愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桶狭間見学会 名古屋市緑区

2023年05月11日 05時44分08秒 | 名古屋市緑区
5月9日、地元桶狭間古戦場の見学会が行われました。主催は、年金者組合緑支部女性部です。宣伝がほとんどされなかったらしく参加者は少なかったですが、天気も良く気持ちのいい見学会となりました。
古戦場公園、観光案内所、長福寺と近くのスポットを見学しました。


桶狭間古戦場公園にて


長福寺にて

大高城・鷲津砦見学会のお知らせ

2022年04月14日 08時15分28秒 | 名古屋市緑区
5月29日(日)大高城、鷲津砦の見学会を行います。
午後1時JR大高駅集合です。
まず、すぐ近くの鷲津砦を見学し、そこから歩いて大高城に向かいます。
桶狭間の戦いを実感できたらと思います。


参加希望の方は、
電話 080-3612-0027
メール mseijyun@gmail.com(南)
まで、ご連絡ください。


三の山赤塚古戦場 名古屋市緑区

2021年12月26日 07時06分40秒 | 名古屋市緑区
赤塚はどこか
「信長公記」首巻に書かれている「三の山赤塚合戦の事」。信長の父織田信秀の時代から続く今川氏と織田氏の抗争。織田信秀が病気で亡くなると、織田の形勢不利と見たのか、家臣の鳴海城主山口左馬助教継、子息九郎二郎教吉が謀反を起こします。そして、鳴海城のほか、笠寺に砦を築き、中村にも城を造りました。
そこで、織田信長はこれを討つべく「中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり」陣を構えました。一方鳴海城の山口九郎二郎教吉は、「三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。(中略)赤塚へかけ出し候。先手あし軽、清水又十郎、(中略)是れらを先として、赤塚へ移り候。」信長は、「三の山より此のよしを御覧じ、則ちあか塚へ御人数よせられ候。」とあります。赤塚とはどこなのでしょうか。

赤塚の戦いの図(地理院地図より)

(1)「信長公記」の通り三の山、鳴海城からそれぞれ1.5km離れた場所を探すとちょうど緑高校の辺りになります。いくら何でも両方の陣から遠すぎますし、赤塚という地名も残っていません。(地図の①)
(2)では、赤塚という地名はどこに残っているかといえば、現在は新海池のすぐ西にあります。新海池は1634年に造られたそうなので(ウィキペディア)、新海池の辺りは土地が低いところだったのかも知れません。しかし、この場所は、「信長公記」の言う赤塚とは違っています。それに、やはり両陣営がわざわざ東の方に戦闘場所を移動させています。やや不自然です。(地図の②)

現在の赤塚の地に残る赤塚古墳(ネットではこの辺りが赤塚古戦場としています)

(3)これは偶然ですが、「天保の村絵図緑区域解読版」というのを購入したのを思い出し、天保の頃の緑区の村の様子を見ると、ちょうど成海神社の北隣に「赤塚」という地名が書かれています。

天保村絵図での「赤塚」の位置

現在は「三高根」(さんたかね)という地名です。ここだと三の山からも鳴海城からも割と直線的に来ることができます。ただ、現地に行ってみると結構高台になっています。「三高根」は「三太ヶ根」で三太の尾根という意味だそうです。しかし、「三高根」の高台は狭く、西の方は低くなっています。その辺が戦いの地ではないでしょうか。

現在の三高根の様子(画像の奥、右が高くなっています。撮影している地点から後ろは低くなっていきます)

これを地理院地図の陰影起伏図で表すと以下のようになります。三の山は海抜36.1mで、そこから鳴海城が見えたものと思います。また、信長は山口九郎二郎教吉が赤塚に移動したのを見ていたと言います。したがって赤塚は三の山より低い土地になります。おそらく成海神社の北西から西にかけて戦場になったと推測されます。

陰影起伏図(地理院地図より)

三の山

三の山の入口(狐がお出迎えです)


三の山から西北を見る(名古屋駅の高層ビル群が見えました)


三の山から南を見る(遠くに低く見えるのは大高緑地、写真ではただの地平線ですが。)

東と北は木が茂っていて現在は眺望がよくありませんが、おそらく当時はよく見えて、鳴海城や赤塚の様子が信長から手に取るように見えたのだと思います。

大高城 名古屋市緑区

2020年09月03日 16時53分00秒 | 名古屋市緑区
第3回 大高(おおだか)城
信長公認の元(?)兵糧入れをした松平元康(徳川家康)

大高城周辺の地図
辻の秋葉社を南西に進み、2 本目の小道を左折する

大高城は桶狭間の戦いの時点では、今川側の城でした。信長は鷲津砦、丸根砦という二つの砦を設け、大高城を包囲することにしました。そのために大高城は苦しい状況になったそうです。その中を松平元康が兵糧をいれたということで有名になっています。
しかし、この兵糧入れは信長承認のもとに行われたのではないか、そもそも桶狭間の戦いは信長と元康の協力のもとで戦われたのではないか、こうした設定でNHK「麒麟がくる」は、戦いを描いていました。なかなか面白い話です。

大高城概要図
「愛知のベスト50を歩く」高田徹氏の図を改変しました。

さて、大高城は公園として整備されています。北側の説明板のある道を登っていきますと、二の丸に出ます。二の丸から鷲津砦、丸根砦を望むことができます。本丸は二の丸よりやや高いところにあり、西端には城山八幡社があります。二の丸を直進しますと三の丸とつなぐ土橋があり、その両脇には深い堀があり、当時をしのぶことができます。三の丸の西は江戸時代志水氏の屋敷があったところです。

大高城、二の丸と三の丸の間の土橋、掘

丹下砦・善照寺砦・中島砦 名古屋市緑区

2020年08月22日 13時40分08秒 | 名古屋市緑区
第2回 丹下砦・善照寺砦・中島砦
織田信長に尽しながらも最後は追放された佐久間信盛


鳴海城を囲むように3つの砦が置かれています。

この3つの砦は、織田信長が今川の城である鳴海城を見張り、牽制するために造った付城(つけじろ)です。
丹下砦は古屋敷を整備して、水野帯刀等を守備につかせ、、善照寺砦は文字通りお寺を改修して砦とし、佐久間信盛等を守備につかせ、中島砦は小さな村だったのを砦とし、梶川隆英を守備につかせたそうです。
桶狭間の戦いで織田信長は、清須城から熱田神宮(上知我麻神社)を経て、上手の道を通って丹下砦、善照寺砦へと入ります。この時点で兵力は約二千人程でした。

丹下砦
丹下砦は、現在光明寺裏手の辺りと言われていますが、遺構はありません。しかし、ここから鳴海城がよく見え、見張り、牽制という点では大変いい所に立地していると思いました。鳴海城から信長軍に攻撃してくる気配がないことを信長は感じたのかも知れません。

丹下砦から鳴海城を臨む

善照寺砦
次に、信長は善照寺砦に入りました。善照寺砦は、鳴海城と丘続きで丘の東西のはずれに位置します。鳴海城から攻撃される危険があるために、堀切という防御施設が造られていたそうです。

善照寺砦と鳴海城の間の堀切跡。鳴海小東交差点から南にのびる道です。

善照寺砦は小高い丘の上にありますので、そこから鳴海、有松、大高の様子が一望のもとに見えます。今川義元が桶狭間山で休憩していること、鷲津、丸根の砦が敵に攻撃され燃えていること、さらに敵の一部が大高城でも休息している事、そして、何よりも今川勢の兵力が分散していることを見て取ったのだと思います。信長は勝機とみて、善照寺砦から中島砦へ移動しようとします。しかし、善照寺砦から中島砦への道は「深田」(低湿地帯)で、一本道です。敵に見つかり、攻撃される可能性が高いのです。すかさず家老が止めに入ります。「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども・・・」周りは低湿地、道は一本、しかも、わが兵が少ないことが丸見えです。もってのほかです。と家老たちが馬の轡を引き、口々に止めたのだが、信長は、それを振り切って中島砦への行軍を決行します。

中島砦跡 現在は住宅になっています。門の中に入ると、すぐ石碑があります。

佐久間信盛
善照寺砦を守っていたのは、佐久間信盛たちです。止めに入った家老とはこの佐久間信盛ではないかと思われます。佐久間信盛は織田家では重鎮の一人で、この後も数々の信長の戦いに参加し、武功を上げます。信長の天下統一への道に大きく貢献していました。しかし、少しずつ信長との関係がおかしくなり、信頼関係がなくなっていきます。そして天正8年(1580)息子信栄と共に信長から一九か条の折檻状を受け、織田家から追放処分となってしまいます。そして1582年高野山で寂しく亡くなっています。
中島砦からさらに信長は、桶狭間に向かって行きます。こんども家老に止められますが、敵は疲れている、勝機はあると兵を鼓舞し、今川本陣へと進軍していきます。