愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

三日市場城のなぞ 長野県白馬村

2014年09月28日 12時21分52秒 | 長野県
 この三日市場城の最大の見どころについて笹本氏が語ってくれたことを紹介します。



 それは、図の曲輪Ⅰと曲輪Ⅳについてです。

 曲輪Ⅰと曲輪Ⅳの間には大きな堀切があります。さらに曲輪Ⅳには、曲輪Ⅰから守るように土塁があります。なぜ、曲輪Ⅳは曲輪Ⅰを意識しているのか、同じ城であるはずなのに。

 さらに、これは私も思っていたことですが、曲輪には建物があったのか、ということです。兵や馬を集合させるための平地ならばわかりますが、例えば曲輪Ⅰに沢渡氏の館があったとして、なぜ礎石がないのか、土に柱を立てるだけとしても、なぜ穴が見つからないのか、不思議です。

 山城はおもしろいなあと、笹本氏の話を聞いて大変興味を持ちました。

三日市場城 長野県白馬村

2014年09月28日 11時13分24秒 | 長野県
 9月27日、誘われて長野県白馬村の三日市場城の見学会に行きました。三日市場城は、長野県のかなり北のほうです。10時開始ということでしたが、朝5時に出発して、9時20分頃に到着しました。


 見学会の集合場所は三日市場の神明社と言う神社の駐車場でした。神明社は、その日は祭礼の日でした。地域の方が多数見えて、祭礼の準備をしていました。


開校式
 見学会に先立ち、「開校式」が行われました。「開校式」には、白馬村の村長さんがあいさつに見えました。(その後見学会にも最後まで参加されました)


史跡の損壊と見学会
 今回の見学会は、今年5月頃に村指定の史跡である三日市場城址が一部破壊されたという事件を受けて、以下の趣旨で行われました。

「白馬村指定史跡三日市場「大宮城跡」損壊に係る経過と対応について」

 本年5月初旬に山城探訪愛好者の方から白馬村指定史跡「大宮城址」の損壊が指摘され、他の方々からも同様にご指摘のメール電話等が、多数ございました。
 村といたしましては、この間現状の把握に努め、長野県トップクラスの有識者の皆さんとコンタクトをとり、6月30日に白馬村文化財審議委員会、7月25日には現地踏査を行い、対応について協議してまいりました。
 8月30日に有識者・白馬村文化財審議委員会と検討会議を設け次のとおり対応することといたしました。

  記

1.損壊経過については、地権者が世代交代により、白馬村史跡及び埋蔵文化財包蔵地に指定されている事実を知らなかったため、白馬村に無届で長年の雪害による倒木や、荒廃していた当該地を整備し守っていくため、約3年程前から重機を使用し、主には倒木の撤去等を行ったとのことであります。
 「大宮城跡」は白馬村指定史跡で学術上価値の高いものでありながら、村民の文化財に対する保護や保全等意識の高揚につながる必要な施策を講じてこなかったため、今回の損壊を招いたものと深く反省をしております。今後は二度とこのような過ちを犯さない事を肝に銘じ、文化を考え年1回は、地域理解を深める啓蒙活動を後記3のとおり行います。

2.「大宮城跡」の復旧については、意図的に元に戻さず原状復帰・景観配慮とし、損壊部分には植栽ネット等を敷き、損壊部分との区別をします。
 また、学術調査は後年行うこととします。

3.白馬村文化活動三日市場「大宮城跡」現地見学会開催について
 と き  平成26年9月27日〈土〉 午前10時から午後12時30分
 ところ  三日市場大宮城跡 集合三日市場神明宮駐車場
 内 容  戦国末期の山城築城技術と武田氏信濃侵攻について
 講 師  国立大学法人信州大学地域戦略センター長
      信州大学 副学長 笹本 正治先生
主 催  白馬村・白馬村公民館
共 催 国立大学法人信州大学地域戦略センター・白馬村文化財審議委員会
※詳細別紙
なお、今秋より原状復帰作業のため、一般見学の皆さんは「大宮城跡」の立ち入りを自粛願います。

平成26年9月5日

白馬村長 下川 正剛

白馬村文化財審議委員会
  会長 丸山 澄雄


以上白馬村ホームページより

史跡を守ること
 要するに、村の史跡の管理が十分でなかったということでしょうか。
そこで、村の人を対象にもっとこの史跡を知ってもらい、村の人がこの史跡を語れるようにと開かれたのがこの見学会のようです。

 これって、すごく考えさせられるテーマだと思いました。愛知にもいくつかの史跡があります。しかし、それを研究者や行政の人だけが「大切だ」「守っていかなくては」と思っていてもだめなんだと。その地域の人が、自分の地域の史跡を「大事なものなんだ」と思っていなければ、意味がないということでしょうか。少なくとも、史跡、文化財を守っていく上で地域の人の理解と「誇りのようなもの」がないと、守っていけないということは、今回の事件でいえると思いました。

 見学会では。笹本先生がその辺のところを大変強調された内容の話をされていたように思いました。

神明社は年に1回しか入れない
 さて、見学会は、この三日市場城のふもとの神明社の見学から始まりました。ここの拝殿は年に一回しか見ることができないそうで、今日がその日だそうです。(偶然か、ねらったのかわかりません)
中を謹んで見せていただきました。

神明社

登城開始
 いよいよ、この神社の南から登城です。

三日市場城縄張り図(三島正之氏の作図)この図が、この後の写真の説明になっています。

物見
 すぐになだらかな台状の土地がありました。ここは、物見だそうです。


土塁跡
 これは図のⅢの曲輪の南側の土塁跡です。


竪堀①
 これは図の曲輪Ⅲの西側にのびる竪堀(竪堀①)です。


損壊した部分
 これは、曲輪Ⅳの南側の部分で、損壊した部分です。笹本氏は、土塁などは、なかなか中の構造まではわからない、しかし今回損壊したことで、その土塁が自然の地形を利用したものか、人が積み上げたものかが分かるといっていました。なんというプラス思考かと、感動しました。

これは、自然の地形を利用していると解説していただきました。

畝状竪堀
 これは北側にある畝状竪堀と呼ばれる堀です。写真ではよく分かりませんが、北の守りのために、このような堀を作ったということです。


横堀
 これは、図の曲輪Ⅳの東側の横堀です。人がはいっていて、かろうじて肩から上が見えます。むかしはもっと深かったはずです。


 同じく横堀です


神聖な地であったことを示す祠
 図の曲輪Ⅰには、小さな祠がありました。いつからあるのかは分かりませんが、この地が神聖な場所であったから、祠があるのではないかと笹本先生は言って見えました。


 この見学会は、村の人を対象にした見学会ということで、大変わかりやすくお話をしていただけました。また、史跡の損壊というショッキングな出来事があって開かれた見学会ということで、史跡保存についても考えさせられるものでした。愛知県からは遠かったですが、行って良かったです。

平針城 名古屋市天白区

2014年09月23日 17時48分32秒 | 名古屋市天白区
灯台もと暗し




神田公園

 私が以前住んでいた平針にも、お城があった。しかもすぐ近くの「神田(じんでん)公園」。平針城は2つあって、ひとつは、この神田公園(または郷の島公園)にあったらしいのです。もうひとつは、原中学校の近くらしいです。城下公園というのがあって、その辺らしいです。



小野田勘六
 神田公園の城主は小野田勘六とか言う人で、越後の上杉家の家臣であったが浪人となり、この地で城を持つ身にまでなったといいます。天白川がすぐ北を流れていて、天然の堀の役割をしていたそうです。また、この城のすぐ南には、平針街道が走っており、交通の要衝でもあったようです。
 
 まさに「灯台もと暗し」です。神田公園は子どもといっしょに遊んだ場所です。こんなところにお城があったとはびっくりしました。

秋葉山慈眼寺


 その小野田勘六のお墓が近くの秋葉山慈眼寺にあるというので行ってみました。
 しかし、ぐるっと2回ほど探してみましたが見つかりませんでした。ちょうど今日は彼岸でお墓参りをしていらっしゃる方が見えていましたので、その方にも聞いてみましたが、分かりませんでした。残念。代わりに近代明治以降の戦没者の慰霊碑がありました。



桶狭間の戦いで織田信長が戦勝祈願
 なお、名古屋市教育委員会によれば、織田信長が桶狭間の戦いのおりに、この秋葉山に戦勝祈願に来ているそうです。


安い農業センターのコーヒー
 途中、名古屋市の施設「農業センター」に立ち寄り休憩しました。すると、なんとコーヒーに「モーニング」(トーストとゆでたまご)が付いて、280円でした。安い。

真清田(ますみだ)神社 一宮市

2014年09月21日 12時29分34秒 | 一宮市
一宮市はなぜ一宮か
一宮市はなぜ一宮というのか、長年疑問に思っていましたが、それが解けました。一宮市には、真清田神社という平安時代からある大きな神社があったからでした。

真清田神社公式ホームページによれば、
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
 鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
 その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
 明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。
戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
 尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。



真清田神社南側の鳥居

お寺のような門がある

楼門 まるでお寺の山門のようでした。昔は本地垂迹で神社もお寺のような門を構えていたのでしょうか。大変立派な門でした。

結婚式もできる
境内に入ると、今日結婚式をこの神社で挙げるのでしょうか、花嫁さんと花婿さんがいらっしゃいました。おめでとうございます。



拝殿です。これもなかなか立派でした。

馬にちなんだ行事がある

10月15日には、「太々神楽駒牽神事」という行事があるようです。絵を見ると、馬が出てくるようです。

軍人像 南知多町

2014年09月16日 15時45分43秒 | 南知多町
知多に軍人像
 9月14日から3連休。どこかへ行きましょうということで、知多の観光案内をネットで調べていたら、すごいものが出てきました。「軍人像」と呼ばれるものです。場所は、岩屋寺の中之院というところです。

軍人像

 さっそく行ってみることにしました。

神秘的な岩屋寺
 岩屋寺は、大変立派なお寺でした。軍人像はこのお寺の中之院、細い道が山の方に伸びていて、突き当たりは奥の院というところで、これはこれで神秘的な場所でした。


奥の院にそびえる三重塔。すぐ後ろは山で山肌にくっついて立っている感じでした。


岩には無数の仏像や地蔵像が並んでいて、ああ密教だとつよく感じました。

軍人像があった
 この奥の院からしばらく降りたところに中之院があり、軍人像が並んでいました。


 軍人像は、100体ほどあるそうです。なぜこんなところに、こんな像があるのか説明版がありました。


中之院 軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が、国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った
 おかげで像は壊されずにすんだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
                                   天台宗 大慈山 中之院


戦争への道に進まない
 私たちの親、祖父たちが戦争に行っていたこと、戦後の平和はこうした人たちの礎の上にあること、したがって、こうした尊い犠牲者の死を無駄にしないためにも、再び戦争への道に進まないという思いを改めて感じました。
この軍人像は、私たちにそんなことを語っている気がします。