愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桃太郎神社 犬山市

2017年10月09日 06時38分09秒 | 犬山市
10月8日、犬山方面に用事がありましたので、ついでに「桃太郎神社」に行きました。
先日テレビで桃太郎伝説は、岡山だけではない、日本各地にあるということで、愛知県の桃太郎神社と四国の桃太郎伝説の地が紹介されました。
そこで、一度行ってみようと思いました。

桃太郎神社は、先日出かけた「木曽川鵜飼」の渡し場の少し上流にありました。

桃太郎神社の位置(Googleマップより作成)

神社に着くと道沿いに大きな鳥居がありましたが、鳥居の下には、サルが座って出迎えていてくれました。

桃太郎神社の鳥居

鳥居をくぐると右側に岩があり、なんとおばあさんが洗濯をした時の足跡が遺っている岩だそうです。

おばあさんの足跡が遺っているという岩

上から見たかったのですが、柵があって入れませんでした。

参道の右手には、なにやら銅像がありました。

桃太郎神社の創建者、川治蘇山という人の像

像の後ろに、「明治27年1月2日栗栖に生る。犬山観光開発の先駆者にして此地に公園を設け桃太郎神社を祭祀す。昭和48年1月吉日建立」とありました。

ネットで調べると、この桃太郎神社は、川治蘇山こと川治宗一さんが栗栖の村をなんとか発展させたいと、桃太郎神社を造ったそうです。今の宮司は2代目の川治桃光さんというそうです。

奥のほうに本殿がありました。突き当たって左手です。鳥居の代わりに桃の輪郭のアーチになっていました。

桃太郎神社本殿

この本殿の右側に歌碑がありました。
案内板によると、野口雨情、鳥観図大家吉田初三郎、御歌所奇人坂正臣翁という人の3人の歌の石碑がありました。どういう関係でしょうか。

記念歌碑

そして本殿の反対側には「宝物殿」がありました。宝物殿の入り口に鬼が背中に人が乗れる格好で四つん這いになっていました。曰く「やさしい鬼です。せなかへどうぞ」
思わず「泣いた赤鬼」を思い出しました。あの話でも優しい鬼は、赤鬼でした。子どもさんが来られて、背中に乗ったところをパチリということを狙ったものと思われますが、なんだか鬼がかわいそうに思えました。

宝物殿入口の「やさしい」鬼

宝物殿の中には、嘘かまことか鬼のミイラの写真であったり、鬼の体の一部の化石であったりが展示されていました。話しのタネとしては面白いと思いました。

戦時中に、この桃太郎が戦意創出のために利用され、日本兵は桃太郎、連合軍は鬼(まさに鬼畜米英です)として描かれ、それが子どもたちの読み物として登場していたことが展示されていました。

こどもたちの心を育てる昔話が戦争に利用されてはならないことを暗に訴えているのかと思いました。
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加茂一揆(7) 行動の開始

2017年10月07日 08時49分27秒 | 加茂一揆
渡辺政香「鴨の騒立」第5回 行動の開始

9月21日、夜7時ごろ、ほら貝の代わりに竹筒を吹き、時の声を告げた。その音に驚き、隣村の人々は出なければ家を打ち砕かれると恐れ、取るものもとりあえず、石御堂に集まった。人数は60人あまりになったらしい。その夜1時ごろより、竹筒を吹きながら、松平数馬様(1)御知行所である滝脇村庄屋へ8~9人が走って行って、
「申し次ぎの廻状はこちらに来ているか」
と聞いた。それを聞いて庄屋はぶるぶると震えだし、
「地頭(2)役人羽明村河合庄兵衛に聞いてから、ご返答させていただく」
といいながら、走っていってしまった。その後に滝脇村に来た一揆勢一同がときの声をあげたので、まもなく大勢駆けつけ、(3)庄屋の家を微塵に打ち砕き、すぐさま組頭の家2軒を打ち砕いた。この物音に近くの村の人たちが驚き、我も我もと駆けつけ、すで200人余りとなった。(4)
 22日午前5時ごろ、しばらく休息をしているところに、遊平(ゆだいら)村・柵沢(ませざわ)村・株木(かぶき)村(5)・長嶺村・外山村・須山村・柳村等の村からも人が集まり、400人余りとなった。

注意書き
(1)松平数馬 所領は六百石滝脇松平といわれ、古くからこの地に縁を持つ旗本。
(2)地頭 ここでは松平数馬のこと。つまり羽明村の河合庄兵衛は松平数馬の役人でもあったと言うことか。
(3)大勢駆けつけ どこら駆けつけて来たのか不明。近隣の村々か。
(4)最初60人ぐらい、次に滝脇村の庄屋の家の打毀しを終わった段階で200人余りへと人数が増えている。そして翌22日には400人となっている。人数の揃え方として一気に何千人もの人を集めたのではなく、人を集めながら村々を回っていくという感じである。また、この段階で人々が打ち壊しのために、どんな「道具」を持っていたかは明らかではない。
(5)株木村 蕪木(かぶらき)であろう。(高橋校注)


 石御堂に集まり、いよいよ行動開始です。最初は60人ほどでした。これでは少ないと思ったのか、まずはじめに、石御堂のある滝脇村の庄屋を訪ねました。というより結果的には庄屋を襲いました。滝脇村は、当時松平数馬という旗本の領地だったようです。庄屋は、人を出すと言えば、一揆に手を貸したことになって、あとでお咎めを食うし、人を出さないと言えば、一揆勢に責められる、苦肉の策として、「役人に聞いてから」と答えました。
 しかし、それは今すぐにでも人数を増やしたい一揆勢にとっては、「人を出さない」と同じ意味だったと思います。また、役人に知れれば、すぐに鎮圧隊がやってくることも予想されたので、そんなことは一揆勢にとって了承できるはずもありません。廻状の趣に沿って、庄屋宅は打ち壊しの対象になってしまいました。
 そして、庄屋宅、組頭宅の打ち壊しを目の当たりに見た近隣の百姓たちは、自分の家も壊されるとの思いから、一揆に加勢していきました。しかし、恐怖心からだけではないと思います。生活の困窮、困窮の原因となっている酒屋、高利貸し等への怒りが根底にあったためと思われます。

滝脇町 石御堂
当時は、今より若干下の旧道沿いにあったらしいです。(「豊田市史」)

愛知県図書館のホームページを検索したところ、明治2年頃の三河の村の絵図が公開されていました。この絵図を見ると、当時の村の所在がだいたいですが分かりますので、ぜひ参照してみてください。

愛知県図書館HP>左側のバーナー「愛知県図書館所蔵 絵図の世界」>右側の「旧藩(旧県)管轄絵図(支配所絵図) 三河国全図>絵図を見る 高精細

三河国全図

愛知県図書館に問い合わせましたが、学術目的はコピーできるが、営利目的あるいは趣味では、できないとのことでしたので、リンクを貼らせていただきました。

このごろ、加茂一揆の記事が多くなっています。そこで、加茂一揆を一つのカテゴリーにします。
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幡豆寺部城跡(2) 西尾市

2017年10月05日 14時16分42秒 | 西尾市
本丸には、お堂が建てられておりました。また、案内掲示板がありました。

本丸

そして本丸東側には、大きな土塁が残っていました。

土塁跡

この土塁には、「諸国古城之図」に注意書きがありました。
「此土イ高ク他ノ山ヨリ城内見エズ」
当時はよっぽど高い土塁だったのでしょう。

また本丸からは三河湾が大変よく見えました。

本丸から三河湾を臨む

そして、案内板に小笠原氏と海との関係についての説明がありました。
・三河時代は徳川の船手衆(ふなてしゅう)として活躍
・関東移封後は江戸湾を守る御船手(おふなて)をつとめる
・関ヶ原の戦いでは、師崎の城を守り、九鬼水軍の押えを果たす
・大坂の陣では、三浦半島の三崎と走水(はしりみず)の番をつとめる

なるほど、小笠原氏は海賊だった可能性が濃厚です。もともとは、信濃の豪族だったというから、不思議でした。

さて、登城道をもとに戻り、入口より西のほうを見てみると大きな竪堀がありました。

二の丸からのびる竪堀 下から撮影

その堀の右側は土塁になっていて、さらに三の丸跡になっています。(案内板では畑と表示)
そこで、もう一度二の丸に上がり、上から確認しました。

三の丸跡・土塁・竪堀

寺部城は、海に面したお城になっていて、以前蒲郡で見た上之郷城跡を思い出しました。
小笠原氏は、三河湾を制して水軍として活躍したのだろうということがイメージとして描くことができました。
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幡豆寺部城跡(1) 西尾市

2017年10月04日 14時04分40秒 | 西尾市
10月1日、西尾市の寺部城跡に行きました。

寺部城は、豊田市にもありますので、西尾市の寺部城は、幡豆寺部城とします。

現地案内板によれば、寺部城は、
「築城年代、築城者は不明ですが、永正11年(1514)、小笠原定政が早川三郎を敗って寺部城主となり以後小笠原氏(定正―広政―重広―信元―信重)の居城となりました。
 欠城(寺部城の西800メートル、磯城とも言われた)とともに、永禄の初めごろまでは今川氏に従い、以後家康に属して、家康の関東移封とともに天正18年(1590)小笠原氏も上総国に領地を賜り、関東に移りました。
 その後、江戸時代に入って、寺部城も自然に廃城になったものと思われます。」


小笠原と言えば、豊橋市の船形山城で登場した武将です。

参照 「船形山城址 豊橋市」

永禄11年(1568)徳川方の武将松平家忠と小笠原廣重が、武田軍への押さえとして、この船形山の砦を守り、小笠原廣重の息子小笠原信元もここを守ったそうです。小笠原廣重は、現地案内板の「重広」と同一人物です。また、現地案内板の中の「小笠原定政」と、その後の居城者「定正」はおそらく同一人物です。


寺部城遺構図(現地案内板)

寺部城跡全景(東側の西尾市役所支所より)


寺部城跡への登城口

寺部城跡は、西尾市幡豆公民館から下に降りて、すぐの道をまた西のほうに折れると左側にあります。

登城道は階段になって整備されていました。しかし、この道は本丸東側の大きな堀切の跡でした。

東側の堀切(登城道)

この登城道を東から南にぐるっと回りますと、腰曲輪や二の丸が見えてきます。

本丸南腰曲輪・二の丸

(つづく)
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加茂一揆(6)不承知なら家々残らず打ち壊す

2017年10月03日 14時47分12秒 | 加茂一揆
石亀坂では具体的に一揆の人数集めのために、各村々にお触れを出すことになりました。

渡辺政香「鴨の騒立」第4回 口上の趣

まず相談の一番頭は、加茂郡下河内村辰蔵、二番川向善四郎・川田の千蔵(1)・文六・椿木伊助・矢並次兵衛兄弟・林添藤兵衛・同じく佐平・松平村隆蔵・同近藤勇・菅沼村繁蔵兄弟・大津大吉・茅原村・七売村・大田村者集まり、廿人ばかりになった。村々へ言い継ぎ、申し送った。(2)
 
口上の趣
 このたび8月の大風にて麦や米の値段が高騰した。大豆・小豆の類、また稗なども1升が52~3文となっているらしい。他国のことは分からないが、国中一統(3)難渋しているので、露命(4)もつなぐことが難しい。そこで、今日1000余人が相談するために、石御堂に集まってきてほしい。15歳以上60歳以下の男子はとりあえず来ていただき、帳面に名前を書くこと。もし不承知であるという村には、1000人が押し寄せ、家々残らず打ち崩すことになる。もし、遅れて来た村があれば、真っ先に庄屋を打ち崩すことになる。以上を申し次ぎ、言い送った。(5)
 一説に言うには、下河内村辰蔵・七売村次兵衛の両人は、諸方へ村順に廻状を送り、徒党することに同意するべきであるという旨を残らず触れ回り、承知するかしないかを記録し、その村の庄屋の連印(6)を取った。もし不承諾の村方は家を壊し家財を打ち砕くとの趣に村方(7)は驚き、さして抵抗もなく同意・連印したので、人数は増え、100ヶ村余りが徒党に加わったらしい。(8)

注意書き
(1)先に千吉は九久平村とあるので、ここの千蔵(川田)は千吉とは別人と考えられる。
(2)「鴨の騒立」では、石亀坂に集まった村は、下河内村、川向、川田村、椿木村、矢並村、林添村、松平村、菅沼村、大津村、茅原村、七売村、大田村の11か村としている。ほぼ割木騒動で蜂起した村と重なっている。なお、豊田市史では、九久平、松平、下河内、林添、大給、七売、北川向、南川向、切二木の9か村の19名としている。前回の地図では、豊田市史の記述を採用した。
(3)一統 おしなべて、いちように
(4)露命 露のようにはかない命
(5)この言い継ぎ状は、村役人宛に出されているそうである。(高橋校注)
(6)連印 連判に同じ。1枚の紙に名前を列記し、押印すること。
(7)村方 村方三役の略。江戸時代の村役人で、名主(なぬし)(庄屋(しょうや))、組頭(くみがしら)(年寄(としより)、長百姓(おとなびゃくしょう))、百姓代(ひゃくしょうだい)をいう(ネット『コトバンク』)
(8)当初呼びかけの対象となった村は73か村であったが、「科書」によると参加者を出した村は加茂郡だけで239か村、他に額田郡が若干。(高橋校注)


人数を集める理由は、目標である酒屋、高利貸しなどへの圧力で、買い占め、物価騰貴の起こしている張本人である彼らに、人数で圧力をかけ、米価の値下げ、物価の値下げに応じさせるためと考えられます。
次に伝達手段ですが、辰蔵および次兵衛廻状が廻状を回したとあります。ということは、この二人は字の読み書きができたということ、また廻状の宛先が村方三役であることは、辰蔵、次兵衛が自分の村でそれなりの地位に居たことが窺われます。そうでなかったら、一揆の頭取に推挙されることはなかったとも言えます。
そして、一揆への参加は、個々人の意思だけでなく、村全体の意思として、村ぐるみで行われたことが窺えます。
また、文面を見ると、かなりの強制・恫喝が感じられます。『不承知であれば、家を残らず打ち壊す、遅れてくれば、庄屋の家を打ち壊す』。ことを起こせば、当然、藩役人に通報されたり、無視され参加しない村があることが予想され、一揆が失敗に終わる可能性があります。失敗すれば、当然処罰されます。そうなると、辰蔵ら頭取らにとっては、一揆を必ず成功させなければ自分の命に関わることになります。したがって、こうした恫喝や強制は不可欠であったと思います。


石亀坂 googleの地図に「石亀」という地名が残っていました。「豊田市史」では松平の柳助宅に集合する雰囲気になっていたところ、柳助が拒否したので、茅原村の地内にある石亀坂に移動したとありました。地図上の石亀というあたりではないかと探してみました。


石亀坂中腹の平たい土地
大田町、「茅原村」(現在は地名としてはありません)の方から松平に抜ける細い道がありました。登っていきますと、峠より少し松平寄りに平たい土地がありました。今資材置き場になっていました。もしかしたら、このあたりで集会が持たれていたのかも知れないと思いました。

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