最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についた。この時27才、まさに巨星落ちるの感があった。
 犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である。飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである。
 昭和59年12月1日 長居紀章 撰
            飯野区  建立


この石碑の文は長居紀章氏ですが、かれはこの飯野八兵衛を格調高く、かつ分かりやすい小説に著していました。それが「義人 飯野八兵衛」という本です。


なかなか本屋では見つからなくて、ネットで検索したところ刈谷の古本屋にあることが分かり購入することが出来ました。一読を勧めたいところですが、なかなかこの本にありつけないのが残念です。
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丸根城 豊田市

2015年02月09日 15時26分06秒 | 豊田市
今日はとても寒い日でしたが、昨日雨が降り史跡めぐりをできなかったので、がんばって出かけました。山は雪がつもっているかも知れませんので、平地にしました。豊田市の南西部です。


豊田市にも丸根城
矢作川東岸に丸根城というお城がありました。丸根城といえば、桶狭間の戦いで織田信長が大高城の押さえとして鷲津砦、中島砦とともに築いた丸根砦が有名ですが、豊田市にも丸根城がありました。

丸根城は家康に関連するお城か
この丸根城は城主、築城年代についてはよく分かっていないそうです。「東照軍鑑」(とうしょうぐんかん、徳川家康及びその祖である松平八代の伝記)には、「丸根ノ城」の記事が載っているそうです。(「愛知山城ベスト50」より)他にも文献に登場することがあるそうですが、決定的な証拠はないそうです。そこで、この史跡の石碑には、「家康の城ではないか」と記されていました。

矢作川は水運が盛んな川
どちらにしても、この城が戦国時代にあって、矢作川の水運を押さえる目的を果たしていたことは間違いなさそうです。「愛知山城ベスト50」では、「俗に『鵜の首』と呼ばれるこの地形は矢作川の船運にとっては難所として知られる反面、水運を押さえるのに絶好の立地であった。」としています。矢作川には、戦国時代にすでに水運があったようです。浄土真宗が発展する地域として水運が発達している地域があります。(大坂、伊勢長島、越前吉崎等々)矢作川流域もこの水運業の発展とともに浄土真宗が広まったのかもしれません。

画像左側が矢作川、A地点が丸根城、ちょうど矢作川が鵜の首のように細く折れ曲がっていることが確認できます。

丸根城の案内板

丸根城の石碑

丸根城の縄張り図(現地案内図)赤の文字・矢印は付け加えたものです。

北曲輪北面の空堀

北曲輪の北にある空堀です。大変くっきりとのこっていました。右側が北曲輪です。

主曲輪、北曲輪の間の空堀

これは、北曲輪と主曲輪の間の空堀です。先の縄張り図の南東から見た写真です。左が主曲輪、右が北曲輪になります。けっこう深いものでした。主曲輪と二の曲輪の間に大きな空堀があるのはどうしてかという話が「長野県三日市場城」で出ましたが、そのことを思い出しました。

主曲輪西面空堀

これは、主曲輪西側の空堀です。左側が主曲輪になります。真っ直ぐ先は矢作川です。


これは、虎口から見たものです。左が空堀、正面が北曲輪、右に行くと主曲輪になります。この北曲輪ですが、縄張り図を見ると、半円形をしています。「愛知山城ベスト50」では「いわゆる『丸馬出』に類似している」と表現しています。

主曲輪北東部土塁

主曲輪北東部の土塁です。土塁はいずれも北方角に多いので、北方面をかなり意識したお城であることが分かりました。
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長篠城 新城市

2015年02月01日 19時36分45秒 | 新城市
長篠城は日本100名城の一つ
長篠城に行ったという知人がいて、しかも長篠城は「日本100名城」の一つであるということ、そして、先日訪れた設楽が原の近くであるということで、いってみることにしました。

長篠城が「日本100名城」の一つというのは、どうしてでしょうか。以下は、公益財団法人「日本城郭協会」のホームページから、「日本100名城」が選定された状況を述べた文です。

日本城郭協会のホームページから
公益財団法人日本城郭協会では、全国各地の名城探訪の手がかりとして「日本100名城」の選定を進めていたが、城郭愛好家からの推薦、専門家による選定会議を経て100名城が確定し、平成18年2月13日に発表された。
選定されたのは、世界遺産の姫路城、国宝の彦根城・松本城など天守がそびえる近世の著名な城郭から、城郭の始まりとされる環濠集落吉野ヶ里(佐賀県)や古代の鬼ノ城(岡山県)、さらに中世の足利氏館(栃木県)・一乗谷城(福井県)、琉球王国の首里城(沖縄県)、信長の安土城(滋賀県)、西洋式の五稜郭(北海道)まで、時代と地域を代表する多彩な名城である。これらの城郭には、平成18年4月6日の城の日に名城認定証が渡され、平成19年6月からは100名城を探訪するスタンプラリーが開始されている。
今回の「日本100名城」は、日本城郭協会が財団法人となって40周年を迎える記念事業として、文部科学省・文化庁の後援を得て企画された。日本が世界に誇る文化遺産であり地域の歴史的シンボルである城郭が、青少年教育や生涯学習の場、さらに子どもたちの総合的な学習の場としても活用されることをねらったもの。
選考に当たっては、まず選定対象を①優れた文化財・史跡、②著名な歴史の舞台、③時代・地域の代表、と規定。各都道府県から1城以上5城以内として、平成17年8月から10月まで城郭協会の会報やホームページで、100名城の推薦を呼びかけた。多数の応募があり、平成17年12月1日にこのデータをもとに選定会議が開催された。史料的に問題のある模擬天守や、史跡としての環境保存状況、さらには城郭発達史からみた重要な名城について熱心な討論の末、100城が選定された。各城郭に通知、快諾を得て発表の運びとなった。
選定にあたったのは、新谷洋二(選定委員長・日本城郭協会常務理事・東京大名誉教授)、小和田哲男(静岡大)、黒田日出男(立正大)、千田嘉博(奈良大)、平井聖(昭和女子大)、村井益男(日本大)の諸先生。


長くなりましたが、子どもたちに「城を見るならとりあえずこれを」ということで選んだもののようです。

愛知県から4つの城が100名城に
愛知県からは、以下の4つの城が選ばれています。
犬山城、名古屋城、岡崎城、長篠城
上記100名城選出の基準を各城に当てはめてみると、以下のようになります。

基準 ①優れた文化財・史跡、②著名な歴史の舞台、③時代・地域の代表

犬山城 ①国宝 ②小牧長久手の戦い ③特に尾張の代表ともいえない
名古屋城 ①国の特別史跡 ②特にない。(江戸時代になって清須から移転したため) ③尾張名古屋は城で持つ
岡崎城 ①市指定 ②松平家の居城(清康~家康) ③西三河の代表といえば代表(ほかに、刈谷城、安祥城(安城市)、西尾城、七州城(豊田市)などがある)
長篠城 ①国の史跡 ②長篠の戦い ③東三河は吉田城、田原城か

岡崎城が、3つの基準でとくに決め手がなく見劣りがします。また、名古屋城は「史料的に問題のある模擬天守」という点で鉄筋コンクリートで中にエレベーターがあるのはいかがかとも思います。

でもお城を人々に広めるために「この城はぜひとも見てください。」とアピールして、日本の歴史に興味関心を持ってもらう趣旨には大賛成です。現にその「100名城」を回ってみたいという方を知っていますし、私自身もそう思っている一人だからです。

長篠城の概要
さて、長篠城ですが、その概要は以下のようです。(「愛知の山城ベスト50」より)


わかりにくいので、今回見学したところをマーキングしました。


保存館
まずは、保存館です。




チケットの裏面に展示内容の概要が記載してありました。やはり鳥居強右衛門(すねえもん)については詳しく説明がありました。縄をかけられた像も展示してありました。

大きな空堀
保存館を出ると左手に空堀が見えました。大きな堀でした。


分断された土塁
また、空掘りの左側におおきな土塁が見えました。土塁は、階段で登り奥のほうは神社の跡地になっていました。


土塁に登ると、電車の線路が見えます。JR飯田線です。長篠城は飯田線で分断された格好になっています。(残念)
線路の向こうに分断された土塁が見えました。

こういう史跡を見ると、少し悲しくなります。

渓谷を利用した堀
本丸跡の西側(図では左側)は、渓谷になっていました。自然の堀です。


まさに渓谷で、かなり深かったです。そしてこの自然の川の源流が滝となっていました。「不忍の滝」だそうです。


長篠城撮影スポット
大きな空堀と土塁を見て満足しましたが、ふと気になることがありました。長篠城といえば、二つの川(寒狭(かんさ)川と宇連(うれ)川)に挟まれた情景がよく写真として出てきますが、どこから写したのだろうと。辺りを探しましたが、ありました。すぐ下流の牛渕橋というところから写したものだということがわかりました。さっそく私も撮りました。


鳥居強右衛門は「大権現」
長篠城を後にして、鳥居強右衛門の墓が近くにあるということで行ってみることにしました。

大変立派な墓で平成24年に新東名高速道路建設のためにこの地に移転したとの説明書きがありました。鳥居強右衛門は「鳥居大権現」として神様になっていました。


JR飯田線といい、新東名高速道路といい、文明の発達によって昔の遺跡がどんどん居場所を失っていくのは大変切ないと感じました。
コメント (4)
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